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思い出す事など
一
ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い朝夕あさゆうを送ったのももう三カ月の昔になる。その頃ころは二階の廂ひさしから六尺に余るほどの長い葭簀よしずを日除ひよけに差し出して、熱ほてりの強い縁側えんがわを幾分いくぶんか暗くしてあった。その縁側に是公ぜこうから貰った楓かえでの盆栽ぼんさいと、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も凌しのぎ暑さも紛まぎらしていた。向むこうに見える高い宿屋の物干ものほしに真裸まっぱだかの男が二人出て、日盛ひざかりを事ともせず、欄干らんかんの上を危あぶなく渡ったり、または細長い横木の上にわざと仰向あおむけに寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな逞たくましい体格になって見たいと羨うらやんだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う不慥ふたしかな点において、夢と同じくはかない過去である。
病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の病やまいに罹かかって、寝たまま東京へ戻って来こようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は潜くぐらずに釣台つりだいに乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
帰る日は立つ修善寺しゅぜんじも雨、着く東京も雨であった。扶たすけられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入いらなかった。目礼もくれいをする事のできたのはその中うちの二三に過ぎなかった。思うほどの会釈えしゃくもならないうちに余は早く釣台の上に横よこたえられていた。黄昏たそがれの雨を防ぐために釣台には桐油とうゆを掛けた。余は坑あなの底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を開あいた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を撲うつ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が微かすかながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で森成もりなりさんが枕元まくらもとの信玄袋しんげんぶくろの口に挿さし込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
釣台に野菊も見えぬ桐油哉かな
これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ舁かき上あげられて、三カ月前ぜんに親しんだ白いベッドの上に、安らかに瘠やせた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある棟むねには患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
この静かな宵よいを心地ここちよく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる中村是公なかむらぜこうであった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの暗合あんごうを面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、鈴木禎次すずきていじと鈴木時子すずきときこの頭文字かしらもじを組み合わしたもので、妻さいの妹いもととその夫おっとの事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、明朝あすまた来きたるべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
病室は畳も青かった。襖ふすまも張はり易かえてあった。壁も新あらたに塗ったばかりであった。万よろず居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、畳替たたみがえをして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど奇麗きれいである。その約束の日から指を折って勘定かんじょうして見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。
思いけりすでに幾夜いくよの蟋蟀きりぎりす
その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。
二
病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞ御逢おあいの節は宜よろしくと挨拶あいさつした。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。すると明日あくるひの朝妻さいが来て枕元に坐すわるや否や、実はあなたに隠しておりましたが長与ながよさんは先月せんげつ五日いつかに亡なくなられました。葬式には東ひがしさんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたの危篤きとくだった時分ですと云う。余はこの時始めて附添つきそいのものが、院長の訃ふをことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくは茫然ぼうぜんとしたまま黙っていた。
院長は今年の春から具合が悪かったので、この前ぜん入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気の由よしを聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云う言伝ことづてがあった。その後ごも副院長を通じて、よろしくと云う言伝ことづてが時々あった。
修善寺しゅぜんじで病気がぶり返して、社から見舞のため森成もりなりさんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を計はからってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいる雪鳥君せっちょうくんから聞いたその文句の音おんだけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地に留とどまり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶん厳おごそかに聞える命令的なものであった。
院長の容態ようだいが悪くなったのは余の危篤に陥おちいったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に吐はいて傍人ぼうじんからとうてい回復の見込がないように思われた二三日後あと、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど経たって、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の幅はばの縮ちぢまってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く確たしかめられたとき、辛抱強く骨の上に絡からみついていてくれた余の命の根は、辛かろうじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、幾度いくたびか枯れ、幾度か代って、萩、桔梗ききょう、女郎花おみなえしから白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月余よの後のち、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に盛得もりえて、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰る明あくる朝妻さいが来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら篤あつく謝意でも述べようと思っていた。
逝ゆく人に留とどまる人に来きたる雁かり
考えると余が無事に東京まで帰れたのは天幸てんこうである。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの悪度胸わるどきょうに過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を踏ふみ外はずした人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。
ただ一羽来くる夜ありけり月の雁かり
三
ジェームス教授の訃ふに接したのは長与院長の死を耳にした明日あくるひの朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁ページ繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公おおやけにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠えいみんの報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝ゆかるとあるから、指を折って勘定かんじょうして見ると、ちょうど院長の容体ようだいがしだいに悪い方へ傾いて、傍はたのものが昼夜ちゅうや眉まゆを顰ひそめている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生しせいの境さかいに彷徨ほうこうしていた頃である。思うに教授の呼息いきを引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠やせこけた手頸てくびに、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。
教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。修善寺しゅぜんじへ立つとき、向むこうへ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに鞄かばんの中に入れた。ところが着いた明日あくるひから心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階に寝転ねころびながら、一日いちにち二日ふつかは少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢の募つのるに伴つれて読書は全く廃よさなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。
病牀びょうしょうにありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから幾日目いつかめになるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。仰向あおむけに寝て、両方の肘ひじを蒲団ふとんに支えて、あのくらいの本を持ち応こたえているのにずいぶんと骨が折れた。五分と経たたないうちに、貧血の結果手が麻痺しびれるので、持ち直して見たり、甲を撫なでて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は苦くもなく会得えとくができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時が始はじめてであった。嬉うれしいので、妻さいを呼んで、身体からだの割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの危篤あぶなかった二三日の間などは取り扱い悪にくくて大変弱らせられましたと答えた。
多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了おわった。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推アナロジーで哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法ダイアレクチックを嫌きらうものではない。また妄みだりに理知主義インテレクチュアリズムを厭いといもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚ひしあいよるような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西フランスの学者ベルグソンの説を紹介する辺あたりを、坂に車を転がすような勢いきおいで馳かけ抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
今でも覚えている。一間ひとまおいて隣にいる東君ひがしくんをわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に能文家のうぶんかだと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという明暸めいりょうな答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは流暢りゅうちょうだとか、あの人のは細緻さいちだとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い糺ただした。
教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に難渋なんじゅうな文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記を検しらべて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを読よみ了おわる。好い本を読んだと思う」と覚束おぼつかない文字もんじで認したためてある。名前や標題に欺だまされて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた長与病院長ながよびょういんちょうは、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、空漠くうばくなる余の頭に陸離りくりの光彩を抛なげ込こんでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
菊の雨われに閑かんある病やまい哉かな
菊の色縁えんに未いまだし此この晨あした
(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾いかんとするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)
四
病やまいの重かった時は、固もとよりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ去さりかつ来きたるわが脳裡のうりの現象は、極きわめて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯しょうがいに一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥はじとも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が利きかなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を掠かすめて去さる心の波紋はもんは、随したがって起おこるかと思えば随したがって消えてしまった。余は薄ぼけて微かすかに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った引合ひきあいで、他日彼が法庭ほうていへ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を旨むねとする几帳面きちょうめんな学者の記憶でも、記憶はこれほどに不慥ふたしかなものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を経ふれば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
わが手の利きかぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸いっするものまた少からずと云っても嘘うそにはならない。わが病気の経過と、病気の経過に伴つれて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙かるはずみをしてやり損そこなわなければいいがと心配してくれたものもある。
その中で一番苦にがい顔をしたのは池辺三山君いけべさんざんくんであった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想ぶあいそうな声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌たいくつしのぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶あいさつであった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸さんが湧わく恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
遺却新詩無処尋
。
然隔
対遥林
。
斜陽満径照僧遠
。
黄葉一村蔵寺深
。
懸偈壁間焚仏意
。
見雲天上抱琴心
。
人間至楽江湖老
。
犬吠鶏鳴共好音
。
と云う詩を遺おくった。巧拙こうせつは論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴ことを置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違ちがいないが、ただ当時の余の心持を咏えいじたものとしてはすこぶる恰好かっこうである。宮本博士が退屈をすると酸さんがたまると云ったごとく、忙殺ぼうさつされて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮せんずるところ、人間は閑適かんてきの境界きょうがいに立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪むさぼり得うる今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
もっとも趣おもむきから云えばまことに旧ふるい趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与あずからざる境地に存している。現今げんこんの吾われらが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽あおられて、三百六十五日の間、傍目わきめもふらず、しかく人世を観かんじたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意しんいを吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病やまいに因よってこの陳腐ちんぷな幸福と爛熟らんじゅくな寛裕くつろぎを得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って纔わずかに享うけえたこの長閑のどかな心持を早くも失わんとしつつある。まだ床とこを離れるほどに足腰が利きかないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛念けねんしているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐じゅっかいと叙事に過ぎないが、その中うちにはこの陳腐ちんぷながら払底ふっていな趣おもむきが、珍らしくだいぶ這入はいって来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香かおりを懐なつかしみたいと思う。
五
修善寺しゅぜんじにいる間は仰向あおむけに寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記つけ込こんだ。時々は面倒な平仄ひょうそくを合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿みていこうとして日記の中に書きつけた。
余は年来俳句に疎うとくなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。
けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。平生へいぜいはいかに心持の好くない時でも、いやしくも塵事じんじに堪たえ得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜じょうじゅうにちや共に生存競争裏せいぞんきょうそうりに立つ悪戦の人である。仏語ぶつごで形容すれば絶えず火宅かたくの苦くを受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自みずから進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結きしょうてんけつの四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙すきがあるような心持がして、隈くまも残さず心を引ひき包くるんで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を嫉ねたむ実生活の鬼の影が風流に纏まつわるためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻弄ほんろうされて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら佳句かくと好詩こうしができたにしても、贏かち得うる当人の愉快はただ二三同好どうこうの評判だけで、その評判を差し引くと、後あとに残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他ひとも自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前いちにんまえ働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑のどかな春がその間から湧わいて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄できばえの如何いかんはまず措おいて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴とうといか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛まぎらすため、閑かんに強しいられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳はね返って、むっちりとした余裕を得た時、油然ゆうぜんと漲みなぎり浮かんだ天来てんらいの彩紋さいもんである。吾ともなく興の起るのがすでに嬉うれしい、その興を捉とらえて横に咬かみ竪たてに砕くだいて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない趣おもむきを判然はっきりと眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる遑いとまさえない。
病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な見舞みまいを受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意に背そむかないほどに詳くわしい礼状を出して、自分がつい死にもせず今日こんにちに至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」を牀上しょうじょうに書き始めたのは、これがためである。――各々めいめいに向けて云い送るべきはずのところを、略して文芸欄ぶんげいらんの一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を挟はさむのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでも好いいとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、一瞥いちべつの迅ときうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
秋の江えに打ち込む杭くいの響かな
これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つの事相じそうに相応したような情調が当時絶えずわが微かすかなる頭の中を徂徠そらいした事はいまだに覚えている。
秋の空浅黄あさぎに澄めり杉に斧おの
これも同じ心の耽ふけりを他ほかの言葉で云い現したものである。
別るるや夢一筋ゆめひとすじの天の川
何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいは仄ほのかに東洋城とうようじょうと別れる折の連想が夢のような頭の中に這回はいまわって、恍惚こうこつとでき上ったものではないかと思う。
当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに挙あげた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
秋風や唐紅からくれないの咽喉仏のどぼとけ
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって含蓄がんちくが足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。
風流人未死
。
病裡領清閑
。
日々山中事
。
朝々見碧山
。
詩しに圏点けんてんのないのは障子しょうじに紙が貼はってないような淋さびしい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき平仄ひょうそくもよく弁わきまえず、韻脚いんきゃくもうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか利目ききめのない工夫くふうをあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄韻字いんじはさておいて)、詩の趣おもむきは王朝以後の伝習で久しく日本化されて今日こんにちに至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると億劫おっくうでなお手を下くださない。ただ斯様かように現実界を遠くに見て、杳はるかな心にすこしの蟠わだかまりのないときだけ、句も自然と湧わき、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして後あとから顧みると、それが自分の生涯しょうがいの中うちで一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき器うつわが、無作法ぶさほうな十七字と、佶屈きっくつな漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を這裏しゃりに楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の恰好かっこうな詩形のないのを憾うらみとはけっして思わないものである。
六
始めて読書欲の萌きざした頃、東京の玄耳君げんじくんから小包で酔古堂剣掃すいこどうけんそうと列仙伝れつせんでんを送ってくれた。この列仙伝は帙入ちついりの唐本とうほんで、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の挿画さしえを一々丁寧ていねいに見た。そうしてこれら仙人の髯ひげの模様だの、頭の恰好かっこうだのを互に比較して楽んだ。その時は画工えかきの筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う疎まばらな髯を風に吹かせなければ仙人の群むれに入いる事は覚束おぼつかないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の容貌ようぼうに表われてくる共通な骨相を飽あかず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない悠長ゆうちょうな心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。
けれども惜しい事に本文は挿画ほど雅がに行かなかった。中には欲の塊かたまりが羽化うかしたような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番無雑作むぞうさでかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の垢あかや鼻糞はなくそを丸めて丸薬がんやくを作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
しかし挿画さしえよりも本文よりも余の注意を惹ひいたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと長寿法ちょうじゅほうとか養生訓ようじょうくんとか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を検しらべて見ると「静せいこれを性せいとなせば心其中そのうちにあり、動どうこれを心となせば性其中にあり、心生しょうずれば性滅めっし、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに半頁はんページばかりを埋うずめている。
その時の余は印気インキの切れた万年筆まんねんふでの端を撮つまんで、ペン先へ墨の通うように一二度揮ふるのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で樫かしの六尺棒を振り廻すよりも辛つらいくらいであった。それほど衰弱の劇はげしい時にですら、わざわざとこんな道経どうきょうめいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても真まことに愉快である。子供の時聖堂せいどうの図書館へ通って、徂徠そらいの
園十筆けんえんじっぴつをむやみに写し取った昔を、生涯しょうがいにただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の所作しょさが単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。長生ながいきの工夫くふうのための列仙伝が、長生もしかねまじきほど悠長ゆうちょうな心の下もとに、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び来きたるまじき奇縁である。
仏蘭西フランスの老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも人並ひとなみの気力はあると見えて、この間のスチュージオには目醒めざましい木炭画が十種ほど載っていた。国朝六家詩鈔こくちょうりくかししょうの初にある沈徳潜しんとくせんの序には、乾隆丁亥夏五けんりゅうていがいかご長洲ちょうしゅう沈徳潜しんとくせん書しょす時に年九十有五。とわざわざ断ってある。長生ながいきの結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。不惑ふわくの齢よわいを越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか固もとより分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二返へんも死んだと評判された。一度は弔詩ちょうしまで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を悦よろこぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。
七
ウォードの著わした社会学の標題には力学的ダイナミックという形容詞をわざわざ冠かんしてあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて魯西亜語ロシアごに翻訳された時、魯国ろこくの当局者は直ただちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を在魯ざいろの友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と社会学ソシオロジーという字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に飽あき足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの弊へいに陥おちいりやすく、また陥りつつあるように見えるのを遺憾いかんと批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の恥はじを白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の体裁ていさいからしてがすでにスペンサーの綜合哲学そうごうてつがくに類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく分厚ぶあつに書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき悪にくい。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を失しっしたこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを宅うちから取り寄せてとうとう力学的ダイナミックに社会学ソシオロジーを病院で研究する事にした。
ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして肝心かんじんの社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を下くだすのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー彗星すいせいの尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その中うちで宇宙創造論コスモジェニーと云う厳いかめしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず昔むかし学校で先生から教わった星雲説せいうんせつの記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な仕合しあわせのように喜んでいる。そうして自分の癒なおりつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ冀こいねがっている。自分の介抱かいほうを受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた朋友ほうゆうやら、見舞に来てくれた誰彼たれかれやらには篤あつい感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが潜ひそんでいると信じている。その証拠しょうこにはここに始めて生き甲斐がいのあると思われるほど深い強い快よい感じが漲みなぎっているからである。
しかしこれは人間相互の関係である。よし吾々われわれを宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の沙汰さたである。三世さんぜに亘わたる生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に因よって無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に微かすかな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
限りなき星霜せいそうを経て固かたまりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお膨脹ぼうちょうして瓦斯ガスに変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、今日こんにちまで分離して運行した軌道と軌道の間が隙間すきまなく充みたされた時、今の秩序ある太陽系は日月星辰じつげつせいしんの区別を失って、爛らんたる一大火雲のごとくに盤旋ばんせんするだろう。さらに想像を逆さかさまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の一片いっぺんを振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ
々えんえんたる一塊いっかいの瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の髣髴ほうふつたる今日から溯さかのぼって、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に引張ひっぱれば、一糸いっしも乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の御蔭おかげによって生息する吾われら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――永劫えいごうに展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を貪むさぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて心遣こころづかいさえした事がない。その心根こころねを糺ただすと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――活溌かっぱつなる酸素が地上の固形物と抱合ほうごうしてしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、月球げっきゅうの表面に瓦斯ガスのかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く逝ゆく他人を悲しみ、友を懐なつかしみ敵を悪にくんで、内輪だけの活計かっけいに甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
進んで無機有機を通じ、動植両界を貫つらぬき、それらを万里一条の鉄のごとくに隙間すきまなく発展して来た進化の歴史と見傚みなすとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一頁ページを埋うずむべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、百尺竿頭ひゃくせきかんとうに上のぼりつめたと自任する人間の自惚うぬぼれはまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに溯さかのぼっては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に合点がてんせしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは辛からきジスイリュージョンを甞なめている。
種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一疋ぴきの大口魚たらが毎年生む子の数は百万疋とか聞く。牡蠣かきになるとそれが二百万の倍数に上のぼるという。そのうちで生長するのはわずか数匹すひきに過ぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者らんぴしゃであり、徳義上には恐るべく残酷な父母ふぼである。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を易かえて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当しとうの成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟りくつは毫ごうも存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間大磯おおいそで亡なくなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向たむけの句を作った。
有る程の菊抛なげ入れよ棺かんの中
八
忘るべからざる八月二十四日の来きたる二週間ほど前から余はすでに病んでいた。縁側えんがわを絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが苦くになって、蒸むし暑い時ですら障子しょうじは常に閉たて切っていた。三度三度献立こんだてを持って誂あつらえを聞きにくる婆さんに、二品ふたしな三品みしな口に合いそうなものを注文はしても、膳ぜんの上に揃そろった皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、箸はしを執とる気にはまるでなれなかった。そのうちに嘔気はきけが来た。
始めは煎薬せんやくに似た黄黒きぐろい水をしたたかに吐いた。吐いた後あとは多少気分が癒なおるので、いささかの物は咽喉のどを越した。しかし越した嬉うれしさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の滞とどこうる重き苦しみに堪たえ切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには緑青ろくしょうのような美くしい液体になった。しかも一粒いちりゅうの飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の下もとに、卒然として容赦なく食道を逆さかさまに流れ出た。
青いものがまた色を変えた。始めて熊くまの胆いを水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、金盥かなだらいになみなみと反もどした時、医者は眉まゆを寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を指ゆびさしていったい何が出るのかと質問した。医者は興きょうのない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し紅くれないを含んで、咽喉を出る時腥なまぐさい臭かおりがぷんと鼻を衝ついたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。玄耳君げんじくんが驚ろいて森成もりなりさんに坂元さかもと君を添えてわざわざ修善寺しゅぜんじまで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ伝つたわって、そこからまた直すぐに社へ通じたからである。別館から馳かけて来た東洋城とうようじょうが枕辺まくらべに立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも容いれ得えぬほどに烈はげしく活動する胸を懐いだいて朝夕あさゆう悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの截然せつぜんたる一苦痛を秒ごとに深く印いんし来くるばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ一色ひといろの悶もだえに塗抹とまつされて、臍上方さいじょうほう三寸さんずんの辺あたりを日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の身体からだの中うちで、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に冒おかされて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後鷹揚おうような心持をゆたかに抱いて、爽さわやかな秋の日の光りに、両の眼を颯さっと開あけたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に這入はいって、そこに仰向あおむけに倒れていたかった。
森成さんが来てもこの苦しみはちょっと除とれなかった。胸の中を棒で攪かき混まぜられるような、また胃の腑ふが不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、異いな心持に堪たえかねて、床とこの上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、腥なまぐさいものを面まのあたり咽喉のどの奥から金盥かなだらいの中に傾けた事もあった。森成さんの御蔭おかげでこの苦しみがだいぶ退ひいた時ですら、動くたびに腥い噫おくびは常に鼻を貫つらぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
この煩悶はんもんに比くらべると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の一生涯いっしょうがいにあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は下しものような詩を作った。
円覚曾参棒喝禅
。
瞎児何処触機縁
。
青山不拒庸人骨
。
回首九原月在天
。
九
忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆さかさまに向け直して、後戻あともどりをした。
東京を立つときから余は劇はげしく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り後おくれた東洋城とうようじょうの電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに御殿場ごてんばで一時間ほど待ち合せていた間まに、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ這入はいって行った。するとそこに腰囲何尺よういなんじゃくとでも形容すべきほど大きな西洋人が、椅子いすに腰をかけてしきりに絵端書えはがきの表に何か認したためていた。余は駅長に向って当用を弁ずる傍かたわら、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、嗄かれた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な用向ようむきであるから平生ならばどうとも挨拶あいさつができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。固もとより云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が咽喉のどを通るとき千条ちすじに擦すり切きれでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く光沢つやを失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の助たすけを藉かりて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
修善寺しゅぜんじに着いてからも咽喉のどはいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の拵こしらえてくれた手製の含漱がんそうを用いたりなどして、辛からく日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には北白川きたしらかわの宮みやがおいでになっていた。東洋城は始終しじゅうそちらの方の務つとめに追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて蚊
かやの外まで来て、一言ひとこと見舞を云うのが常であった。
そういう夜よの事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない御所望ごしょもうを耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上羽織はおりも袴はかまも持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、妄みだりに貴たっとい殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを憚はばかって、確しかとした御受はしなかったのだそうである。
余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城は故郷ふるさとにある母の病やまいを見舞うべく、去る人と入れ代ってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなく御立おたちになった。そうして忘るべからざる二十四日の来た頃、東洋城は余に関する何の消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四五分の停車時間を偸ぬすんで、三島から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城が御暇乞おいとまごいに上がった時、余の病気の事を御忘れにならなかった殿下から、もし逢あう機会があったなら、どうか大事にするようにというような篤あつい意味の御言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病も癒いえ、胃の苦しみも去った今の余は、謹つつしんで殿下に御礼を申上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。
十
雨がしきりに降った。裏山の絶壁を真逆まさかに下くだる筧かけいの竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、物憂ものうく室へやの中に呻吟しんぎんしつつ暮していた。人が寝静ねしずまると始めて夢を襲おそう(欄干らんかんから六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。
お仙せんと云う下女が来て、昨夕ゆうべ桂川かつらがわの水が増したので門の前の小家こいえではおおかたの荷を拵こしらえて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に鎖とざされた山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、嘘うそか真まことか分らないことを聞かされたときは、御伽噺おとぎばなしでも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしい香においに包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いる温泉ゆの宿を、浮世から遠くへ離隔りかくして、どんな便たよりも噂うわさのほかには這入はいってこられない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。
とかくするうちにこの楽たのしい空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとく後おくれ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょに濡ぬれていた。湿った頁ページを破けないように開けて見て、始めて都には今洪水こうずいが出盛でさかっているという報道を、鮮あざやかな活字の上にまのあたり見たのは、何日いつかの事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に控ひかえて、その日その日の出来栄できばえを案じながら病む身には、けっして嬉うれしい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼が覚さめて、身体からだの置所がないほど苦くるしい時には、東京と自分とを繋つなぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り劇はげし過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり打壊うちこわれ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に浸つかっていた。余はほとんど崖がけと共に崩くずれる吾家わがやの光景と、茅ちが崎さきで海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。雨のしたたか降る前に余は妻さいに宛てて手紙を出しておいた。それには好い部屋がないから四五日したら帰ると書いた。また病気が再発して苦くるしんでいると云う事はわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないか分らないくらいに考えて寝ていた。
そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力を費ついやして、やっとの事無事に宛名あてなの人に通ずるや否や、その宛名の人をして封を切らぬ先に少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞と平信へいしんをかねたものに過ぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれは草平君そうへいくんを煩わずらわしたものと知った。
雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪い方へ傾かたぶいて行った。その時、余は夜の十二時頃長距離電話をかけられて、硬かたい胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅ヶ崎の子供も無事、東京の家も無事という事だけが微かすかに分った。しかしその他は全く不得要領で、ほとんど風と話をするごとくに纏まとまらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわが妻さいであるという事さえ覚さとらずにこちらからあなたという敬語を何遍か繰返したくらい漠然ぼんやりした電話であった。東京の音信たよりが雨と風と洪水の中に、悩んでいる余の眼に始めて暸然と映ったのは、坐る暇もないほど忙いそがしい思いをした妻が、当時の事情をありのままに認したためた巨細こさいの手紙がようやく余の手に落ちた時の事であった。余はその手紙を見て自分の病やまいを忘れるほど驚いた。
病んで夢む天の川より出水でみずかな
十一
妻さいの手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。冒頭に東洋城から余の病気の報知を受けた由と、それがため少からず心を悩ましている旨むねを記して、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話だけでもと思って、その日の中には通じかねるところを、無理な至急報にして貰もらって、夜半やはんに山田の奥さんの所からかけたという説明が書いてあった。茅ちヶ崎さきにいる子供の安否についても一方ひとかたならぬ心配をしたものらしかった。十間坂下じっけんざかしたという所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。そのほか市中たいていの平地ひらちは水害を受けて、現に江戸川通などは矢来やらいの交番の少し下まで浸つかったため、舟に乗って往来ゆききをしているという報知も書き込んであった。しかしその頃は後おくれながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻の便りがなくてもほぼ分っていた。余の心を動かすべき現象は漠然ばくぜんたる大社会の雨や水やと戦う有様にあると云うよりも、むしろ己おのれだけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二人までに、この雨と水が命の間際まぎわまで祟たたった顛末てんまつを、余はこの書面の中うちに見出したのである。
一つは横浜に嫁とついだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。
「……梅子事末すえの弟を伴つれて塔とうの沢さわの福住ふくずみへ参り居り候そうろう処、水害のため福住は浪なみに押し流され、浴客よくかく六十名のうち十五名行方不明ゆくえふめいとの事にて、生死の程も分らず、如何いかんとも致し方なく、横浜へは汽車不通にて参る事叶かなわず、電話は申込者多数にて一日を待たねば通じ不申もうさず……」
後あとには、いろいろ込み入った工面くめんをして電話をかけた手続が書いてあって、その末に会社の小使とかが徒歩で箱根まで探しに行ったあげく、幽霊のように哀あわれな姿をした彼女かのおんなを伴れて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んで来て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸を絡からみ合あわせなければならない恐ろしい事実が潜ひそんでいるとも気がつかずに、尾頭おかしらもない夢とのみ打ち興じてすましていた自分の無智に驚いた。またその無智を人間に強しいる運命の威力を恐れた。
もう一つ余の心を躍おどらしたのは、草平君に関する報知しらせであった。妻さいが本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりで柳町やなぎちょうの低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥を覗のぞいて見ると、かねて見覚みおぼえのある家がくしゃりと潰つぶれていたそうである。
「家うちの人達は無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、薪屋まきやの御上おかみさんが、昨晩の十二時頃に崖がけが崩くずれましたが、幸いにどなたも御怪我おけがはございません。ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来て見ると、まだ水の引き切らない床下ゆかしたのぴたぴたに濡ぬれた貸家に畳建具たたみたてぐも何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いか憐あわれな姿でお種たねさんが、私わたしの顔を見ると馳かけ出して来ました。……晩の御飯を拵こしらえる事もできないだろうと思って、御寿司おすしを誂あつらえて御夕飯の代りに上げました……」
草平君は平生ふだんから崖崩れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家の潰つぶれた時には、外ほかのものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へ怪我けがをしたそうである。その怪我の事も手紙の中うちに書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。
家を流し崖を崩す凄すさまじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声を揚あげた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもって免まぬかれた。そうして余は毫ごうも二人の災難を知らずに、遠い温泉でゆの村に雲と煙けぶりと、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるという報知しらせが着いたときは、余の病やまいがしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。
風に聞け何いずれか先に散る木この葉は
十二
つづく雨の或ある宵よいに、すこし病やまいの閑ひまを偸ぬすんで、下の風呂場へ降りて見ると、半切はんきれを三尺ばかりの長ながさに切って、それを細長く竪たてに貼はりつけた壁の色が、暗く映る灯ひの陰に、ふと余の視線を惹ひいた。余は湯壺ゆつぼの傍わきに立ちながら、身体からだを濡しめす前に、まずこの異様の広告めいたものを読む気になった。真中に素人しろうと落語大会と書いて、その下に催主さいしゅ裸連はだかれんと記してある。場所は「山荘にて」と断って、催もよおしのあるべき日取をその傍に書き添えた。余はすぐ裸連の何人なんびとなるかを覚さとり得た。裸連とは余の隣座敷にいる泊り客の自撰にかかる異名いみょうである。昨日きのうの午ひる襖越ふすまごしに聞いていると、太郎冠者たろうかじゃがどうのこうのと長い評議の末、そこんところでやるまいぞ、やるまいぞにしたら好いじゃねえかと云うような相談があった。その趣向しゅこうは寝ている余とは固もとより無関係だから、知ろうはずもなかったが、とにかくこの議決が山荘での催もよおしに一異彩を加えた事はたしかに違ないと思った。余は風呂場の貼紙はりがみに注意してある日付と、裸連はだかれんの趣向を凝こらしていた時刻を照らし合せつつ、この落語会なるものの、すでに滞とどこおりなくすんだ昨日の午後を顧みて、裸連――少くとも裸連の首脳の構成かたちづくる隣座敷の泊り客……の成功を祝せざるを得なかった。
この泊り客は五人連ごにんづれで一間ひとまに這入はいっていた。その中うちの一番年嵩としかさに見える三十代の男に、その妻君と娘を合せるとすでに三人になる。妻君は品ひんのいい静かな女であった。子供はなおさらおとなしかった。その代り夫はすこぶる騒々しかった。あとの二人はいずれも二十代の青年で、その一人は一行のうちでもっともやかましくふるまっていた。
誰でも中年以後になって、二十一二時代の自分を眼の前に憶おもい浮べて見ると、いろいろ回想の簇むらがる中に、気恥きはずかしくて冷汗の流れそうな一断面を見出すものである。余は隣の室へやに呻吟しんぎんしながら、この若い男の言葉使いや起居たちいを注意すべく余儀なくされた結果として、二十年の昔に経過した、自分の生涯しょうがいのうちで、はなはだ不面目と思わざるを得ない生意気さ加減を今更のように恐れた。
この男は何の必要があってか知らないけれども、絶えず大道だいどうで講演でもするように大きな声を出して得意であった。そうして下女が来ると、必ず通客つうかくめいた粋いきがりを連発した。それを隣坐敷となりざしきで聞いていると、ウィットにもならなければヒューモーにもなっていないのだから、いかにも無理やりに、(しかも大得意に、)半可はんかもしくは四半可しはんかを殺風景に怒鳴どなりつけているとしか思われなかった。ところが下女の方では、またそれを聞くたびに不必要にふんだんな笑い方をした。本気とも御世辞おせじとも片のつかない笑い方だけれども、声帯に異状のあるような恐ろしい笑い方をした。病気にのみ屈託くったくする余も、これには少からず悩まされた。
裸連の一部は下座敷にもいた。すべてで九人いるので、自みずから九人組とも称となえていた。その九人組が丸裸になって幅六尺の縁側えんがわへ出て踊をおどって一晩跳はね廻った。便所へ行く必要があって、障子しょうじの外へ出たら、九人組は躍おどり草臥くたびれて、素裸すはだかのまま縁側に胡坐あぐらをかいていた。余は邪魔になる尻しりや脛すねの間を跨またいで用を足して来た。
長い雨がようやく歇やんで、東京への汽車がほぼ通ずるようになった頃、裸連は九人とも申し合せたように、どっと東京へ引き上げた。それと入れ代りに、森成さんと雪鳥君せっちょうくんと妻さいとが前後して東京から来てくれた。そうして裸連のいた部屋を借り切った。その次の部屋もまた借り切った。しまいには新築の二階座敷を四間よまともに吾有わがゆうとした。余は比較的閑寂な月日の下もとに、吸飲すいのみから牛乳を飲んで生きていた。一度は匙さじで突き砕くだいた水瓜すいかの底から湧わいて出る赤い汁を飲まして貰もらった。弘法様こうぼうさまで花火の揚あがった宵よいは、縁近く寝床を摺ずらして、横になったまま、初秋はつあきの天そらを夜半近やはんぢかくまで見守っていた。そうして忘るべからざる二十四日の来るのを無意識に待っていた。
萩はぎに置く露の重きに病む身かな
十三
その日は東京から杉本さんが診察に来る手筈てはずになっていた。雪鳥君が大仁おおひとまで迎むかえに出たのは何時頃か覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れない午過ひるすぎであったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れる事のできない、また室へやを出る事の叶かなわない余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだから、こう云うのも実は廂ひさしの先に余る空の端はしだけを目当めあてに想像した刻限こくげんである。――余は修善寺しゅぜんじに二月ふたつきと五日いつかほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。
杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し前に、妻さいの手から吸飲すいのみを受け取って、細長い硝子ガラスの口から生温なまぬるい牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならない掟おきてのようになっていたからである。その上できるだけ病人に営養を与えて、体力の回復の方から、潰瘍かいようの出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、否応いやおうなしに飲んだ。実を云うとこの日は朝から食慾が萌きざさなかったので、吸飲の中に、動く事のできぬほど濁った白い色の漲みなぎる様を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先に溜たまるしつ濃こい乳の味を予想して、手に取らない前からすでに反感を起した。強いられた時、余はやむなく細長く反そり返かえった硝子の管くだを傾けて、湯とも水とも捌さばけない液しるを、舌の上に辷すべらせようと試みた。それが流れて咽喉のどを下くだる後あとには、潔いさぎよからぬ粘ねばり強い香かが妄みだりに残った。半分は口直しのつもりであとから氷アイスクリームを一杯取って貰った。ところがいつもの爽さわやかさに引き更えて、咽喉のどを越すときいったん溶とけたものが、胃の中で再び固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。
診察の結果として意外にもさほど悪くないと云う報告を得た時、平生森成さんから病気の質たちが面白くないと聞いていた雪鳥君は、喜びの余りすぐ社へ向けて好いという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。
かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様を巨細こさい残らず記憶している気でいた。程経ほどへて妻さいの心覚こころおぼえにつけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(狼狽ろうばいした妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省に陥おちいるとあるのに気がついた時、余は妻は枕辺まくらべに呼んで、当時の模様を委くわしく聞く事ができた。徹頭徹尾明暸めいりょうな意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。
夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、悶もだえたさの余りに、せっかく親切に床の傍わきに坐すわっていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへ退どいてくれと邪慳じゃけんに命令した。それでも堪たえられなかったので、安静に身を横よこたうべき医師からの注意に背そむいて、仰向あおむけの位地いちから右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶に上のぼらない人事不省の状態は、寝ながら向むきを換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だと云う。
余はその時さっと迸ほとばしる血潮を、驚ろいて余に寄り添おうとした妻の浴衣ゆかたに、べっとり吐はきかけたそうである。雪鳥君は声を顫ふるわしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと云ったそうである。社へ電報をかけるのに、手が戦わなないて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六筒とうまでは覚えていますと答えた。
淋漓絳血腹中文
。
嘔照黄昏漾綺紋
。
入夜空疑身是骨
。
臥牀如石夢寒雲
。
十四
眼を開けて見ると、右向になったまま、瀬戸引せとびきの金盥かなだらいの中に、べっとり血を吐いていた。金盥が枕に近く押付けてあったので、血は鼻の先に鮮かに見えた。その色は今日こんにちまでのように酸の作用を蒙こうむった不明暸ふめいりょうなものではなかった。白い底に大きな動物の肝きものごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕元で含嗽うがいを上げましょうという森成さんの声が聞えた。
余は黙って含嗽をした。そうして、つい今しがた傍そばにいる妻に、少しそっちへ退いてくれと云ったほどの煩悶はんもんが忽然こつぜんどこかへ消えてなくなった事を自覚した。余は何より先にまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうと何であろうと、そんな事はいっこう気にかからなかった。日頃からの苦痛の塊かたまりを一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそごとのように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険な容体ようだいに逼せまっているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただ管くだの先から水が洩もれて肩の方へ流れるのが厭いやであった。左右の腕にも注射を受けたような気がした。しかしそれは確然はっきり覚えていない。
妻さいが杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に入いった。さよう潰瘍かいようではこれまで随分多量の血を止とめた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。硝子ガラスの中に彎曲わんきょくした一本の光が、線香煙花せんこうはなびのように疾とく閃きらめいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その咄嗟とっさの刹那せつなにすら、稲妻いなずまを眸ひとみに焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の手頸てくびをしかと握っていた。カンフルは非常によく利きくね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の蔽おおいをした。
傍はたがひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟はさんで下しものような話をした(その単語はことごとく独逸語ドイツごであった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余を昏睡こんすいの状態にあるものと思い誤って、忌憚きたんなき話を続けているうちに、未練みれんな余は、瞑目めいもく不動の姿勢にありながら、半なかば無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関する斯様かように大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云う料簡りょうけんならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつある間際まぎわにも、まだこれほどに機略を弄ろうし得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出しては微笑ほほえんでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、安臥あんがの地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と明暸めいりょうな調子で、私わたしは子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云って室へやを出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
冷やかな脈を護まもりぬ夜明方よあけがた
十五
強しいて寝返ねがえりを右に打とうとした余と、枕元の金盥かなだらいに鮮血を認めた余とは、一分いちぶの隙すきもなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛かみげを挟はさむ余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経へて妻さいから、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき悪戯いたずらをして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって毫ごうもその連結を妨さまたげ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から醒さめたという自覚さえなかった。陰かげから陽ひに出たとも思わなかった。微かすかな羽音はおと、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の匂におい、古い記憶の影、消える印象の名残なごり――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく髣髴ほうふつすべき霊妙な境界きょうがいを通過したとは無論考えなかった。ただ胸苦むなぐるしくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に入いり込こんだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と閃きらめいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの懸隔かけへだった二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が咄嗟とっさの際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、茫然ぼうぜんとして自失せざるを得なかった。
生死とは緩急かんきゅう、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常一束ひとたばに使用される言葉である。よし輓近ばんきんの心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく掌てのひらを翻ひるがえすと一般に、唐突とうとつなるかけ離れた二象面フェーゼスが前後して我を擒とりこにするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係を迹付あとづける事ができよう。
人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、明日あすは残りの半分の半分を喰え、その翌日あくるひはまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してから幾日目いくかめかに、ついにこの命令に背そむいて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手を拱こまぬいて空むなしく余のこれる柿の一片いっぺんを見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件の下もとに与えられたる一個の柿は、生涯しょうがい喰っても喰い切れる訳がない。希臘ギリシャの昔ゼノが足の疾ときアキリスと歩みの鈍のろい亀との間に成立する競争に辞ことばを託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容を構成かたちづくる個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その半なかばずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理に愚弄ぐろうされるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を免まぬかれて、生から死に行く径路けいろを、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。俄然がぜんとして死し、俄然として吾われに還かえるものは、否、吾に還ったのだと、人から云い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。
縹緲玄黄外
。
死生交謝時
。
寄託冥然去
。
我心何所之
。
帰来覓命根
。
杳
竟難知
。
孤愁空遶夢
。
宛動粛瑟悲
。
江山秋已老
。
粥薬
将衰
。
廓寥天尚在
。
高樹独余枝
。
晩懐如此澹
。
風露入詩遅
。
十六
安らかな夜はしだいに明けた。室へやを包む影法師が床とこを離れて遠退とおのくに従って、余はまた常のごとく枕辺まくらべに寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。病やまいのどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上に横よこたえて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く徘徊はいかいしていようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余は昨夕ゆうべの騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共に立たち退のいたのだろうぐらいの度胸でも据すわったものと見えて、何らの掛念けねんもない気分を、障子しょうじから射し込む朝日の光に、心地ここちよく曝さらしていた。実は無知な余を詐いつわり終おおせた死は、いつの間にか余の血管に潜もぐり込んで、乏ともしい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「容体ようだいを聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、妻さいのこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。
余は今でも白い金盥かなだらいの底に吐き出された血の色と恰好かっこうとを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分は寒天かんてんのように固まりかけた腥なまぐさいものが常に眼先に散らついていた。そうして吾わが想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こう劇はげしく身体からだに応こたえるのだろうといつでも不審に堪たえなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと昏睡こんすいするものだと聞いて、それに吾われとも知らず妻さいの肩に吐きかけた生血なまちの容積かさを想像の天秤てんびんに盛って、命の向う側に重おもりとして付け加えた時ですら、余はこれほど無理な工面くめんをして生き延びたのだとは思えなかった。
杉本さんが東京へ帰るや否や、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしい襟えりと襟飾えりかざりを着け易かえて、余の枕辺に坐ったとき、余は昨夕ゆうべ夜半よなかに、裄丈ゆきたけの足りない宿の浴衣ゆかたを着たまま、そっと障子しょうじを開けながら、どうかと一言ひとこと森成さんに余の様子を聞いていた彼人かのひとの様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものと御諦おあきらめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、後のちになってその顛末てんまつを審つまびらかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸の中うちは落ちついていたものをと云いたいくらいに、余は平常へいぜいの心持で苦痛なくその夜を明したのである。――話がつい外それてしまった。
杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口で急せいたので、看護婦は汽車で走る途々みちみちも、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いを挟さしはさんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。――これも回復期に向いた頃、病牀びょうしょうの徒然つれづれに看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。
かくすべての人に十の九まで見放された真中まなかに、何事も知らぬ余は、曠野こうやに捨てられた赤子あかごのごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らの煩悶はんもんをも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる病やまいのために、周囲の人の丁重ていちょうな保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の当あたり悪にくい安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争の辛からい空気が、直じかに通わない山の底に住んでいたのである。
露けさの里にて静しずかなる病やまい
十七
臆病者の特権として、余はかねてより妖怪ようかいに逢あう資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき鞭むちの下もとに萎縮いしゅくするとき、余は常に幽霊を信じた。けれども虎烈剌コレラを畏おそれて虎烈剌に罹かからぬ人のごとく、神に祈って神に棄すてられた子のごとく、余は今日きょうまでこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず出逢であわないのを当然と心得てすまして来た。
自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の灯火ともしびを一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオンという人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジの「死後の生」を読んだ。
死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだ後のちまでも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を換かわす。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。
独乙ドイツのフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべき所以ゆえんを説いた。石と土と鉱あらがねに霊があると云うならば、有るとするを妨さまたげる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とは如何いかなる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。
吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしても至極しごくと思われるが、肉体と共に活動する心的現象に斯様かようの作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。
大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、己おのれらの寄り集って拵こしらえている全部に対しては風馬牛ふうばぎゅうのごとく無頓着むとんじゃくであるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識の中うちに含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの類推るいすいより下くだし来きたるスピリチズムに都合よき仮定である。
仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の極きょく不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。
物理学者は分子の容積を計算して蚕かいこの卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数が這入はいると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に零れいを二十一付けた莫大ばくだいなものである。想像を恣ほしいままにする権利を有する吾々われわれもこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
形而下けいじかの物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと首肯うなずくだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき明暸めいりょうな知識が、吾人ごじんの内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合めいごうできよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人ひとに待つばかりである。
迎火むかいびを焚たいて誰たれ待つ絽ろの羽織はおり
十八
ただ驚ろかれたのは身体からだの変化である。騒動のあった明あくる朝、何かの必要に促うながされて、肋あばらの左右に横たえた手を、顔の所まで持って来きようとすると、急に持主でも変ったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人を煩わずらわす手数てかずを厭いとって、無理に肘ひじを杖つえとして、手頸てくびから起しかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上った筋きんの力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、再び元の位置にわが腕を落そうとすると、それがまた安くは落ちなかった。無論そのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけの事ではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余はおろす事も上げる事も、また半途に支える事もできない腕を意識しつつそのやりどころに窮した。ようやく傍はたのものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっと床とこの上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながらほとんど想像がつかなかった。後から考えて見て、あれは全く護謨風船ゴムふうせんに穴が開あいて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああ身体からだに応こたえたのだろうと判断した。それにしても風船はただ縮ちぢまるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が――
余は生れてより以来この時ほど吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼が覚さめた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、宵よいに、酒を被こうぶった勢いきおいで、多数を相手に劇はげしい喧嘩けんかを挑いどんだ末、さんざんに打ち据すえられて、手も足も利きかなくなった時のごとくに吾を鈍にぶく叩たたきこなしていた。砧きぬたに擣うたれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられ了おわった状態を適当に形容するには、
ぶちのめす
と云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、関節ふしぶしがみしみしと鳴った。
昨日きのうまで狭い布団ふとんに劃かくされた余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、昨日きのうまで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。――頭は無論枕に着いていた。
これほどに切りつめられた世界に住む事すら、昨夕ゆうべは許されそうに見えなかったのにと、傍はたのものは心の中うちで余のために観じてくれたろう。何事も弁わきまえぬ余にさえそれが憐あわれであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(静せい)であった。したがって安全であった。綿わたを敷いた棺かんの中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を襲おそわざる亡者もうじゃの気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけ隔へだってはいなかったろう。
しばらくすると、頭が麻痺しびれ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に載のせられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余一人いちにんの狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を逃のがれるべく余は一寸いっすんのほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして坐すわっているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ傍かたわらを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと仰向あおむけに寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そうして天井てんじょうから釣った長い氷嚢ひょうのうの糸をしばしば見つめた。その糸は冷たい袋と共に、胃の上でぴくりぴくりと鋭どい脈を打っていた。
朝寒あささむや生きたる骨を動かさず
十九
余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。
力を商あきないにする相撲すもうが、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経たたないうちに、恐るべき波を上下じょうげに描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条いくすじとなく背中を流れ出す。
最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじて齎もたらす努力の結果である。静かなのは相剋あいこくする血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺ごさつの和わという。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの気魄きはくを消耗しょうこうせねばならぬかを思うとき、看みる人は始めて残酷の感を起すだろう。
自活の計はかりごとに追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾われらは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子さいしとに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々にちにち自己と世間との間に、互殺の平和を見出みいだそうと力つとめつつある。戸外そとに出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの中うちに殺伐さつばつの気に充みちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院えこういんのそれのように、一分足いっぷんたらずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想おもい至るならば、我等は神経衰弱に陥おちいるべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友ほうゆうもある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、
然けいぜんとして独ひとりその間に老ゆるものは、見惨みじめと評するよりほかに評しようがない。
古臭い愚痴ぐちを繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て顛覆くつがえしたからである。
血を吐いた余は土俵の上に仆たおれた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向あおむけに寝て、わずかな呼吸いきをあえてしながら、怖こわい世間を遠くに見た。病気が床の周囲ぐるりを屏風びょうぶのように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと焦慮あせっても、調ととのわない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻さいが来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己ちきや朋友が代る代る枕元まくらもとに来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に逼せまる結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向あおむけに寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住すみ悪にくいとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
四十を越した男、自然に淘汰とうたせられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙いそがしい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病やまいに生き還かえると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに打壊うちこわす者を、永久の敵とすべく心に誓った。
馬上青年老
。
鏡中白髪新
。
幸生天子国
。
願作太平民
。
二十
ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーには、人の知るごとく、小供の時分から癲癇てんかんの発作ほっさがあった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる疾やまいと称となえていた。この神聖なる疾に冒おかされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて到いたり得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足を滑すべらして落ちるような心持だとか聞いた。
「神聖なる疾」に罹かかった事のない余は、不幸にしてこの年になるまで、そう云う趣おもむきに一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日――経たつか経たないうちに、時々一種の精神状態に陥おちいった。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーの享うけたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイの細こまかに書き残した驚くべき阿片あへんの世界も余の連想に上のぼった。けれども読者の心目しんもくを眩惑げんわくするに足る妖麗ようれいな彼の叙述が、鈍にぶい色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急に厭いやになった。
余は当時十分と続けて人と話をする煩わずらわしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に伝つたわって、平らかな気分をことさらに騒ざわつかせるように覚えた。口を閉じて黄金こがねなりという古い言葉を思い出して、ただ仰向あおむけに寝ていた。ありがたい事に室へやの廂ひさしと、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の露つゆに洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹緲ひょうびょうとでも形容してよい気分であった。
そのうち穏かな心の隅すみが、いつか薄く暈ぼかされて、そこを照らす意識の色が微かすかになった。すると、ヴェイルに似た靄もやが軽く全面に向って万遍まんべんなく展のびて来た。そうして総体の意識がどこもかしこも稀薄きはくになった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に横よこたわる重い影でもなかった。魂が身体からだを抜けると云ってはすでに語弊がある。霊が細こまかい神経の末端にまで行き亘わたって、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から杳はるかに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時にその自覚が窈窕ようちょうとして地の臭においを帯びぬ一種特別のものであると云う事を知った。床ゆかの下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心は己おのれの宿る身体と共に、蒲団ふとんから浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く漂ただよっていた。発作前ほっさぜんに起るドストイェフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を賭としても然しかるべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろ恍惚こうこつとして幽かすかな趣おもむきを生活面の全部に軽くかつ深く印いんし去ったのみであった。したがって余にはドストイェフスキーの受けたような憂欝性ゆううつせいの反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態に入いった。午過ひるすぎにもよくこの蕩漾とうようを味あじわった。そうして覚さめたときはいつでもその楽しい記憶を抱いだいて幸福の記念としたくらいであった。
ドストイェフスキーの享うけ得えた境界きょうがいは、生理上彼の病やまいのまさに至らんとする予言である。生を半なかばに薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。
仰臥人如唖
。
黙然見大空
。
大空雲不動
。
終日杳相同
。
二十一
同じドストイェフスキーもまた死の門口かどぐちまで引ひき摺ずられながら、辛かろうじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を危あやめにかかった災わざわいは、余の場合におけるがごとき悪辣あくらつな病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を打うち貫ぬかれようとしたのである。
彼は彼の倶楽部クラブで時事を談じた。やむなくんばただ一揆いっきあるのみと叫んだ。そうして囚とらわれた。八カ月の長い間薄暗うすくらい獄舎の日光に浴したのち、彼は蒼空あおぞらの下もとに引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の霜しもに、襯衣シャツ一枚の裸姿はだかすがたとなって、申渡もうしわたしの終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として鼓膜こまくに受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、傍かたわらに立つ同囚どうしゅうに問うた言葉である。……白い手帛ハンケチを合図に振った。兵士は覘ねらいを定めた銃口つつぐちを下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の捏こね丸めた熱い鉛なまりの丸たまを呑のまずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。
彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と経たたぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を提ひっさげて、まさに来きたるべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三象面フェーゼスの一つにすら堪たえ得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の一人いちにんは、これがためにその場で気が狂ってしまった。
それにもかかわらず、回復期に向った余は、病牀びょうしょうの上に寝ながら、しばしばドストイェフスキーの事を考えた。ことに彼が死の宣告から蘇よみがえった最後の一幕を眼に浮べた。――寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚のまま顫ふるえている彼の姿、――ことごとく鮮やかな想像の鏡に映った。独ひとり彼が死刑を免まぬかれたと自覚し得た咄嗟とっさの表情が、どうしても判然はっきり映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。
余は自然の手に罹かかって死のうとした。現に少しの間死んでいた。後から当時の記憶を呼び起した上、なおところどころの穴へ、妻さいから聞いた顛末てんまつを埋うめて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆる慄然りつぜんと云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、九仞きゅうじんに失った命を一簣いっきに取り留める嬉うれしさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。
「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を料はかり得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、画竜点睛がりゅうてんせいとも云うべき肝心かんじんの刹那せつなの表情が、どう想像しても漠ばくとして眼の前に描き出せないのだろう。運命の擒縦きんしょうを感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、襯衣シャツ一枚で顫ふるえている彼の姿とを、根気よく描き去り描き来きたってやまなかった。
今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが始終しじゅうわが傍かたわらにあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、生涯しょうがい感謝する事を忘れぬ人であった。
二十二
余はうとうとしながらいつの間まにか夢に入いった。すると鯉こいの跳はねる音でたちまち眼が覚さめた。
余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでも折々は耳に入った。夜はことに甚はなはだしい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく静まり返った真中まなかに、余は絶えずこの音で眼を覚ました。
犬の眠りと云う英語を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云う意味を実地に経験したのはこの頃が始めてであった。余は犬の眠りのために夜よごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼が開あいて、まだ空は白まないだろうかと、幾度いくたびも暁あかつきを待まち佗わびた。床とこに縛しばりつけられた人の、しんとした夜半よなかに、ただ独ひとり生きている長さは存外な長さである。――鯉が勢いきおいよく水を切った。自分の描いた波の上を叩たたく尾の音で、余は眼を覚ました。
室へやの中は夕暮よりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気灯の珠たまは黒布くろぬので隙間すきまなく掩おいがしてあった。弱い光りはこの黒布の目を洩もれて、微かすかに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗い灯影ひかげに、真白な着物を着た人間が二人坐すわっていた。二人とも口を利きかなかった。二人とも動かなかった。二人とも膝ひざの上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。
黒い布で包んだ球を見たとき、余は紗しゃで金箔きんぱくを巻いた弔旗ちょうきの頭を思い出した。この喪章もしょうと関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされた白衣はくいの看護婦は、静かなる点において、行儀の好い点において、幽霊の雛ひなのように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。
余は声も出さなかった。呼びもしなかった。それでも余の寝ている位置に、少しの変化さえあれば彼等はきっと動いた。手を毛布けっとのうちで、もじつかせても、心持肩を右から左へ揺ゆすっても、頭を――頭は眼が覚さめるたびに必ず麻痺しびれていた。あるいは麻痺れるので眼が覚めるのかも知れなかった。――その頭を枕の上で一寸いっすん摺ずらしても、あるいは足――足はよく寝覚ねざめの種となった。平生ふだんの癖で時々、片方かたかたを片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になった方の骨が沢庵石たくわんいしでも載せられたように、みしみしと痛んで眼が覚めた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を変えなければならなかった。――これらのあらゆる場合に、わが変化に応じて、白い着物の動かない事はけっしてなかった。時にはわが動作を予期して、向うから動くと思われる場合もあった。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと眼を開けさえすれば、白い着物はすぐ顔の傍そばへ来た。余には白い着物を着ている女の心持が少しも分らなかった。けれども白い着物を着ている女は余の心を善よく悟った。そうして影の形に随したがうごとくに変化した。響の物に応ずるごとくに働らいた。黒い布ぬのの目から洩もれる薄暗い光の下もとに、真白な着物を着た女が、わが肉体の先せんを越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであった。
余はこの気味の悪い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやり眸ひとみに映る室へやの天井を眺めた。そうして黒い布で包んだ電気灯の珠たまと、その黒い布の織目から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて来た。
秋風鳴万木
。
山雨撼高楼
。
病骨稜如剣
。
一灯青欲愁
。
二十三
余は好意の干乾ひからびた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。
人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を起おこし悪にくい。それが好意となると、相手の所作しょさが一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、活物いきものの自分にその一挙一動がことごとく応こたえる。そこに互を繋つなぐ暖い糸があって、器械的な世を頼母たのもしく思わせる。電車に乗って一区を瞬またたく間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が情なさけが深い。
義務さえ素直すなおには尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえ碌ろくに尽くしもしない世の中に、こんな贅沢ぜいたくを並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の干乾ひからびた社会に存在する自分を切せつにぎごちなく感じた。――或る人の書いたものの中に、余りせち辛がらい世間だから、自用車じようしゃを節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのは固もとより一時の融通を計る便宜べんぎに過ぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえ天てんで持っているものが少なそうに見えた。いかに工面くめんがついても受出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。
今の青年は、筆を執とっても、口を開あいても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から承うけたまわれば、小憎こにくらしい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして憚はばかるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を縊くくったり身を投げたりすると同程度に悲惨な煩悶はんもんが含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。
こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自みずからぎごちなく感じた。そうして病やまいに罹かかった。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。
看護婦は五十グラムの粥かゆをコップの中に入れて、それを鯛味噌たいみそと混ぜ合わして、一匙ひとさじずつ自分の口に運んでくれた。余は雀すずめの子か烏からすの子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表こんだてひょうを作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰えらんで、あとはそれぎり反故ほごにした。
医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故ゆえに、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実みも葢ふたもない話である。けれども彼等の義務の中うちに、半分の好意を溶とき込こんで、それを病人の眼から透すかして見たら、彼等の所作しょさがどれほど尊たっとくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独ひとりで嬉うれしかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。
子供と違って大人たいじんは、なまじい一つの物を十筋とすじ二十筋の文あやからできたように見窮みきわめる力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を恣ほしいままに吸収する場合が極きわめて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当に尊たっとかったと、生涯しょうがいに何度思えるか、勘定かんじょうすれば幾何いくばくもない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中まんなかに保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片いっぺんの記憶と変化してしまいそうなのを切せつに恐れている。――好意の干乾ひからびた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
天下自多事
。
被吹天下風
。
高秋悲鬢白
。
衰病夢顔紅
。
送鳥天無尽
。
看雲道不窮
。
残存吾骨貴
。
慎勿妄磨※
[#「石+龍」、638-7]
。
二十四
小供のとき家に五六十幅の画えがあった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は虫干むしぼしの折に、余は交かわる交るそれを見た。そうして懸物かけものの前に独ひとり蹲踞うずくまって、黙然と時を過すのを楽たのしみとした。今でも玩具箱おもちゃばこを引繰ひっくり返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が遥はるかに心持が好い。
画のうちでは彩色さいしきを使った南画なんがが一番面白かった。惜しい事に余の家の蔵幅ぞうふくにはその南画が少なかった。子供の事だから画の巧拙こうせつなどは無論分ろうはずはなかった。好すき嫌きらいと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで嬉うれしかったのである。
鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの弊へいはあったろうが、名前によって画を論ずるの譏そしりも犯おかさずにすんだ。ちょうど画を前後して余の嗜好しこうに上のぼった詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか悪にくむべきかいずれとも意見を有していない。)
ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また的
てきれきと春に照る梅を庭に植えた、また柴門さいもんの真前まんまえを流れる小河を、垣に沿うて緩ゆるく繞めぐらした、家を見て――無論画絹えぎぬの上に――どうか生涯しょうがいに一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、傍そばにいる友人に語った。友人は余の真面目まじめな顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人は岩手いわてのものであった。余はなるほどと始めて自分の迂濶うかつを愧はずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。
それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。崖がけを降りて渓川たにがわへ水を汲くみに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって仰向あおむけに寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。
すると小宮君が歌麿うたまろの錦絵にしきえを葉書に刷すったのを送ってくれた。余はその色合いろあいの長い間に自おのずと寂さびたくすみ方に見惚みとれて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこい色男いろおとこは大嫌だいきらいだ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の香かが好きだと答えてくれと傍はたのものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ坐すわって、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を吐はきかけるので、余は小宮君を捕つらまえて御前は青二才あおにさいだと罵ののしった。――それくらい病中の余は自然を懐なつかしく思っていた。
空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼あおい所を目の届くかぎり照らした。余はその射返いかえしの大地に洽あまねき内にしんとして独ひとり温ぬくもった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉あかとんぼを見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語ごよりも黙もく。……肩に来て人懐なつかしや赤蜻蛉あかとんぼ」
これは東京へ帰った以後の景色けしきである。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。
秋露下南
。
黄花粲照顔
。
欲行沿澗遠
。
却得与雲還
。
二十五
子供が来たから見てやれと妻さいが耳の傍そばへ口を着けて云う。身体からだを動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。
余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る襖ふすまで半なかば塞ふさいであった。余は左右に開かれた襖ふすまの間から敷居越しに余の子供を見たのである。
頭の上の方にいるものを室へやを隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な一瞥いちべつの下もとに余の眸ひとみに映った顔は、逢おうたと記しるすよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
子供は三人いた。十二から十とお、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、一夏ひとなつを茅ちが崎さきに過すべく、父母ふぼから命ぜられて、兄弟五人で昨日きのうまで海辺うみべを駆かけ廻っていたのである。父が危篤きとくの報知によって、親戚のものに伴つれられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、修善寺しゅぜんじまで見舞に来たのである。
けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり小ちさ過すぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと怖こわさとは、彼らの若い額ひたいの奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に捕とらえられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う愁うれいの表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
余はただ一瞥いちべつの努力に彼らを見ただけであった。そうして病やまいを解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、殊勝しゅしょうに枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。妻さいを呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云う懸念けねんがあったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。しかし余は医師や傍はたのものが余に対して抱いていたような危険を余の病の上に自みずから感じていなかったのである。
子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らは各々めいめいに見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に届けた。十二になる筆子ふでこのは、四角な字を入れた整わない候文そうろうぶんで、「御祖母様おばばさまが雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へ御詣おまいりを遊ばす御百度おひゃくどをなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田の御伯母おんおば様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことに御座候ござそうろうふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候」とあった。十とおになる恒子つねこのは尋常であった。八やつになるえい子のは全く片仮名だけで書いてあった。字を埋うめて読みやすくすると、「御父様の御病気はいかがでございますか、私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行って居ります。また御母様によろしく」と云うのである。
余は日記の一頁ページを寝ながら割さいて、それに、留守の中うちはおとなしく御祖母様おばばさまの云う事を聞かなくてはいけない、今についでのあった時修善寺しゅぜんじの御土産おみやげを届けてやるからと書いて、すぐ郵便で妻さいに出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の土産みやげはもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。
傷心秋已到
。
嘔血骨猶存
。
病起期何日
。
夕陽還一村
。
二十六
五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、この身体からだを終日持もち応こたえていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、可愛かわいらしくもある。また馬鹿らしくもある。
余は五十グラムの葛湯くずゆを恭うやうやしく飲んだ。そうして左右の腕に朝夕あさゆう二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針の痕あとで埋うまっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を丁寧ていねいに拭ぬぐったり、針の先に泡のように細こまかい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ物奇麗ものぎれいで心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その鳶色とびいろの液は何だと聞いた。森成もりなりさんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると廃やめになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が執拗しゅうねく粘ねばり始めた。爽さわやかな飲料で絶えず舌と顋あごと咽喉のどを洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い片かけらが滑すべって胃の腑ふに落ち込む危険を恐れた。余は天井てんじょうを眺めながら、腹膜炎を患わずらった廿歳はたちの昔を思い出した。その時は病気に障さわるとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で含嗽うがいをするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっと熬いりつくような渇かわきを紛まぎらしていた。
昔の計はかりごとを繰り返す勇気のなかった余は、口中こうちゅうを潤うるおすための氷を歯で噛かみ砕くだいては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回平野水ひらのすいを一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は夜半よなかにしばしば看護婦から平野水を洋盃コップに注ついで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
渇かつはしだいに歇やんだ。そうして渇よりも恐ろしい餓ひもじさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしい食膳しょくぜんを何通なんとおりとなく想像で拵こしらえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じ献立こんだてを何人前も調ととのえておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるような食物くいものはちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはない御膳おぜんばかりを眼の前に浮べていたのである。
森成さんがもう葛湯くずゆも厭あきたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せて重湯おもゆを作ってくれた時は、重湯を生れて始めて啜すする余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてその不味まずいのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットを一片ひときれ貰った折の嬉うれしさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師の室へやまでやって、特に礼を述べたくらいである。
やがて粥かゆを許された。その旨うまさはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。東君ひがしくんはわざわざ妻さいの所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終しじゅう食物くいものの話ばかりしていておかしいと告げた。
腸はらわたに春滴したたるや粥の味
二十七
オイッケンは精神生活と云う事を真向まむきに主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を唱となうる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義も叩たたかれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を拈出ねんしゅつした。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼れんこした。
試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、端的たんてきにこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうな理窟りくつを蜿蜒えんえんと幾重いくえにも重ねて行く。そこに学者らしい手際てぎわはあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれる素人しろうとは茫然ぼんやりしてしまうだけである。
しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪こうお撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかから圧おしつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向って自みずから進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、己おのれ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトは倦怠アンニュイをもって社会の進歩を促うながす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に抑おさえがたき或るものが蟠わだかまって、じっと持もち応こたえられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出びょうしゅつし来きたる方が実際実みの入いった生いき法かたと云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌しいかでも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても差支さしつかえない。
けれども学者オイッケンの頭の中で纏まとめ上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては自おのずから別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明ぶんみょうな話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機はずまないときはけっして豆を挽ひかなかったなら商買しょうばいにはならない。さらに進んで、己おのれの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯ともしを点つけなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分いっぷんの遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分しちぶさんぶとか六分四分ろくぶしぶとかに交まぜ合あわして自己に便宜べんぎなようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天てんから余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚けがされてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己おのれに篤あつき作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高うれだかの多いものを公おおやけにしなくてはならぬからである。
すでに個人の性格及び教育次第で融通の利きかなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に行ゆき亘わたって実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病に罹かかったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を忌いんでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心を刺戟しげきする力は充分ある。大患に罹かかった余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。病やまいが癒なおるに伴つれ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンを羨うらやまずにはいられなくなって来た。
二十八
学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこの和尚おしょうは内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木さんぎと筮竹ぜいちくを見るのが常であった。固もとより看板をかけての公表おもてむきな商買しょうばいでなかったせいか、占うらないを頼たのみに来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹を揉もむ音さえ聞えない夜もあった。易断えきだんに重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々襖越ふすまごしに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関する助言じょごんを耳に挟さしはさむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。
ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚の縄張なわばり内に摺ずり込こんだので、冗談半分私わたしの未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を据すえて余の顔をじっと眺めた後あとで、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目には逢あえませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く顋あごの下へ髯ひげを生やして、地面を買って居宅うちを御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面居宅やしきとはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚は真面目まじめな顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下の釣合つりあいを取るようにすれば、顔の居坐いすわりがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の雑作ぞうさくに向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまた倫敦ロンドンに向った。和尚の云った通り西へ西へと赴おもむいたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には侍はんべらなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目に逢あえないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ顋あごの髯ひげに至ってはその時から今日こんにちに至るまで、寧日ねいじつなく剃そり続けに剃っているから、地面と居宅やしきがはたして髯と共にわが手に入いるかどうかいまだに判然はんぜんせずにいた。
ところが修善寺しゅぜんじで病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本に撮つまめるようになった。またしばらくすると、頬から顋あごが隙間すきまなく隠れるようになった。和尚おしょうの助言じょごんは十七八年ぶりで始めて役に立ちそうな気色けしきに髯は延びて来た。妻さいはいっそ御生おはやしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺を撫なで廻していた。ところが幾日いくかとなく洗いも櫛くしけずりもしない髪が、膏あぶらと垢あかで余の頭を埋うずめ尽つくそうとする汚苦むさくるしさに堪たえられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔に髪剃かみそりを当てた。その時地面と居宅の持主たるべき資格をまた奇麗きれいに失ってしまった。傍はたのものは若くなった若くなったと云ってしきりに囃はやし立てた。独ひとり妻だけはおやすっかり剃すっておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手に入いると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
その後ご髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根と吾室わがへやの障子しょうじの間にわずかばかり見える山の頂いただきを眺めるたびに、わが頬の潔いさぎよく剃り落してある滑なめらかさを撫なで廻しては嬉うれしがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。
客夢回時一鳥鳴
。
夜来山雨暁来晴
。
孤峯頂上孤松色
。
早映紅暾欝々明
。
二十九
修善寺しゅぜんじが村の名で兼かねて寺の名であると云う事は、行かぬ前から疾とくに承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を叩たたこうとはかつて想おもい至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を憶おもい出す。
余は去年の病気と共に、新らしい天井てんじょうと、新らしい床とこの間まにかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて開閉あけたての不自由な障子しょうじは、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では白壁しらかべのように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、尾頭おかしらともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句に至っては、始めの剣戟けんげきという二字よりほか憶い出せない。
余は余の鼓膜こまくの上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと仰向あおむいて、尻の痛さを紛まぎらしつつ、のつそつ夜明を待ち佗わびたその当時を回顧すると、修禅寺しゅぜんじの太鼓の音ねは、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、自暴やけに夜陰に向って擲たたきつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと素気そっけなく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を峙そばだてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや久しばらくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして愛想あいそのない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の音ねの至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく極きわめて乾からび切きった響が――響とは云いい悪にくい。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って直すぐ筆を隠したような音が、余の耳朶じだを叩たたいて去る後あとで、余はつくづくと夜を長いものに観じた。
もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から袷あわせを着るかしなければ、肌寒はださむを防ぐ便たよりとならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼を端折はしおって、灯ひは容易に点ついた。そうして夜よは中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼が開あくときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながら埋うずもっている事かと思うと、我ながらわが病気に堪たえられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の懸物かけものには最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。
修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとく疎まばらな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分と経たち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立の雨滴あまだれよりも繁しげく逼せまって来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの後のちに、看護婦がやっと起きて室へやの廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。
修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云う余音よいんのないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。
夢繞星
露幽
。
夜分形影暗灯愁
。
旗亭病近修禅寺
。
一
疎鐘已九秋
。
三十
山を分けて谷一面の百合ゆりを飽あくまで眺めようと心にきめた翌日あくるひから床の上に仆たおれた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を碁石ごいしのように点々と見た。それを小暗おぐらく包もうとする緑の奥には、重い香かが沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――この間宿の客が山から取って来て瓶へいに挿さした一輪の白さと大きさと香かおりから推して、余は有るまじき広々とした画えを頭の中に描いた。
聖書にある野の百合とは今云う唐菖蒲からしょうぶの事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めて芥舟君かいしゅうくんから教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った一月前ひとつきまえも思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、檜扇ひおうぎを熱帯的に派出はでに仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ趣おもむきを表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いた幽かすかな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋に入いった。百合は露つゆと共に摧くだけた。
人は病むもののために裏の山に入いって、ここかしこから手の届く幾茎いくくきの草花を折って来た。裏の山は余の室へやから廊下伝いにすぐ上のぼる便たよりのあるくらい近かった。障子しょうじさえ明けておけば、寝ながら縁側えんがわと欄間らんまの間を埋うずめる一部分を鼻の先に眺ながめる事もできた。その一部分は岩と草と、岩の裾すそを縫うて迂回うかいして上のぼる小径こみちとから成り立っていた。余は余のために山に上のぼるものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して下くだって来るのを疎うとい眼で眺めた。彼らは必ず粗あらい縞しまの貸浴衣かしゆかたを着て、日の照る時は手拭てぬぐいで頬冠ほおかむりをしていた。岨道そばみちを行くべきものとも思われないその姿が、花を抱かかえて岩の傍そばにぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらい釣合つりあいがおかしかった。
彼等の採とって来てくれるものは色彩の極きわめて乏しい野生の秋草であった。
ある日しんとした真昼に、長い薄すすきが畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れない蟋蟀きりぎりすがたった一つ、おとなしく中ほどに宿とまっていた。その時薄は虫の重みで撓しないそうに見えた。そうして袋戸ふくろどに張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、暈ぼかしたように淡くかつ不分明ふぶんみょうに、眸ひとみを誘うので、なおさら運動の感覚を刺戟しげきした。
薄は大概すぐ縮ちぢれた。比較的長く持つ女郎花おみなえしさえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草の淋さみしさを物憂ものうく思い出した時、始めて蜀紅葵しょっこうあおいとか云う燃えるような赤い花弁はなびらを見た。留守居の婆さんに銭ぜにをやって、もっと折らせろと云ったら、銭は要いりません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の花弁はなびらは燃えながら、翌日あくるひ散ってしまった。
桂川かつらがわの岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべての中うちで最も単簡たんかんでかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、空くうに浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは干菓子ひがしに似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。範頼のりよりの墓守はかもりの作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほど後のちの事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいには畠山はたけやまの城址しろあとからあけびと云うものを取って来て瓶へいに挿はさんだ。それは色の褪さめた茄子なすの色をしていた。そうしてその一つを鳥が啄つついて空洞うつろにしていた。――瓶に挿さす草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋に入いった。
日似三春永
。
心随野水空
。
牀頭花一片
。
閑落小眠中
。
三十一
若い時兄を二人失った。二人とも長い間床とこについていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた病やまいの影を肉の上に刻きざんでいた。けれどもその長い間に延びた髪と髯ひげは、死んだ後あとまでも漆うるしのように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、剃そる事のできないで不本意らしく爺々汚じじむさそうに生えた髯ひげに至っては、見るから憐あわれであった。余は一人の兄の太く逞たくましい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらい瘠やせ衰おとろえて小ちいさく見えるのに引き易かえて、髯だけは健康な壮者を凌しのぐ勢いきおいで延びて来た一種の対照を、気味悪くまた情なさけなく感じたためでもあろう。
大患に罹かかって生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ空裏くうりに過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず吾わが存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の面影おもかげが、卒然として冷かな鏡の裏を掠かすめて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい暖味あたたかみを失った蒼あおく黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。
ただ兄の髪と髯が死ぬまで漆うるしのように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が疎まばらに交っていた。考えて見ると兄は白髪しらがの生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が屑いさぎよいかも知れない。白髪に鬢びんや頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる工夫くふうに余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨てて逝ゆく壮者に比くらべると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、死しに損そくなったと云う恥はじも少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどと首肯うなずいて読んだ当時を憶おもい出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。
「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を終焉しゅうえんまで持ち続けたから、嘘うそは云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、今日きょうまで世を経へたようなものの、外部から萌きざして来る老頽ろうたいの徴候を、幾茎いくけいかの白髪に認めて、健康の常時とは心意の趣おもむきを異ことにする病裡びょうりの鏡に臨んだ刹那せつなの感情には、若い影はさらに射ささなかったからである。
白髪に強しいられて、思い切りよく老おいの敷居を跨またいでしまおうか、白髪を隠して、なお若い街巷ちまたに徘徊はいかいしようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に罹かかる前、ある友人と会食したら、その友人が短かく刈かった余の揉上もみあげを眺めて、そこから白髪に冒おかされるのを苦にしてだんだん上の方へ剃すり上あげるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども病やまいに罹かかった余は、白髪しらがを看板にして事をしたいくらいまでに諦あきらめよく落ちついていた。
病の癒いえた今日こんにちの余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた病気前びょうきぜんの若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。
桃花馬上少年時
。
笑拠銀鞍払柳枝
。
緑水至今迢逓去
。
月明来照鬢如糸
。
三十二
初めはただ漠然ばくぜんと空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに堪たえ得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって傍はたのものに自分はいつ帰れるかと問とい糺ただした事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ蒼あおくわが上を掩おおい始めた。
もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の後のちにと云う挨拶あいさつであった。挨拶があった翌日あくるひから余は自分の寝ている地と、寝ている室へやを見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと冀ねがった。かつて英国にいた頃、精一杯せいいっぱい英国を悪にくんだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく因業いんごうに英国を悪んだのである。けれども立つ間際まぎわになって、知らぬ人間の渦うずを巻いて流れている倫敦ロンドンの海を見渡したら、彼らを包む鳶色とびいろの空気の奥に、余の呼吸に適する一種の瓦斯ガスが含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の真中まなかに佇たたずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病む躯からだを横よこたえて、床とこの上に独ひとり佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大な藁蒲団わらぶとんに佇ずんだ。静かな庭の寂寞せきばくを破る鯉こいの水を切る音に佇ずんだ。朝露あさつゆに濡ぬれた屋根瓦やねがわらの上を遠近おちこちと尾を揺うごかし歩く鶺鴒せきれいに佇ずんだ。枕元の花瓶かへいにも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の音ねにも佇ずんだ。かくわが身を繞めぐる多くのものに
徊ていかいしつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。
その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の濛々もうもうと降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を透すかして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを拵こしらえて、それを座敷の中うちに舁かき入いれた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に反そり返かえるように工夫してあった。そうして全部を白い布ぬので捲まいた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ寝台ねだいとも寝棺ねがんとも片のつかないものの上に横になった人は、生きながら葬とむらわれるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二返へん執行しなければすまないと思ったからである。
舁かかれて室へやを出るときは平たいらであったが、階子段はしごだんを降りる際きわには、台が傾いて、急に輿こしから落ちそうになった。玄関に来ると同宿の浴客よくかくが大勢並んで、左右から白い輿を目送もくそうしていた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る庇ひさしの外に担かつぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を竪たてに馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って拵こしらえたので、輿はきっしりと旨うまく馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながら幌ほろを打つ雨の音を聞いた。そうして、御者台ぎょしゃだいと幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。竹藪たけやぶの色、柿紅葉かきもみじ、芋いもの葉、槿垣むくげがき、熟した稲の香か、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったように憶おもい出しては嬉うれしがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像して独ひとり楽しんだ。同時に昨日きのうまで
徊ていかいした藁蒲団わらぶとんも鶺鴒せきれいも秋草も鯉こいも小河もことごとく消えてしまった。
万事休時一息回
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余生豈忍比残灰
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風過古澗秋声起
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日落幽篁瞑色来
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漫道山中三月滞
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知門外一天開
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帰期勿後黄花節
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恐有羇魂夢旧苔
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三十三
正月を病院でした経験は生涯しょうがいにたった一遍いっぺんしかない。
松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にその考かんがえが単に頭だけに働らいて、毫ごうも心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。
余は白い寝床ベッドの上に寝ては、自分と病院と来きたるべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の酔興すいきょうさ加減を懇ねんごろに商量しょうりょうした。けれども起き直って机に向ったり、膳ぜんに着いたりする折は、もうここが我家わがいえだと云う気分に心を任まかして少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は逼せまっても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
いよいよ大晦日おおみそかが来た時、余は小ちさい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために釘くぎを打ち込んで美くしい柱に創きずをつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。
この看護婦は修善寺しゅぜんじ以来余が病院を出るまで半年はんねんの間始終しじゅう余の傍そばに附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで町井石子嬢まちいいしこじょう町井石子嬢と云っていた。時々は間違えて苗字みょうじと名前を顛倒てんどうして、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を傾かしげながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう鼬いたちと云う渾名あだなをつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよと云ったら、どうせ碌ろくなものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですと絶叫ぜっきょうして以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。
鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝提さげて帰って来た。白い方を蔵沢ぞうたくの竹の画えの前に挿さして、紅あかい方は太い竹筒たけづつの中に投げ込んだなり、袋戸ふくろどの上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香かをしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日あしたはきっと御雑煮おぞうにが祝えるに違ないと云って余を慰めた。
除夜じょやの夢は例年の通り枕の上に落ちた。こう云う大患に罹かかったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーと云う羅馬字ローマじが明らかに綴つづられて見える。それにもかかわらず、感に堪たえぬ趣おもむきは少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自おのずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り形かたばかりとは云いながら、小ちさい一切ひときれの餅もちが元日らしく病人の眸ひとみに映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片きれを平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許ゆるしを得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の一角いっかくを同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡なくなった人は少なくない。ある北国ほっこくの患者は入院以後病勢がしだいに募つのるので、附添つきそいの息子むすこが心配して、大晦日おおみそかの夜よになって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間ひとま置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、諦あきらめてしまえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの外はずれにいた潰瘍患者かいようかんじゃの高い咳嗽せきが日ひごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、癌がんで見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って尻しりを捲まくるというのがあった。附添の女房を蹴けたり打ぶったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見兼みかねて慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。ある食道狭窄しょくどうきょうさくの患者は病院には這入はいっているようなものの迷いに迷い抜いて、灸点師きゅうてんしを連れて来て灸を据すえたり、海草かいそうを採とって来て煎せんじて飲んだりして、ひたすら不治の癌症がんしょうを癒なおそうとしていた。……
余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄まかないの給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月余よの今日こんにちになって、過去を一攫ひとつかみにして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に拈出ねんしゅつされる。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両ふたつのものが互に纏綿てんめんして来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮ぞうにも、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。
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