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中味と形式
私はこの地方にいるものではありません、東京の方に平生住(すま)っております。今度大阪の社の方で講演会を諸所で開きますについて、助勢をしろという命令――だか通知だか依頼だかとにかく催しに参加しなければならないような相談を受けました。それでわざわざ出て参りました。もっともこの堺だけで御話をしてすぐ東京表(とうきょうおもて)へ立ち帰るという訳でもないので、現に明石(あかし)の方へ行きましたり、和歌山の方へ参りましたり、明日はまた大阪でやる手順になっております。無論話すことさえあれば、どこへ行って何をやっても差支(さしつかえ)ないはずですが、暑中の際そうそう身体(からだ)も続きませぬから、好い加減のところで断りたいと思っております。しかしこの堺は当初からの約束で是非何か講話をすべきはずになっておりましたから私の方もそれは覚悟の上で参りました。したがってしっかりした御話らしい御話をしなければならない訳でありますが、どうもそう旨(うま)く行かないからはなはだ御気の毒です。ただいまは高原君が樺太旅行談つけたり海豹島(かいひょうとう)などの話をされましたが実地の見聞談で誠に有益でもあり、かつ面白く聴いておりました。私のは諸君に興味または利益を与えるという点において、とても高原君ほどに参りませぬ。高原君は御覧の通りフロックコートを着ておりましたが、私はこの通り背広で御免蒙(ごめんこうむ)るような訳で、御話の面白さもまたこの服装の相違くらい懸隔(けんかく)しているかも知れませんから、まずその辺のところと思って辛抱してお聴きを願います。高原君はしきりに聴衆諸君に向って厭(いや)になったら遠慮なく途中で御帰りなさいと云われたようですが私は厭になっても是非聴いていていただきたいので、その代り高原君ほど長くはやりません。この暑いのにそう長くやっては何だか脳貧血でも起しそうで危険ですからできるだけ縮(ちぢ)めてさっさと片づけますから、その間は帰らずに、暑くても我慢をして、終った時に拍手喝采(かっさい)をして、そうしてめでたく閉会をして下さい。
私は先年堺へ来たことがあります。これはよほど前私がまだ書生時代の事で、明治二十何年になりますか、何でもよほど久しい事のように記憶しております。実を言うと今登った高原君、あれは私が高等学校で教えていた時分の御弟子であります。ああいう立派なお弟子を持っているくらいでありますから、私もよほど年を取りました。その私がまだ若い時の事ですからまあ昔といっても宜(よろ)しゅうございましょう。今考えるとほとんどその時に見た堺の記憶と云うものはありませんが、何でも妙国寺と云うお寺へ行って蘇鉄(そてつ)を探したように覚えております。それからその御寺の傍に小刀や庖丁(ほうちょう)を売る店があって記念のためちょっとした刃物をそこで求めたようにも覚えています。それから海岸へ行ったら大きな料理店があったようにも記憶しています。その料理店の名はたしか一力(いちりき)とか云いました。すべてがぼんやりして思い出すとまるで夢のようであります。その夢のような堺へ今日図(はか)らずも来て再び昔の町を車に揺られながら通ってみると非常に広いような心持がする。停車場からこの会場までの道程(みちのり)も大分ある。こう申しては失礼であるが昔見た時はごくケチな所であったかのようにしか、頭に映じないのであります。それで車の上で感服したような驚いたような顔をして、きょろきょろ見廻して来ると所々の辻々(つじつじ)に講演の看板と云いますか、広告と云いますか、夏目漱石君などと云うような名前が墨黒々と書いて壁に貼(は)りつけてある。何だか雲右衛門か何かが興行のため乗り込んだようである。社の方から云えばあの方がよいのでしょうが、夏目漱石氏から云えばああ曝(さら)しものになるのはあまりありがたくない。なお車の上で観察すると往来の幅がはなはだ狭い。がそれは問題ではない、私の妙に感じたのはその細い往来がヒッソリして非常に静かに昼寝(ひるね)でもしているように見えた事であります。もっとも夏の真午(まひる)だからあまり人が戸外に出る必要のない時間だったのでしょう、私がここに着いたのはちょうど十二時少し過でありました。二階へ上って長い廊下のはずれに見える会場の入口から中の方を見渡すと、少し人の頭が黒く見えたぐらいで、市内がヒッソリしているごとく聴衆もまたヒッソリしている。これは幸いだ――とは思いません、また困ったとまでも思いません。けれどもまあ不入りだろうと考えながら控席へ入って休息していると、いつの間(ま)にやらこんなに人が集って来た。この講堂にかくまでつめかけられた人数の景況から推(お)すと堺と云う所はけっして吝(けち)な所ではない、偉(えら)い所に違いない。市中があれほどヒッソリしているにかかわらず、時間が来さえすればこれほど多数の聴衆がお集まりになるのは偉い、よほど講演趣味の発達した所だろうと思われる。私もせっかく東京からわざわざ出て来たものでありますから、なろうことならば講演趣味の最も発達した堺のような所で、一度でも講演をすれば誠に心持がよい。だから諸君もその志(こころざし)を諒(りょう)として、終(しま)いまで静粛にお聴きにならんことを希望します。このくらいにしてここに張り出した「中味(なかみ)と形式」という題にでも移りますかな。
第一、題からしてあまり面白そうには見えません。中味は無論つまらなそうです。私は学会の演説は時々依頼を受けてやる事がありますが、こう云う公衆、すなわち種々の職業をもった方がお集まりになった席ではあまり御話をした経験がありません。また頼みにも来ません。頼まれてもたいていは断ります。と申すのは種々の職業をもっておられる方々の総(すべ)てに興味のあるようなことは、私の研究の範囲、あるいは興味の範囲からしてとても力に及ばないという掛念(けねん)があるからです。でなるべくは避けておりますが、やむをえず今日のような場合には、できるだけ一般の人に興味のあるために、社会問題と云うようなものを択(えら)みます。けれどもその社会の見方とかあるいは人間の観察の仕方とかがまた自然私の今日までやった学問やら研究に煩(わずら)わされてどうも好きな方ばかりへ傾(かたむ)きやすいのは免(まぬ)かれがたいところでありますから、職業の如何(いかん)、興味の如何に依っては、誠に面白くない駄弁に始って下らない饒舌(じょうぜつ)に終ることだろうと思うのです。のみならずこれからやる中味と形式という問題が今申した通りあまり乾燥して光沢気(つやけ)の乏しいみだしなのでことさら懸念(けねん)をいたします。が言訳はこのくらいでたくさんでしょうからそろそろ先へ進みましょう。
私は家に子供がたくさんおります。女が五人に男が二人、〆(し)めて七人、それで一番上の子供が十三ですから赤ん坊に至るまでズッと順よく並んでまあ体裁よく揃(そろ)っております。それはどうでも宜しいがかように子供が多うございますから、時々いろいろの請求を受けます。跳(は)ねる馬を買ってくれとか動く電車を買ってくれとかいろいろ強請(ねだ)られるうちに、活動写真へ連れて行けと云う注文が折々出ます。元来私は活動写真と云うものをあまり好きません。どうも芝居の真似(まね)などをしたり変な声色(こわいろ)を使ったりして厭気(いやけ)のさすものです。その上何ぞというと擲(なぐ)ったり蹴飛(けとば)したり惨酷(ざんこく)な写真を入れるので子供の教育上はなはだ宜(よろ)しくないからなるべくやりたくないのですが、子供の方ではしきりに行きたかがるので――もっとも活動写真と云ったって必ず女が出て来て妙な科(しな)をするとはきまっていない、中には馬鹿気て滑稽(こっけい)なのもたくさんありますから子供の見たがるのも無理ではないかも知れません。で三度に一度は頑固(がんこ)な私もつい連れ出される事があります。監督者と云いますか、何と云いますか、まず案内者あるいはお傅(もり)とでも云う格なんでしょう。暑い所へ入って鼻の頭へ汗の玉を並べて我慢をして動かずにいる事があります。すると子供からよく質問を受けて弱るのです。もっとも滑稽物や何かで帽子を飛ばして町内中逐(おい)かけて行くと云ったような仕草(しぐさ)は、ただそのままのおかしみで子供だって見ていさえすれば分りますから質問の出る訳もありませんが、人情物、芝居がかった続き物になると時々聞かれます。その問ははなはだ簡単でただ何方が善人で何方が悪人かと云うだけなんです。私から云えば何方も人間にはなっていない、善人にも悪人にもなっておらない。よしなっていたって、幼稚にしろ筋は子供の頭より込入(こみい)っているからそう一口に判断を下してやる訳には行かない。それでどうも迷児(まご)つかされる事がたびたび出て来るのです。大人から云えば、ただ見ていて事件の進行と筋の運び方さえ腑(ふ)に落ちればそれですむのですけれども、悲しいかな子供にはそれほど一部始終を呑(の)み込(こ)む頭がない。と云ってただ茫然(ぼうぜん)と幕に映る人物の影がしきりに活動するのを眺めている訳にも行かない。どうかしてこの込み入った画の配合や人間の立ち廻りを鷲抓(わしづか)みに引っくるめてその特色を最も簡明な形式で頭へ入れたいについてはすでに幼稚な頭の中に幾分でも髣髴(ほうふつ)できる倫理上の二大性質――善か悪かを取(と)りきめてこの錯雑(さくざつ)した光景を締(し)め括(くく)りたい希望からこういう質問をかけるものと思われます。活動写真はまだよい。ところがお伽噺(とぎばなし)や歴史の本などを見て、昔の英雄などについてやはり同様に簡単な質問をかけられる事がある。太閤様(たいこうさま)と正成(まさしげ)とどっちが偉いとか、ワシントンとナポレオンとどっちが強いとか、常陸山(ひたちやま)と弁慶と相撲(すもう)を取ったらどっちが勝つとか、中には返答に困らないのもあるが、多くは挨拶に窮する問題である。要するに複雑な内容を纏(まと)め得る程度以上に纏めた簡略な形式にして見せろと逼(せま)られるのだから困ります。もっとも近来は小学校などでも生徒に問題を出して日本の現代の人物中で誰が一番偉いかなどと聞く先生がある。この間私が或る地方へ行ったらある新聞でそういう問題を出して小学生徒から答案の投書を募(つの)っていました。その中で自分の叔父さんが一番偉いという答を寄こしたのがあると聞いてはなはだ面白く感じました。自分の親父が天下一の人物だなどは至極(しごく)好い了見(りょうけん)で結構です。それは余事であるが、とにかく先生や新聞などからして、日本にたった一人偉い人があって、その人は甲にも乙にも丙にも凌駕(りょうが)しているからあててみろというような数学的の問題を出す世の中だから子供から質問が出るのも無理はない。しかし困ります。楠正成と豊臣秀吉とどっちが偉いと云うが、見方でいろいろな結論もできるし、そう白でなければ黒といった風に手早く相場をつける訳にも行かないし、要するに複雑な智識があればあるほど面喰(めんくら)うようになります。
こんな例を御話しするのはただ馬鹿らしいから御笑草に御聞きに入れるまでの事だと御思いになるかも知れんが、実はそうではない。こう批評して見るとなるほど子供は幼稚で気の毒なものだとしかとれませんが、その幼稚で気の毒の事を大人たる我々があえてしているのだからはなはだ情ない次第で、私は大人として子供はかくのごとくたわいないものだという証拠に自分の娘や何かを例に引いたのではなく、かえって大人もまたこの例に洩(も)れぬ迂愚(うぐ)なものだという事を証明したいと思ってちょっと分りやすい小児を例に用いたのであります。すべて政治家なり文学者なりあるいは実業家なりを比較する場合に誰より誰の方が偉いとか優(まさ)っているとか云って、一概に上下の区別を立てようとするのはたいていの場合においてその道に暗い素人(しろうと)のやる事であります。専門の智識が豊かでよく事情が精(くわ)しく分っていると、そう手短かに纏(まと)めた批評を頭の中に貯えて安心する必要もなく、また批評をしようとすれば複雑な関係が頭に明暸(めいりょう)に出てくるからなかなか「甲より乙が偉い」という簡潔な形式によって判断が浮んで来ないのであります。幼稚な智識をもった者、没分暁漢(ぼつぶんぎょうかん)あるいは門外漢になると知らぬ事を知らないですましているのが至当であり、また本人もそのつもりで平気でいるのでしょうが、どうも処世上の便宜からそう無頓着(むとんじゃく)でいにくくなる場合があるのと、一つは物数奇(ものずき)にせよ問題の要点だけは胸に畳み込んでおく方が心丈夫なので、とかく最後の判断のみを要求したがります。さてその最後の判断と云えば善悪とか優劣とかそう範疇(はんちゅう)はたくさんないのですが無理にもこの尺度に合うようにどんな複雑なものでも委細御構(おかまい)なく切り約(つづ)められるものと仮定してかかるのであります。中味は込入っていて眼がちらちらするだけだからせめて締括(しめくく)った総勘定(そうかんじょう)だけ知りたいと云うなら、まだ穏当な点もあるが、どんな動物を見ても要するにこれは牛かい馬かい牛馬一点張りですべて四つ足を品隲(ひんしつ)されては大分無理ができる。門外漢というものはこの無理に気がつかない、また気がついても構わない。どんな無理な判断でも与えてくれさえすれば安心する。だからお上(かみ)でも高等官一等を拵(こしら)えてみたり、二等を拵えてみたり、あるいは学士、博士を拵えてみたりして門外漢に対して便宜を与え、一種の締括(しめくく)りある二字か三字の記号を本来の区別と心得て満足する連中に安慰を与えている。以上を一口にして云えば物の内容を知り尽した人間、中味の内に生息している人間はそれほど形式に拘泥(こうでい)しないし、また無理な形式を喜ばない傾(かたむき)があるが、門外漢になると中味が分らなくってもとにかく形式だけは知りたがる、そうしてその形式がいかにその物を現すに不適当であっても何でも構わずに一種の智識として尊重すると云う事になるのであります。
これは複雑の事を簡略の例で御話をするのでありますから、そのつもりでお聴きを願いますが、ここに一つの平面があって、それに他の平面が交叉しているとすると、この二つの平面の関係は何で示すかというと、申すまでもなくその両面の喰違った角度である。どっちが高いのでもないどっちが低いのでもない。三十度の角度をなしているとか、六十度の角度をなしているとか云えば極(きわ)めて明暸でそれより以外に説明する事も質問する事も何(なん)にもないのであります。それをこの二面がいつでも偶然平らに並行でもしているかのごとき了見(りょうけん)で、全体どっちが高いのですと聞かなければ承知ができないのは痛み入ります。人間と人間、事件と事件が衝突したり、捲(ま)き合ったり、ぐるぐる回転したりする時その優劣上下が明かに分るような性質程度で、その成行が比較さえできればいい訳だが、惜(お)しい哉(かな)この比較をするだけの材料、比較をするだけの頭、纏(まと)めるだけの根気がないために、すなわち門外漢であるがために、どうしても角度を知ることができないために、上下とか優劣とか持ち合せの定規(じょうぎ)で間に合せたくなるのは今申す通り門外漢の通弊でありますが、私の見るところでは豈独(あにひと)り門外漢のみならんやで、専門の学者もまたそう威張れた義理でもないような概括をして平気でいるのだから驚かれるのです。
学者と云うものは、いろいろの事実を集めて法則を作ったり概括を致します。あるいは何主義とか号してその主義を一纏(ひとまと)めに致します。これは科学にあっても哲学にあっても必要の事であり、また便宜な事で誰しもそれに異存のあるはずはございません。例えば進化論とか、勢力保存とか云うとその言葉自身が必要であるばかりでなく、実際の事実の上において役に立っています。けれども悪くすると前(ぜん)申した子供や門外漢と同じように、内容にあまり合わない形式を拵えてただ表面上の纏りで満足している事が往々あるように思います。この間私は或学者の書いた本を読みました。それはオイケンと云って、近頃独逸(ドイツ)で、有名な学者の著わしたものであります。もっともたくさんの著述のうちでごく短かい一冊を読んだだけでありますが、とにかくその人の説の中にこういう事が書いてありました。現代の人はしきりに自由とか開放とかいうような事を主張する。同時に秩序とか組織とか云うものを要求している。一方では束縛を解いて自由にして貰(もら)わなければたまらないと云っていながら、一方では(例えば資本家というようなものが)秩序とか組織を立てなければ事業が発展しないと騒いでいる。が、この二つの要求を較(くら)べると明かに矛盾である。――ここまでは宜(よろ)しいのです。しかしオイケンはこの矛盾はどっちかに片づけなければならず、また片づけらるべきものであるかのごとき語気で論じていたように記憶していますが――すなわちそういうように相反する事を同時に唱(とな)えておっては矛盾だから、モッと一纏(ひとまと)めにして、意味のある生活を人がやって行かなければならぬというような事を言うのです。ですがあなた方(がた)はまあどうお考えになりますか。オイケンの云う通りでよいと御思いですか、はたしてこの矛盾が一纏めになるものとお思いになりますか。また明かに矛盾しているというお考えでありますか。あなた方にこんな質問をかけたってつまらない、また掛ける必要もありません。が私はどう考えてもオイケンの説は無理だと思うのです。なぜ無理だと言いますと、資本家とかあるいは政府とか、あるいは教育者とか云うものが、総(すべ)て多数の人間を相手にしてそうして、何か事を手早く運び、手際(てぎわ)よく片づけようと云うためには、どうしたって統一と云う事と、組織と云う事と、秩序と云う事を真向(まっこう)に振翳(ふりかざ)さなければできない話である。例えば実業家が事業をする。そのために人夫を百人雇う。職工を千人雇う。そうして彼らの間に規律と云うものが無かったならば、――彼らのうちには今日は頭が痛いから休むというものもできようし、朝の七時からは厭(いや)だからおれは午後から出るとわがままを云うものもできようし、あるいは今日は少し早く切り上げて寄席(よせ)へ行くとか、あるいは今日は朝出がけに酒を飲むんだとか各々勝手な事を、ばらばらに行動されてはせっかく一箇月でできる事業も一年かかるか二年かかるか見込が立たなくなります。けれどもどうでしょうこういう軍人教育者実業家などが公務をしまって家へ帰ってさあこれからがおれの身体(からだ)だという場合に、やはり同じような窮屈極まる生活に甘んずるでしょうか。人によっては寝食の時間など大変規則正しい人もあるかも知れないが、原則から云えば楽に自由な骨休めをしたいと願いまたできるだけその呑気主義を実行するのが一般の習慣であります。すると彼らには明かに背馳(はいち)した両面の生活がある事になる。業務についた自分と業務を離れた自分とはどう見たって矛盾である。しかしこの矛盾は生活の性質から出るやむをえざる矛盾だから、形式から云えばいかにも矛盾のようであるけれども、実際の内面生活から云えばかく二様になる方がかえって本来の調和であって、無理にそれを片づけようとするならばそれこそ真の矛盾に陥(おちい)る訳じゃなかろうかと思います。なぜというと、一つは人を支配するための生活で、一つは自分の嗜慾(しよく)を満足させるための生活なのだから、意味が全く違う。意味が違えば様子も違うのがもっともだといったような話であります。反対の例を挙(あ)げて今度は同じ事を逆に説明してみましょう。世間には芸術家という一種の職業がある。これはすこぶる気まぐれ商売で、共同的にはけっして仕事ができない性質のものであります。幾らやかましい小言(こごと)を云われても個人的にこつこつやって行くのが原則になっています。しかもその個人が気の向いた時でなければけっして働けない。また働かないというはなはだわがままな自己本位の家業になっている。だから朝七時から十二時まで働かなければならないという秩序や組織や順序があったところで、それだけ手際(てぎわ)の良い仕事はできるものでない。すなわち自分の気の向いた時にやったものが一番気の乗った製作となって現われる。したがって芸術家に対しては今申した資本家教育者などの執務ぶりや授業ぶりはあてはまらない。がその個人的に出来上った芸術家でも、彼ら同業者の利益を団体として保護するためには、会なり倶楽部(クラブ)なり、組合なりを組織して、規則その他の束縛を受ける必要ができてくる。彼らの或者は今現にこれを実行しつつある。してみれば放縦不羈(ほうじゅうふき)を生命とする芸術家ですらも時と場合には組織立った会を起し、秩序ある行動を取り、統一のある機関を備えるのである。私はこれを生活の両面に伴う調和と名づけて、けっして矛盾の名を下したくない。矛盾には違なかろうがそれは単に形式上の矛盾であって内面の消息から云えばかえって生活の融合なのである。
ここに学者なるものがあって、突然声を大にして、それは明かに矛盾である、どっちか一方が善くって一方が悪いにきまっている、あるいは一方が一方より小さくて一方が大きいに違いないから、一纏(ひとまと)めにしてモッと大きなもので括(くく)らなければならないと云ったならば、この学者は統一好きな学者の精神はあるにもかかわらず、実際には疎(うと)い人と云わなければならない。現にオイケンと云う人の著述を数多くは読んでおりませんが、私の読んだ限りで云えば、こんな非難を加えることができるようにも思います。こう論じてくると何だか学者は無用の長物のようにも見えるでしょうが私はけっしてそんな過激の説を抱(いだ)いているものではありません。学者は無論有益のものであります。学者のやる統一、概括と云うものの御蔭(おかげ)で我々は日常どのくらい便宜(べんぎ)を得ているか分りません。前に挙(あ)げた進化論と云う三字の言葉だけでも大変重宝なものであります。しかしながら彼ら学者にはすべてを統一したいという念が強いために、出来得る限り何(なん)でもかでも統一しようとあせる結果、また学者の常態として冷然たる傍観者の地位に立つ場合が多いため、ただ形式だけの統一で中味の統一にも何にもならない纏(まと)め方(かた)をして得意になる事も少なくないのは争うべからざる事実であると私は断言したいのです。
冷然たる傍観者の態度がなぜにこの弊を醸(かも)すかとの御質問があるなら私はこう説明したい。ちょっと考えると、彼らは常人より判明(はっきり)した頭をもって、普通の者より根気強く、しっかり考えるのだから彼らの纏(まと)めたものに間違はないはずだと、こういうことになりますが、彼らは彼らの取扱う材料から一歩退(しりぞ)いて佇立(たたず)む癖がある。云い換えれば研究の対象をどこまでも自分から離して眼の前に置こうとする。徹頭徹尾観察者である。観察者である以上は相手と同化する事はほとんど望めない。相手を研究し相手を知るというのは離れて知るの意でその物になりすましてこれを体得するのとは全く趣が違う。幾ら科学者が綿密に自然を研究したって、必竟(ひっきょう)ずるに自然は元の自然で自分も元の自分で、けっして自分が自然に変化する時期が来ないごとく、哲学者の研究もまた永久局外者としての研究で当の相手たる人間の性情に共通の脈を打たしていない場合が多い。学校の倫理の先生が幾ら偉い事を言ったって、つまり生徒は生徒、自分は自分と離れているから生徒の動作だけを形式的に研究する事はできても、事実生徒になって考える事は覚束(おぼつか)ないのと一般である。傍観者と云うものは岡目八目とも云い、当局者は迷うと云う諺(ことわざ)さえあるくらいだから、冷静に構える便宜があって観察する事物がよく分る地位には違ありませんが、その分り方は要するに自分の事が自分に分るのとは大いに趣を異にしている。こういう分り方で纏(まと)め上げたものは器械的に流れやすいのは当然でありましょう。換言すれば形式の上ではよく纏まるけれども、中味から云うといっこう纏っていないというような場合が出て来るのであります。がつまり外からして観察をして相手を離れてその形をきめるだけで内部へ入り込んでその裏面の活動からして自(おのず)から出る形式を捉(とら)え得ないという事になるのです。
これに反して自(みず)から活動しているものはその活動の形式が明かに自分の頭に纏って出て来ないかも知れない代りに、観察者の態度を維持しがちの学者のように表面上の矛盾などを無理に纏めようとする弊害には陥る憂(うれい)がない。さきほどオイケンの批評をやって形式上の矛盾を中味の矛盾と取り違えて是非纏めようとするは迂濶(うかつ)だと云って非難しましたが、あの例にしてからが、もしオイケン自身がこの矛盾のごとく見える生活の両面を親しく体現して、一方では秩序を重んじ一方では開放の必要を同時に感じていたならば、たとい形式上こういう結論に到着したところで、どうも変だどこかに手落があるはずだとまず自(みず)から疑いを起して内省もし得たろうと思うのです。いくら哲学的でも、概括的でも、自分の生活に親しみのない以上は、この概括をあえてすると同時にハテおかしいぞ変だなと勘づかなければなりません。勘づいて内省の結果だんだん分解の歩を進めて見ると、なるほど形式の方にはそれだけの手落があり、抜目があると云うことが判然して来るべきです。だからして中味を持っているものすなわち実生活の経験を甞(な)めているものはその実生活がいかなる形式になるかよく考える暇さえないかも知れないけれども、内容だけはたしかに体得しているし、また外形を纏める人は、誠に綺麗(きれい)に手際(てぎわ)よく纏めるかも知れぬけれども、どこかに手落があり勝である。ちょうど文法というものを中学の生徒などが習いますが、文法を習ったからといってそれがため会話が上手にはなれず、文法は不得意でも話は達者にもやれる通弁などいうものもあって、その方が実際役に立つと同じ事です。同じような例ですが歌を作る規則を知っているから、和歌が上手だと云ったらおかしいでしょう、上手の作った歌がその内に自然と歌の規則を含んでいるのでしょう。文法家に名文家なく、歌の規則などを研究する人に歌人が乏しいとはよく人のいうところですが、もしそうするとせっかく拵(こしら)えた文法に妙に融通の利(き)かない杓子定規(しゃくしじょうぎ)のところができたり、また苦心して纏めた歌の法則も時には好い歌を殺す道具になるように、実地の生活の波濤(はとう)をもぐって来ない学者の概括は中味の性質に頓着(とんじゃく)なくただ形式的に纏めたような弱点が出てくるのもやむをえない訳であります。なおこの理を適切に申しますと、幾ら形と云うものがはっきり頭に分っておっても、どれほどこうならなければならぬという確信があっても、単に形式の上でのみ纏っているだけで、事実それを実現して見ないときには、いつでも不安心のものであります。それはあなた方(がた)の御経験でも分りましょう。四五年前日露戦争と云うものがありました。露西亜(ロシア)と日本とどっちが勝つかというずいぶんな大戦争でありました。日本の国是(こくぜ)はつまり開戦説で、とうとうあの露西亜と戦をして勝ちましたが、あの戦を開いたのはけっして無謀にやったのではありますまい。必ず相当の論拠があり、研究もあって、露西亜の兵隊が何万満洲へ繰出(くりだ)すうちには、日本ではこれだけ繰出せるとか、あるいは大砲は何門あるとか、兵糧(ひょうりょう)はどのくらいあるとか、軍資はどのくらいであるとかたいていの見込は立てたものでありましょう。見込が立たなければ戦争などはできるはずのものではありません。がその戦争をやる前、やる間際(まぎわ)、及びやりつつある間、どのくらい心配をしたか分らない。と云うのはいかに見込のちゃんと明かに立ったものにせよただ形式の上で纏(まとま)っただけでは不安でたまらないのであります。当初の計画通りを実行してそうして旨(うま)く見込に違わない成績をふり返って見て、なるほどと始めて合点(がてん)して納得(なっとく)の行ったような顔をするのは、いくら綺麗(きれい)に形だけが纏っていても実際の経験がそれを証拠立ててくれない以上は大いに心細いのであります。つまり外形というものはそれほどの強味がないという事に帰着するのです。近頃流行(はや)る飛行機でもその通りで、いろいろ学理的に考えた結果、こういう風(ふう)に羽翼(うよく)を附けてこういうように飛ばせば飛ばぬはずはないと見込がついた上でさて雛形(ひながた)を拵(こしら)えて飛ばして見ればはたして飛ぶ。飛ぶことは飛ぶので一応安心はするようなもののそれに自分が乗っていざという時飛べるかどうかとなると飛んで見ないうちはやっぱり不安心だろうと思います。学理通り飛行機が自分を乗せて動いてくれたところで、始めて形式に中味がピッタリ喰っついている事を証明するのだから、経験の裏書を得ない形式はいくら頭の中で完備していると認められても不完全な感じを与えるのであります。
して見ると、要するに形式は内容のための形式であって、形式のために内容ができるのではないと云う訳になる。もう一歩進めて云いますと、内容が変れば外形と云うものは自然の勢いで変って来なければならぬという理窟(りくつ)にもなる。傍観者の態度に甘んずる学者の局外の観察から成る規則法則乃至(ないし)すべての形式や型のために我々生活の内容が構造されるとなると少しく筋が逆になるので、我々の実際生活がむしろ彼ら学者(時によれば法律家と云っても政治家といっても教育家と云っても構いません。とにかく学者的態度で観察一方から形式を整える方面の人を指すのです)に向って研究の材料を与えその結果として一種の形式を彼らが抽象する事ができるのです。その形式が未来の実施上参考にならんとは限らんけれども本来から云えばどうしてもこれが原則でなければならない。しかるに今この順序主客を逆(さかさ)まにしてあらかじめ一種の形式を事実より前に備えておいて、その形式から我々の生活を割出そうとするならば、ある場合にはそこに大変な無理が出なければならない。しかもその無理を遂行しようとすれば、学校なら騒動が起る、一国では革命が起る。政治にせよ教育にせよあるいは会社にせよ、わが朝日社のごとき新聞にあってすらそうである。だから世間でもそう規則ずくめにされちゃたまらないとよく云います。規則や形式が悪いのじゃない。その規則をあてはめられる人間の内面生活は自然に一つの規則を布衍(ふえん)している事は前(ぜん)申し上げた説明ですでに明かな事実なのだから、その内面生活と根本義において牴触(ていしょく)しない規則を抽象して標榜(ひょうぼう)しなくては長持がしない。いたずらに外部から観察して綺麗(きれい)に纏(まと)め上げた規則をさし突けてこれは学者の拵(こしら)えたものだから間違はないと思ってはかえって間違になるのです。
お前の云う通りにすると、大変おかしいことがある。例えて見れば芝居の型だ。また音楽の型とも云うべき譜である。または謡曲のごま節や何かのようなものである。これらにはすべて一定の型があって、その形式をまず手本にしてかえって形式の内容をかたちづくる声とか身ぶりとか云う方をこの型にあて嵌(はま)るように拵(こし)らえて行くではないか。そうしてその声なり身ぶりなりが自然と安らかに毫(ごう)も不満を感ぜずに示された型通り旨(うま)く合うように練習の結果としてできるではないか。あるいは旧派の芝居を見ても、能の仕草を見ても、ここで足をこのくらい前へ出すとか、また手をこのくらい上へ挙(あ)げると一々型の通りにして、しかも自分の活力をそこに打込んで少しも困らないではないか。型を手本に与えておいてその中に精神を打ち込んで働けない法はない。とこういう人があるかも知れない。けれどもこういう場合にはこの型なり形式なりの盛らるべき実質、すなわち音楽で云えば声、芝居で云えば手足などだが、これらの実質はいつも一様に働き得る、いわば変化のないものと見ての話であります。もし形式の中に盛らるべき内容の性質に変化を来すならば、昔の型が今日の型として行わるべきはずのものではない、昔の譜が今日に通用して行くはずはないのであります。例えて見れば人間の声が鳥の声に変化したらどうしたって今日(こんにち)までの音楽の譜は通用しない。四肢胸腰(ししきょうよう)の運動だっても人間の体質や構造に今までとは違ったところができて筋肉の働き方が一筋間違ってきたって、従来の能の型などは崩(くず)れなければならないでしょう。人間の思想やその思想に伴って推移する感情も石や土と同じように、古今永久変らないものと看做(みな)したなら一定不変の型の中に押込めて教育する事もできるし支配する事も容易でしょう。現に封建時代の平民と云うものが、どのくらい長い間一種の型の中に窮屈に身を縮(ちぢ)めて、辛抱しつつ、これは自分の天性に合った型だと認めておったか知れません。仏蘭西(フランス)の革命の時に、バステユと云う牢屋を打壊(うちこわ)して中から罪人を引出してやったら、喜こぶと思いのほか、かえって日の眼を見るのを恐れて、依然として暗い中に這入(はい)っていたがったという話があります。ちょっとおかしな話であるが、日本でも乞食を三日すれば忘れられないと云いますからあるいは本当かも知れません。乞食の型とか牢屋の型とか云うのも妙な言葉ですが、長い年月の間には人間本来の傾向もそういう風に矯(た)めることができないとも限りません。こんな例ばかり見れば既成の型でどこまでも押して行けるという結論にもなりましょうが、それならなぜ徳川氏が亡(ほろ)びて、維新の革命がどうして起ったか。つまり一つの型を永久に持続する事を中味の方で拒(こば)むからなんでしょう。なるほど一時は在来の型で抑(おさ)えられるかも知れないが、どうしたって内容に伴(つ)れ添(そ)わない形式はいつか爆発しなければならぬと見るのが穏当で合理的な見解であると思う。
元来この型そのものが、何のために存在の権利を持っているかというと、前にもお話した通り内容実質を内面の生活上経験することができないにもかかわらずどうでも纏(まと)めて一括(ひとくく)りにしておきたいという念にほかならんので、会社の決算とか学校の点数と同じように表の上で早呑込(はやのみこみ)をする一種の智識慾、もしくは実際上の便宜のためにほかならんのでありますから、厳密な意味でいうと、型自身が独立して自然に存在する訳のものではない。例えばここに茶碗がある。茶碗の恰好(かっこう)といえば誰にでも分るが、その恰好(かっこう)だけを残して実質を取り去ろうとすれば、とうてい取り去る事はできない。実質を取れば形も無くなってしまう。強(し)いて形を存しようとすればただ想像的な抽象物として頭の中に残っているだけである。ちょうど家を造るために図面を引くと一般で、八畳、十畳、床の間と云うように仕切はついていても図面はどこまでも図面で、家としては存在できないにきまっている。要するに図面は家の形式なのである。したがっていくら形式を拵(こしら)えてもそれを構成する物質次第では思いのままの家はできかぬるかも知れないのです。いわんや活(い)きた人間、変化のある人間と云うものは、そう一定不変の型で支配されるはずがない。政(まつりごと)をなす人とか、教育をする人とかは無論、総(すべ)て多くの人を統御(とうぎょ)していこうと云う人も無論、個人が個人と交渉する場合に在(あ)ってすら型は必要なものである。会う時にお時儀(じぎ)をするとか手を握るとか云う型がなければ、社交は成立しない事さえある。けれども相手が物質でない以上は、すなわち動くものである以上は、種々の変化を受ける以上は、時と場合に応じて無理のない型を拵えてやらなければとうていこっちの要求通りに運ぶ訳のものではない。
そこで現今日本の社会状態と云うものはどうかと考えてみると目下非常な勢いで変化しつつある。それに伴(つ)れて我々の内面生活と云うものもまた、刻々と非常な勢いで変りつつある。瞬時の休息なく運転しつつ進んでいる。だから今日の社会状態と、二十年前、三十年前の社会状態とは、大変趣きが違っている。違っているからして、我々の内面生活も違っている。すでに内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元のままに据(す)えておいて、そうしてどこまでもその中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。我々が自分の娘もしくは妻に対する関係の上において御維新前と今日とはどのくらい違うかと云うことを、あなた方(がた)が御認めになったならば、この辺の消息はすぐ御分りになるでしょう。要するにかくのごとき社会を総(す)べる形式というものはどうしても変えなければ社会が動いて行かない。乱れる、纏(まと)まらないということに帰着するだろうと思う。自分の妻女に対してさえも前(ぜん)申した通りである。否わが家(や)の下女に対しても昔とは趣きが違うならば、教育者が一般の学生に向い、政府が一般の人民に対するのも無論手心がなければならないはずである。内容の変化に注意もなく頓着(とんじゃく)もなく、一定不変の型を立てて、そうしてその型はただ在来あるからという意味で、またその型を自分が好いているというだけで、そうして傍観者たる学者のような態度をもって、相手の生活の内容に自分が触れることなしに推(お)していったならば危ない。
一言にして云えば、明治に適切な型というものは、明治の社会的状況、もう少し進んで言うならば、明治の社会的状況を形造るあなた方の心理状態、それにピタリと合うような、無理の最も少ない型でなければならないのです。この頃は個人主義がどうであるとか、自然派の小説がどうであるとか云って、はなはだやかましいけれども、こういう現象が出て来るのは、皆我々の生活の内容が昔と自然に違って来たと云う証拠であって、在来の型と或る意味でどこかしらで衝突するために、昔の型を守ろうと云う人は、それを押潰(おしつぶ)そうとするし、生活の内容に依って自分自身の型を造ろうと云う人は、それに反抗すると云うような場合が大変ありはしないかと思うのです。ちょうど音楽の譜で、声を譜の中に押込めて、声自身がいかに自由に発現しても、その型に背(そむ)かないで行雲流水と同じく極(きわ)めて自然に流れると一般に、我々も一種の型を社会に与えて、その型を社会の人に則(のっと)らしめて、無理がなく行くものか、あるいはここで大いに考えなければならぬものかと云うことは、あなた方の問題でもあり、また一般の人の問題でもあるし、最も多く人を教育する人、最も多く人を支配する人の問題でもある。我々は現に社会の一人である以上、親ともなり子ともなり、朋友(ほうゆう)ともなり、同時に市民であって、政府からも支配され、教育も受けまた或る意味では教育もしなければならない身体(からだ)である。その辺の事をよく考えて、そうして相手の心理状態と自分とピッタリと合せるようにして、傍観者でなく、若い人などの心持にも立入って、その人に適当であり、また自分にももっともだと云うような形式を与えて教育をし、また支配して行かなければならぬ時節ではないかと思われるし、また受身の方から云えばかくのごとき新らしい形式で取扱われなければ一種云うべからざる苦痛を感ずるだろうと考えるのです。
中味と形式と云うことについて、なぜお話をしたかと云うと、以上のような訳でこの問題について我々が考うべき必要があるように思ったからであります。それを具体的にどう現わしてよいかと云うことは、諸君の御判断であります。下らぬことをだいぶ長く述べ立てまして御気の毒です。だいぶ御疲れでしょう。最後まで静粛に御聴き下すったのは講演者として深く謝するところであります。
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