その講演のとき開化の definition を定めました。開化とは人間の energy の発現の径路《けいろ》で、この活力が二つの異《ことな》った方向に延びて行って入り乱れて出来たので、その一つは活力節約の移動といって energy を節約せんとする吾人《ごじん》の努力、他の一つは活力を消耗せんとする趣向《しゅこう》、即ち consumption of energy である。この二つが開化を構成する大なる factors で、これ以外には何もない。故《ゆえ》にこの二つのものは開化の factors として sufficient and necessary である。
それで第一の活力を節約せんとする努力は種々の方向へ出るが、先ず距離をつめる、時間を節約する。手でやれば一時間かかる事も、機械で三十分でやってしまう。あるいは手でやれば一時間かかって一つ出来る所を、十も二十もつくる。そうしてわれわれの生活の便を計《はか》るのです。これがあなた方の専門のものであります。他の factor 即ち consumption of energy の努力は積極的のもので、或《ある》種の人達からは国力等の立場より見做《みな》して消極的なものと誤解されている、文学、美術、音楽、演劇等はこの方面に属します。これらのものはなくてすむものであります、しかもありたいものなのです。これらは、幾分か片方で切りつめて余《あま》った energy をこちらの方に向ける、どちらかといえば押しのふとい方なのです。私らはこの方面へ向って行く。この方面からいえば時間距離なんていう考はありません。飛行機――飛行機のような早いものの必要もなく、堅牢《けんろう》なものの必要もなく、数でこなす必要もない。生涯にたった一つだっていいものを書けばいいのです。即ち私どもとあなた方とはかく反対になっているのです。――二つのものの性質を概括《がいかつ》していうと、あなた方の方は規律で行き、私どもの方は不規律で行く。その代り報酬は極《ごく》悪い。金持になる人、なりたい人は、規律に服従せねばならない。あなた方の方は mechanical science の応用で、私どもの方は mental なのだから割がいいようだが、実は大変に損をしているのです。しかしあなた方は自由が少いが、私どもは自由というものがなければ出来ない仕事であります。なおいいかえれば、あなた方は仕事に服従して我《が》というものをなくなさなければ出来ないのです。各自個々勝手な方面へ行ったなら、仕事はできない。私どもの方は我を発揮しなければ、何も出来ません。
しからばわれわれの文芸は法則を全然無視しているかというと、そうでもない。ベルグソンの哲学には一種の法則みたいなものがある。フランスではベルグソンを立場として、フランスの文芸が近頃出て来ている。しかしわれわれの方では sex の問題とか naturalism とか世間に知れわたった法則等から出立《しゅったつ》するものは、その abstraction の輪廓《りんかく》を画いてその中につめこんだのでは、生きて来ない。内から発生した事にならない。拵《こしら》えものになる。即ちわれわれの方面では、abstraction からは出立されないのです。しからば文学者の作ったものから一つの法則を reduce することはできないかというと、それはできる。しかしそれは作者が自然天然《しぜんてんねん》に書いたものを、他の人が見てそれに philosophical の解釈を与えたときに、その作物《さくぶつ》の中からつかみ出されるもので、初めから法則をつかまえてそれから肉をつけるというのではありません。われわれの方でも時には法則が必要です。何故に必要であるかといえば、これがために作物の depth が出てくるからである。あなた方の法則は universal のものであるが、われわれの方では personal なものの奥に law があるのです。というのは既に出来た作物を読む人々の頭の間をつなぐ共通のあるものがあった時、そこに abstract の law が存在しているという証拠になるのです。personal のものが、universal ではなくても、百人なり二百人なりの読者を得たとき、その読者の頭をつなぐ共通なものが、なくてはならぬ。これが即ち一つの law である。
文芸は law によって govern されてはいけない。personal である。free である。しからばまるで無茶なものかというと、決してそうではないというのであります。
かようにあなた方の出発点とわれわれ文芸家の出発点とは違っている。
そのものの性質よりいえば、われわれの方のものは personal のもので、作物を見て作った人に思い及ぶ。電車の軌道《きどう》は誰が敷いたかと考える必要はないが、芸術家のものでは、誰が作ったということがじき問題になる。従って製作品に対する情緒《じょうしょ》がこれにうつって行って、作物に対する好悪《こうお》の念が作家にうつって行く。なおひろがって作家自身の好悪となり、結局道徳的の問題となる。それ故《ゆえ》当然作物からのみ得られべき感情が作家に及ぼして、しまいには justice という事がなくなって、贔負《ひいき》というものが出来る。芸人にはこの贔負が特に甚だしい。相撲《すもう》なんかそれです。私の友人に相撲のすきな人があるが、この人は勝った方がすきだと申します。この人なんか正義の人で、公平で、決して贔負ではない。贔負になるとこんな事が出来ない。かく芸を離れて当人になってくるのは角力《すもう》か役者に多い。作物になるとさほどでもないようにも見える。
これほどまでに芸術とか文芸とかいうものは personal である。personal であるから自己に重きを置く。自己がなくなったら personal でなくなるのはあたり前であるが、その自己がなくなれば芸術は駄目である。
あなた方の方では技術と自然との間に何らの矛盾もない。しかし私どもの方には矛盾がある。即ちごまかしがきくのです。悲しくもないのに泣いたり、嬉しくもないのに笑ったり、腹も立たないのに怒ったり、こんな講壇の上などに立ってあなた方から偉く見られようとしたりするので――これは或《ある》程度まで成功します。これは一種の art である。art と人間の間には距離を生じて矛盾を生じやすい。あなた方にも人格にない art を弄《ろう》している事がたくさんある。即ちねむいのに、睡くないようなふりをするなどはその一例です。かく art は恐ろしい。われわれにとっては art は二の次《つぎ》で、人格が第一なのです。孔子様《こうしさま》でなければ人格がない、なんていうのじゃない。人格といったってえらいという事でもなければ、偉くないという事でもない。個人の思想なり観念なりを中心として考えるということである。