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明暗


        一


 医者は探《さぐ》りを入れた後《あと》で、手術台の上から津田《つだ》を下《おろ》した。

「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。この前《まえ》探《さぐ》った時は、途中に瘢痕《はんこん》の隆起《りゅうき》があったので、ついそこが行《い》きどまりだとばかり思って、ああ云ったんですが、今日《きょう》疎通を好くするために、そいつをがりがり掻《か》き落して見ると、まだ奥があるんです」

「そうしてそれが腸まで続いているんですか」

「そうです。五分ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」

 津田の顔には苦笑の裡《うち》に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「御気の毒ですが事実だから仕方がありません。医者は自分の職業に対して虚言《うそ》を吐《つ》く訳に行かないんですから」という意味に受取れた。

 津田は無言のまま帯を締《し》め直して、椅子《いす》の背に投げ掛けられた袴《はかま》を取り上げながらまた医者の方を向いた。

「腸まで続いているとすると、癒《なお》りっこないんですか」

「そんな事はありません」

 医者は活溌《かっぱつ》にまた無雑作《むぞうさ》に津田の言葉を否定した。併《あわ》せて彼の気分をも否定するごとくに。

「ただ今《いま》までのように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経《た》っても肉の上《あが》りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思《ひとおも》いにやるよりほかに仕方がありませんね」

「根本的の治療と云うと」

「切開《せっかい》です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然《てんねんしぜん》割《さ》かれた面《めん》の両側が癒着《ゆちゃく》して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです」

 津田は黙って点頭《うなず》いた。彼の傍《そば》には南側の窓下に据《す》えられた洋卓《テーブル》の上に一台の顕微鏡《けんびきょう》が載っていた。医者と懇意な彼は先刻《さっき》診察所へ這入《はい》った時、物珍らしさに、それを覗《のぞ》かせて貰《もら》ったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影《と》ったように鮮《あざ》やかに見える着色の葡萄状《ぶどうじょう》の細菌であった。

 津田は袴を穿《は》いてしまって、その洋卓の上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌の事を思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐《ふところ》に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇《ちゅうちょ》した。

「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝《みぞ》を全部腸の方へ切り開いてしまっても癒らないんでしょう」

「結核性なら駄目です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んで行くんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」

 津田は思わず眉《まゆ》を寄せた。

「私《わたし》のは結核性じゃないんですか」

「いえ、結核性じゃありません」

 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと眼を医者の上に据《す》えた。医者は動かなかった。

「どうしてそれが分るんですか。ただの診察で分るんですか」

「ええ。診察《み》た様子で分ります」

 その時看護婦が津田の後《あと》に廻った患者の名前を室《へや》の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。

「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」

「いつでも。あなたの御都合の好い時でようござんす」

 津田は自分の都合を善く考えてから日取をきめる事にして室外に出た。


        二


 電車に乗った時の彼の気分は沈んでいた。身動きのならないほど客の込み合う中で、彼は釣革《つりかわ》にぶら下りながらただ自分の事ばかり考えた。去年の疼痛《とうつう》がありありと記憶の舞台《ぶたい》に上《のぼ》った。白いベッドの上に横《よこた》えられた無残《みじめ》な自分の姿が明かに見えた。鎖を切って逃げる事ができない時に犬の出すような自分の唸《うな》り声が判然《はっきり》聴えた。それから冷たい刃物の光と、それが互に触れ合う音と、最後に突然両方の肺臓から一度に空気を搾《しぼ》り出《だ》すような恐ろしい力の圧迫と、圧《お》された空気が圧されながらに収縮する事ができないために起るとしか思われない劇《はげ》しい苦痛とが彼の記憶を襲《おそ》った。

 彼は不愉快になった。急に気を換《か》えて自分の周囲を眺めた。周囲のものは彼の存在にすら気がつかずにみんな澄ましていた。彼はまた考えつづけた。

「どうしてあんな苦しい目に会ったんだろう」

 荒川堤《あらかわづつみ》へ花見に行った帰り途から何らの予告なしに突発した当時の疼痛《とうつう》について、彼は全くの盲目漢《めくら》であった。その原因はあらゆる想像のほかにあった。不思議というよりもむしろ恐ろしかった。

「この肉体はいつ何時《なんどき》どんな変《へん》に会わないとも限らない。それどころか、今|現《げん》にどんな変がこの肉体のうちに起りつつあるかも知れない。そうして自分は全く知らずにいる。恐ろしい事だ」

 ここまで働らいて来た彼の頭はそこでとまる事ができなかった。どっと後《うしろ》から突き落すような勢で、彼を前の方に押しやった。突然彼は心の中《うち》で叫んだ。

「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。いつどう変るか分らない。そうしてその変るところをおれは見たのだ」

 彼は思わず唇《くちびる》を固く結んで、あたかも自尊心を傷《きずつ》けられた人のような眼を彼の周囲に向けた。けれども彼の心のうちに何事が起りつつあるかをまるで知らない車中の乗客は、彼の眼遣《めづかい》に対して少しの注意も払わなかった。

 彼の頭は彼の乗っている電車のように、自分自身の軌道《レール》の上を走って前へ進むだけであった。彼は二三日《にさんち》前ある友達から聞いたポアンカレーの話を思い出した。彼のために「偶然」の意味を説明してくれたその友達は彼に向ってこう云った。

「だから君、普通世間で偶然だ偶然だという、いわゆる偶然の出来事というのは、ポアンカレーの説によると、原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない時に云うのだね。ナポレオンが生れるためには或特別の卵と或特別の精虫の配合が必要で、その必要な配合が出来得るためには、またどんな条件が必要であったかと考えて見ると、ほとんど想像がつかないだろう」

 彼は友達の言葉を、単に与えられた新らしい知識の断片として聞き流す訳に行かなかった。彼はそれをぴたりと自分の身の上に当《あ》て篏《は》めて考えた。すると暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後《うし》ろに引き戻したりするように思えた。しかも彼はついぞ今まで自分の行動について他《ひと》から牽制《けんせい》を受けた覚《おぼえ》がなかった。する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰《もら》おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。偶然? ポアンカレーのいわゆる複雑の極致? 何だか解らない」

 彼は電車を降りて考えながら宅《うち》の方へ歩いて行った。


        三


 角《かど》を曲って細い小路《こうじ》へ這入《はい》った時、津田はわが門前に立っている細君の姿を認めた。その細君はこっちを見ていた。しかし津田の影が曲り角から出るや否や、すぐ正面の方へ向き直った。そうして白い繊《ほそ》い手を額の所へ翳《かざ》すようにあてがって何か見上げる風をした。彼女は津田が自分のすぐ傍《そば》へ寄って来るまでその態度を改めなかった。

「おい何を見ているんだ」

 細君は津田の声を聞くとさも驚ろいたように急にこっちをふり向いた。

「ああ吃驚《びっくり》した。――御帰り遊ばせ」

 同時に細君は自分のもっているあらゆる眼の輝きを集めて一度に夫の上に注《そそ》ぎかけた。それから心持腰を曲《かが》めて軽い会釈《えしゃく》をした。

 半《なか》ば細君の嬌態《きょうたい》に応じようとした津田は半《なか》ば逡巡《しゅんじゅん》して立ち留まった。

「そんな所に立って何をしているんだ」

「待ってたのよ。御帰りを」

「だって何か一生懸命に見ていたじゃないか」

「ええ。あれ雀《すずめ》よ。雀が御向うの宅《うち》の二階の庇《ひさし》に巣を食ってるんでしょう」

 津田はちょっと向うの宅の屋根を見上げた。しかしそこには雀らしいものの影も見えなかった。細君はすぐ手を夫の前に出した。

「何だい」

「洋杖《ステッキ》」

 津田は始めて気がついたように自分の持っている洋杖を細君に渡した。それを受取った彼女はまた自分で玄関の格子戸《こうしど》を開けて夫を先へ入れた。それから自分も夫の後《あと》に跟《つ》いて沓脱《くつぬぎ》から上《あが》った。

 夫に着物を脱ぎ換えさせた彼女は津田が火鉢《ひばち》の前に坐《すわ》るか坐らないうちに、また勝手の方から石鹸入《しゃぼんいれ》を手拭《てぬぐい》に包んで持って出た。

「ちょっと今のうち一風呂《ひとふろ》浴びていらっしゃい。またそこへ坐り込むと臆劫《おっくう》になるから」

 津田は仕方なしに手を出して手拭《てぬぐい》を受取った。しかしすぐ立とうとはしなかった。

「湯は今日はやめにしようかしら」

「なぜ。――さっぱりするから行っていらっしゃいよ。帰るとすぐ御飯にして上げますから」

 津田は仕方なしにまた立ち上った。室《へや》を出る時、彼はちょっと細君の方をふり返った。

「今日帰りに小林さんへ寄って診《み》て貰って来たよ」

「そう。そうしてどうなの、診察の結果は。おおかたもう癒《なお》ってるんでしょう」

「ところが癒らない。いよいよ厄介な事になっちまった」

 津田はこう云ったなり、後《あと》を聞きたがる細君の質問を聞き捨てにして表へ出た。

 同じ話題が再び夫婦の間《あいだ》に戻って来たのは晩食《ゆうめし》が済んで津田がまだ自分の室へ引き取らない宵《よい》の口《くち》であった。

「厭《いや》ね、切るなんて、怖《こわ》くって。今までのようにそっとしておいたってよかないの」

「やっぱり医者の方から云うとこのままじゃ危険なんだろうね」

「だけど厭だわ、あなた。もし切り損ないでもすると」

 細君は濃い恰好《かっこう》の好い眉《まゆ》を心持寄せて夫を見た。津田は取り合ずに笑っていた。すると細君が突然気がついたように訊《き》いた。

「もし手術をするとすれば、また日曜でなくっちゃいけないんでしょう」

 細君にはこの次の日曜に夫と共に親類から誘われて芝居見物に行く約束があった。

「まだ席を取ってないんだから構やしないさ、断わったって」

「でもそりゃ悪いわ、あなた。せっかく親切にああ云ってくれるものを断《ことわ》っちゃ」

「悪かないよ。相当の事情があって断わるんなら」

「でもあたし行きたいんですもの」

「御前は行きたければおいでな」

「だからあなたもいらっしゃいな、ね。御厭《おいや》?」

 津田は細君の顔を見て苦笑を洩《も》らした。


        四


 細君は色の白い女であった。そのせいで形の好い彼女の眉《まゆ》が一際《ひときわ》引立って見えた。彼女はまた癖のようによくその眉を動かした。惜しい事に彼女の眼は細過ぎた。おまけに愛嬌《あいきょう》のない一重瞼《ひとえまぶち》であった。けれどもその一重瞼の中に輝やく瞳子《ひとみ》は漆黒《しっこく》であった。だから非常によく働らいた。或時は専横《せんおう》と云ってもいいくらいに表情を恣《ほしい》ままにした。津田は我知らずこの小《ちい》さい眼から出る光に牽《ひ》きつけられる事があった。そうしてまた突然何の原因もなしにその光から跳《は》ね返される事もないではなかった。

 彼がふと眼を上げて細君を見た時、彼は刹那《せつな》的に彼女の眼に宿る一種の怪しい力を感じた。それは今まで彼女の口にしつつあった甘い言葉とは全く釣り合わない妙な輝やきであった。相手の言葉に対して返事をしようとした彼の心の作用がこの眼つきのためにちょっと遮断《しゃだん》された。すると彼女はすぐ美くしい歯を出して微笑した。同時に眼の表情があとかたもなく消えた。

「嘘《うそ》よ。あたし芝居なんか行かなくってもいいのよ。今のはただ甘ったれたのよ」

 黙った津田はなおしばらく細君から眼を放さなかった。

「何だってそんなむずかしい顔をして、あたしを御覧になるの。――芝居はもうやめるから、この次の日曜に小林さんに行って手術を受けていらっしゃい。それで好いでしょう。岡本へは二三日中《にさんちじゅう》に端書《はがき》を出すか、でなければ私がちょっと行って断わって来ますから」

「御前は行ってもいいんだよ。せっかく誘ってくれたもんだから」

「いえ私も止《よ》しにするわ。芝居よりもあなたの健康の方が大事ですもの」

 津田は自分の受けべき手術についてなお詳《くわ》しい話を細君にしなければならなかった。

「手術ってたって、そう腫物《できもの》の膿《うみ》を出すように簡単にゃ行かないんだよ。最初|下剤《げざい》をかけてまず腸を綺麗《きれい》に掃除しておいて、それからいよいよ切開すると、出血の危険があるかも知れないというので、創口《きずぐち》へガーゼを詰《つ》めたまま、五六日の間はじっとして寝ているんだそうだから。だからたといこの次の日曜に行くとしたところで、どうせ日曜一日じゃ済まないんだ。その代り日曜が延びて月曜になろうとも火曜になろうとも大した違にゃならないし、また日曜を繰《く》り上げて明日《あした》にしたところで、明後日《あさって》にしたところで、やっぱり同じ事なんだ。そこへ行くとまあ楽な病気だね」

「あんまり楽でもないわあなた、一週間も寝たぎりで動く事ができなくっちゃ」

 細君はまたぴくぴくと眉を動かして見せた。津田はそれに全く無頓着《むとんじゃく》であると云った風に、何か考えながら、二人の間に置かれた長火鉢《ながひばち》の縁《ふち》に右の肘《ひじ》を靠《も》たせて、その中に掛けてある鉄瓶《てつびん》の葢《ふた》を眺めた。朱銅《しゅどう》の葢の下では湯の沸《たぎ》る音が高くした。

「じゃどうしても御勤めを一週間ばかり休まなくっちゃならないわね」

「だから吉川《よしかわ》さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」

「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生《ふだん》からあんなに御世話になっているんですもの」

「吉川さんに話したら明日《あした》からすぐ入院しろって云うかも知れない」

 入院という言葉を聞いた細君は急に細い眼を広げるようにした。

「入院? 入院なさるんじゃないでしょう」

「まあ入院さ」

「だって小林さんは病院じゃないっていつかおっしゃったじゃないの。みんな外来の患者ばかりだって」

「病院というほどの病院じゃないが、診察所の二階が空《あ》いてるもんだから、そこへ入《は》いる事もできるようになってるんだ」

「綺麗《きれい》?」

 津田は苦笑した。

「自宅《うち》よりは少しあ綺麗かも知れない」

 今度は細君が苦笑した。


        五


 寝る前の一時間か二時間を机に向って過ごす習慣になっていた津田はやがて立ち上った。細君は今まで通りの楽な姿勢で火鉢《ひばち》に倚《よ》りかかったまま夫を見上げた。

「また御勉強?」

 細君は時々立ち上がる夫に向ってこう云った。彼女がこういう時には、いつでもその語調のうちに或物足らなさがあるように津田の耳に響いた。ある時の彼は進んでそれに媚《こ》びようとした。ある時の彼はかえって反感的にそれから逃《のが》れたくなった。どちらの場合にも、彼の心の奥底には、「そう御前のような女とばかり遊んじゃいられない。おれにはおれでする事があるんだから」という相手を見縊《みくび》った自覚がぼんやり働らいていた。

 彼が黙って間《あい》の襖《ふすま》を開けて次の室《へや》へ出て行こうとした時、細君はまた彼の背後《うしろ》から声を掛けた。

「じゃ芝居はもうおやめね。岡本へは私から断っておきましょうね」

 津田はちょっとふり向いた。

「だから御前はおいでよ、行きたければ。おれは今のような訳で、どうなるか分らないんだから」

 細君は下を向いたぎり夫を見返さなかった。返事もしなかった。津田はそれぎり勾配《こうばい》の急な階子段《はしごだん》をぎしぎし踏んで二階へ上《あが》った。

 彼の机の上には比較的大きな洋書が一冊|載《の》せてあった。彼は坐るなりそれを開いて枝折《しおり》の挿《はさ》んである頁《ページ》を目標《めあて》にそこから読みにかかった。けれども三四日《さんよっか》等閑《なおざり》にしておいた咎《とが》が祟《たた》って、前後の続き具合がよく解らなかった。それを考え出そうとするためには勢い前の所をもう一遍読み返さなければならないので、気の差《さ》した彼は、読む事の代りに、ただ頁をばらばらと翻《ひるがえ》して書物の厚味ばかりを苦にするように眺めた。すると前途|遼遠《りょうえん》という気が自《おのず》から起った。

 彼は結婚後三四カ月目に始めてこの書物を手にした事を思い出した。気がついて見るとそれから今日《こんにち》までにもう二カ月以上も経《た》っているのに、彼の読んだ頁はまだ全体の三分の二にも足らなかった。彼は平生から世間へ出る多くの人が、出るとすぐ書物に遠ざかってしまうのを、さも下らない愚物《ぐぶつ》のように細君の前で罵《ののし》っていた。それを夫の口癖として聴かされた細君はまた彼を本当の勉強家として認めなければならないほど比較的多くの時間が二階で費やされた。前途遼遠という気と共に、面目ないという心持がどこからか出て来て、意地悪く彼の自尊心を擽《くすぐ》った。

 しかし今彼が自分の前に拡《ひろ》げている書物から吸収しようと力《つと》めている知識は、彼の日々の業務上に必要なものではなかった。それにはあまりに専門的で、またあまりに高尚過ぎた。学校の講義から得た知識ですら滅多《めった》に実際の役に立った例《ためし》のない今の勤め向きとはほとんど没交渉と云ってもいいくらいのものであった。彼はただそれを一種の自信力として貯《たくわ》えておきたかった。他の注意を惹《ひ》く粧飾《しょうしょく》としても身に着けておきたかった。その困難が今の彼に朧気《おぼろげ》ながら見えて来た時、彼は彼の己惚《おのぼれ》に訊《き》いて見た。

「そう旨《うま》くは行かないものかな」

 彼は黙って煙草《たばこ》を吹かした。それから急に気がついたように書物を伏せて立ち上った。そうして足早《あしばや》に階子段をまたぎしぎし鳴らして下へ降りた。


        六


「おいお延《のぶ》」

 彼は襖越《ふすまご》しに細君の名を呼びながら、すぐ唐紙《からかみ》を開けて茶の間の入口に立った。すると長火鉢《ながひばち》の傍《わき》に坐っている彼女の前に、いつの間にか取り拡げられた美くしい帯と着物の色がたちまち彼の眼に映った。暗い玄関から急に明るい電灯の点《つ》いた室《へや》を覗《のぞ》いた彼の眼にそれが常よりも際立《きわだ》って華麗《はなやか》に見えた時、彼はちょっと立ち留まって細君の顔と派出《はで》やかな模様《もよう》とを等分に見較《みくら》べた。

「今時分そんなものを出してどうするんだい」

 お延は檜扇《ひおうぎ》模様の丸帯の端《はじ》を膝の上に載せたまま、遠くから津田を見やった。

「ただ出して見たのよ。あたしこの帯まだ一遍も締《し》めた事がないんですもの」

「それで今度《こんだ》その服装《なり》で芝居《しばや》に出かけようと云うのかね」

 津田の言葉には皮肉に伴う或冷やかさがあった。お延は何《なん》にも答えずに下を向いた。そうしていつもする通り黒い眉《まゆ》をぴくりと動かして見せた。彼女に特異なこの所作《しょさ》は時として変に津田の心を唆《そその》かすと共に、時として妙に彼の気持を悪くさせた。彼は黙って縁側《えんがわ》へ出て厠《かわや》の戸を開けた。それからまた二階へ上がろうとした。すると今度は細君の方から彼を呼びとめた。

「あなた、あなた」

 同時に彼女は立って来た。そうして彼の前を塞《ふさ》ぐようにして訊《き》いた。

「何か御用なの」

 彼の用事は今の彼にとって細君の帯よりも長襦袢《ながじゅばん》よりもむしろ大事なものであった。

「御父さんからまだ手紙は来なかったかね」

「いいえ来ればいつもの通り御机の上に載せておきますわ」

 津田はその予期した手紙が机の上に載っていなかったから、わざわざ下りて来たのであった。

「郵便函《ゆうびんばこ》の中を探させましょうか」

「来れば書留だから、郵便函の中へ投げ込んで行くはずはないよ」

「そうね、だけど念のためだから、あたしちょいと見て来るわ」

 御延は玄関の障子《しょうじ》を開けて沓脱《くつぬぎ》へ下りようとした。

「駄目だよ。書留がそんな中に入ってる訳がないよ」

「でも書留でなくってただのが入ってるかも知れないから、ちょっと待っていらっしゃい」

 津田はようやく茶の間へ引き返して、先刻《さっき》飯を食う時に坐った座蒲団《ざぶとん》が、まだ火鉢《ひばち》の前に元の通り据《す》えてある上に胡坐《あぐら》をかいた。そうしてそこに燦爛《さんらん》と取り乱された濃い友染模様《ゆうぜんもよう》の色を見守った。

 すぐ玄関から取って返したお延の手にははたして一通の書状があった。

「あってよ、一本。ことによると御父さまからかも知れないわ」

 こう云いながら彼女は明るい電灯の光に白い封筒を照らした。

「ああ、やっぱりあたしの思った通り、御父さまからよ」

「何だ書留じゃないのか」

 津田は手紙を受け取るなり、すぐ封を切って読み下した。しかしそれを読んでしまって、また封筒へ収めるために巻き返した時には、彼の手がただ器械的に動くだけであった。彼は自分の手元も見なければ、またお延の顔も見なかった。ぼんやり細君のよそ行着《ゆきぎ》の荒い御召《おめし》の縞柄《しまがら》を眺めながら独《ひと》りごとのように云った。

「困るな」

「どうなすったの」

「なに大した事じゃない」

 見栄《みえ》の強い津田は手紙の中に書いてある事を、結婚してまだ間もない細君に話したくなかった。けれどもそれはまた細君に話さなければならない事でもあった。


        七


「今月はいつも通り送金ができないからそっちでどうか都合しておけというんだ。年寄はこれだから困るね。そんならそうともっと早く云ってくれればいいのに、突然金の要《い》る間際《まぎわ》になって、こんな事を云って来て……」

「いったいどういう訳なんでしょう」

 津田はいったん巻き収めた手紙をまた封筒から出して膝《ひざ》の上で繰り拡げた。

「貸家が二軒先月末に空《あ》いちまったんだそうだ。それから塞《ふさ》がってる分からも家賃が入って来ないんだそうだ。そこへ持って来て、庭の手入だの垣根の繕《つくろ》いだので、だいぶ臨時費が嵩《かさ》んだから今月は送れないって云うんだ」

 彼は開いた手紙を、そのまま火鉢《ひばち》の向う側にいるお延の手に渡した。御延はまた何も云わずにそれを受取ったぎり、別に読もうともしなかった。この冷かな細君の態度を津田は最初から恐れていたのであった。

「なにそんな家賃なんぞ当《あて》にしないだって、送ってさえくれようと思えばどうにでも都合はつくのさ。垣根を繕うたっていくらかかるものかね。煉瓦《れんが》の塀《へい》を一丁も拵《こしら》えやしまいし」

 津田の言葉に偽《いつわり》はなかった。彼の父はよし富裕でないまでも、毎月《まいげつ》息子《むすこ》夫婦のためにその生計の不足を補ってやるくらいの出費に窮する身分ではなかった。ただ彼は地味な人であった。津田から云えば地味過ぎるぐらい質素であった。津田よりもずっと派出《はで》好きな細君から見ればほとんど無意味に近い節倹家であった。

「御父さまはきっと私達《わたしたち》が要らない贅沢《ぜいたく》をして、むやみに御金をぱっぱっと遣《つか》うようにでも思っていらっしゃるのよ。きっとそうよ」

「うんこの前京都へ行った時にも何だかそんな事を云ってたじゃないか。年寄はね、何でも自分の若い時の生計《くらし》を覚えていて、同年輩の今の若いものも、万事自分のして来た通りにしなければならないように考えるんだからね。そりゃ御父さんの三十もおれの三十も年歯《とし》に変りはないかも知れないが、周囲《ぐるり》はまるで違っているんだからそうは行かないさ。いつかも会へ行く時会費はいくらだと訊《き》くから五円だって云ったら、驚ろいて恐ろしいような顔をした事があるよ」

 津田は平生《ふだん》からお延が自分の父を軽蔑《けいべつ》する事を恐れていた。それでいて彼は彼女の前にわが父に対する非難がましい言葉を洩《も》らさなければならなかった。それは本当に彼の感じた通りの言葉であった。同時にお延の批判に対して先手を打つという点で、自分と父の言訳にもなった。

「で今月はどうするの。ただでさえ足りないところへ持って来て、あなたが手術のために一週間も入院なさると、またそっちの方でもいくらかかかるでしょう」

 夫の手前老人に対する批評を憚《はば》かった細君の話頭《わとう》は、すぐ実際問題の方へ入って来た。津田の答は用意されていなかった。しばらくして彼は小声で独語《ひとりごと》のように云った。

「藤井の叔父に金があると、あすこへ行くんだが……」

 お延は夫の顔を見つめた。

「もう一遍御父さまのところへ云って上げる訳にゃ行かないの。ついでに病気の事も書いて」

「書いてやれない事もないが、また何とかかとか云って来られると面倒だからね。御父さんに捕まると、そりゃなかなか埒《らち》は開《あ》かないよ」

「でもほかに当《あて》がなければ仕方なかないの」

「だから書かないとは云わない。こっちの事情が好く向うへ通じるようにする事はするつもりだが、何しろすぐの間には合わないからな」

「そうね」

 その時津田は真《ま》ともにお延の方を見た。そうして思い切ったような口調で云った。

「どうだ御前岡本さんへ行ってちょっと融通して貰って来ないか」


        八


「厭《いや》よ、あたし」

 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀《よど》みもなかった。遠慮と斟酌《しんしゃく》を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然|停《と》められた時のような衝撃《ショック》を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。

「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」

 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。

「そうかい。それじゃ強《し》いて頼まないでもいい。しかし……」

 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬《すく》って追《お》い退《の》けるように遮《さえぎ》った。

「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計《くらし》に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」

 お延が一概に津田の依頼を斥《しりぞ》けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄《みえ》に制せられたのだという事がようやく津田の腑《ふ》に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。

「そんなに楽な身分のように吹聴《ふいちょう》しちゃ困るよ。買い被《かぶ》られるのもいいが、時によるとかえってそれがために迷惑しないとも限らないからね」

「あたし吹聴した覚《おぼえ》なんかないわ。ただ向うでそうきめているだけよ」

 津田は追窮《ついきゅう》もしなかった。お延もそれ以上説明する面倒を取らなかった。二人はちょっと会話を途切《とぎ》らした後でまた実際問題に立ち戻った。しかし今まで自分の経済に関して余り心を痛めた事のない津田には、別にどうしようという分別《ふんべつ》も出なかった。「御父さんにも困っちまうな」というだけであった。

 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。

「これどうかしましょうか」

 彼女は金《きん》の入った厚い帯の端《はじ》を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳《かざ》した。津田にはその意味がちょっと呑《の》み込めなかった。

「どうかするって、どうするんだい」

「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」

 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段《さんだん》を、嫁に来たての若い細君が、疾《と》くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。

「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」

「ないわ、そんな事」

 お延は笑いながら、軽蔑《さげす》むような口調で津田の問を打ち消した。

「じゃ質に入れるにしたところで様子が分らないだろう」

「ええ。だけどそんな事何でもないでしょう。入れると事がきまれば」

 津田は極端な場合のほか、自分の細君にそうした下卑《げび》た真似《まね》をさせたくなかった。お延は弁解した。

「時《とき》が知ってるのよ。あの婢《おんな》は宅《うち》にいる時分よく風呂敷包を抱えて質屋へ使いに行った事があるんですって。それから近頃じゃ端書《はがき》さえ出せば、向うから品物を受取りに来てくれるっていうじゃありませんか」

 細君が大事な着物や帯を自分のために提供してくれるのは津田にとって嬉《うれ》しい事実であった。しかしそれをあえてさせるのはまた彼にとっての苦痛にほかならなかった。細君に対して気の毒というよりもむしろ夫の矜《ほこ》りを傷《きずつ》けるという意味において彼は躊躇《ちゅうちょ》した。

「まあよく考えて見よう」

 彼は金策上何らの解決も与えずにまた二階へ上《あが》って行った。


        九


 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段《はしごだん》の途中で吉川に出会った。しかし彼は下《くだ》りがけ、向《むこう》は上《のぼ》りがけだったので、擦《す》れ違《ちがい》に叮嚀《ていねい》な御辞儀《おじぎ》をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯《ひるめし》に間もないという頃、彼はそっと吉川の室《へや》の戸を敲《たた》いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草《たばこ》を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。

「何か用かい」

 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。

「ちょっと……」

「君自身の用事かい」

 津田は固《もと》より表向の用事で、この室へ始終《しじゅう》出入《しゅつにゅう》すべき人ではなかった。跋《ばつ》の悪そうな顔つきをした彼は答えた。

「そうです。ちょっと……」

「そんなら後《あと》にしてくれたまえ。今少し差支《さしつか》えるから」

「はあ。気がつかない事をして失礼しました」

 音のしないように戸を締《し》めた津田はまた自分の机の前に帰った。

 午後になってから彼は二返《にへん》ばかり同じ戸の前に立った。しかし二返共吉川の姿はそこに見えなかった。

「どこかへ行かれたのかい」

 津田は下へ降りたついでに玄関にいる給使《きゅうじ》に訊《き》いた。眼鼻だちの整ったその少年は、石段の下に寝ている毛の長い茶色の犬の方へ自分の手を長く出して、それを段上へ招き寄せる魔術のごとくに口笛を鳴らしていた。

「ええ先刻《さっき》御客さまといっしょに御出かけになりました。ことによると今日はもうこちらへは御帰りにならないかも知れませんよ」

 毎日人の出入《でいり》の番ばかりして暮しているこの給使は、少なくともこの点にかけて、津田よりも確な予言者であった。津田はだれが伴《つ》れて来たか分らない茶色の犬と、それからその犬を友達にしようとして大いに骨を折っているこの給使とをそのままにしておいて、また自分の机の前に立ち戻った。そうしてそこで定刻まで例のごとく事務を執《と》った。

 時間になった時、彼はほかの人よりも一足|後《おく》れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋《ポッケット》から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅《うち》へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。

 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅《うち》まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜《くぐ》る必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。

「津田は吉川と特別の知り合である」

 彼は時々こういう事実を背中に背負《しょ》って見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自《みずか》ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫《ごう》も崩《くず》さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他《ひと》に見せたがるのと同じような心理作用の下《もと》に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽《あ》くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。


        十


 厳《いか》めしい表玄関の戸はいつもの通り締《し》まっていた。津田はその上半部《じょうはんぶ》に透《すか》し彫《ぼり》のように篏《は》め込《こ》まれた厚い格子《こうし》の中を何気なく覗《のぞ》いた。中には大きな花崗石《みかげいし》の沓脱《くつぬぎ》が静かに横たわっていた。それから天井《てんじょう》の真中から蒼黒《あおぐろ》い色をした鋳物《いもの》の電灯笠《でんとうがさ》が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例《ためし》のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍《そば》にある内玄関《ないげんかん》から案内を頼んだ。

「まだ御帰りになりません」

 小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて彼の前に膝《ひざ》をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑《の》み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊《き》いた。

「奥さんはおいでですか」

「奥さんはいらっしゃいます」

 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。

「ではどうぞ奥さんに」

 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭《いや》な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。

 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆《たばこぼん》も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。

「今御帰りがけ?」

 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。

「奥さんはどうなすって」

 津田の挨拶《あいさつ》に軽い会釈《えしゃく》をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊《き》いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。

「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅《うち》へいらっしゃらなくなったようね」

 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下《としした》の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下《めした》の男であった。

「まだ嬉《うれ》しいんでしょう」

 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。

「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」

「ええもう半歳《はんとし》と少しになります」

「早いものね、ついこの間《あいだ》だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」

「何がです」

「御夫婦仲がよ」

「別にどうという事もありません」

「じゃもう嬉《うれ》しいところは通り越しちまったの。嘘《うそ》をおっしゃい」

「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」

「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」

「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」

「時にあなた御いくつ?」

「もうたくさんです」

「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊《さっぱり》とおっしゃいよ」

「じゃ申し上げます。実は三十です」

「すると来年はもう一ね」

「順に行けばまあそうなる勘定《かんじょう》です」

「お延さんは?」

「あいつは三です」

「来年?」

「いえ今年」


        十一


 吉川の細君はこんな調子でよく津田に調戯《からか》った。機嫌《きげん》の好い時はなおさらであった。津田も折々は向うを調戯い返した。けれども彼の見た細君の態度には、笑談《じょうだん》とも真面目《まじめ》とも片のつかない或物が閃《ひら》めく事がたびたびあった。そんな場合に出会うと、根強い性質《たち》に出来上っている彼は、談話の途中でよく拘泥《こだわ》った。そうしてもし事情が許すならば、どこまでも話の根を掘《ほ》じって、相手の本意を突き留めようとした。遠慮のためにそこまで行けない時は、黙って相手の顔色だけを注視した。その時の彼の眼には必然の結果としていつでも軽い疑いの雲がかかった。それが臆病にも見えた。注意深くも見えた。または自衛的に慢《たか》ぶる神経の光を放つかのごとくにも見えた。最後に、「思慮に充《み》ちた不安」とでも形容してしかるべき一種の匂も帯びていた。吉川の細君は津田に会うたんびに、一度か二度きっと彼をそこまで追い込んだ。津田はまたそれと自覚しながらいつの間《ま》にかそこへ引《ひ》き摺《ず》り込まれた。

「奥さんはずいぶん意地が悪いですね」

「どうして? あなた方《がた》の御年歯《おとし》を伺ったのが意地が悪いの」

「そう云う訳でもないですが、何だか意味のあるような、またないような訊《き》き方をしておいて、わざとその後《あと》をおっしゃらないんだから」

「後なんかありゃしないわよ。いったいあなたはあんまり研究家だから駄目ね。学問をするには研究が必要かも知れないけれども、交際に研究は禁物《きんもつ》よ。あなたがその癖をやめると、もっと人好《ひとずき》のする好い男になれるんだけれども」

 津田は少し痛かった。けれどもそれは彼の胸に来る痛さで、彼の頭に応《こた》える痛さではなかった。彼の頭はこの露骨な打撃の前に冷然として相手を見下《みくだ》していた。細君は微笑した。

「嘘《うそ》だと思うなら、帰ってあなたの奥さんに訊《き》いて御覧遊ばせ。お延さんもきっと私と同意見だから。お延さんばかりじゃないわ、まだほかにもう一人あるはずよ、きっと」

 津田の顔が急に堅くなった。唇《くちびる》の肉が少し動いた。彼は眼を自分の膝《ひざ》の上に落したぎり何も答えなかった。

「解ったでしょう、誰だか」

 細君は彼の顔を覗《のぞ》き込むようにして訊《き》いた。彼は固《もと》よりその誰であるかをよく承知していた。けれども細君の云う事を肯定する気は毫《ごう》もなかった。再び顔を上げた時、彼は沈黙の眼を細君の方に向けた。その眼が無言の裡《うち》に何を語っているか、細君には解らなかった。

「御気に障《さわ》ったら堪忍《かんにん》してちょうだい。そう云うつもりで云ったんじゃないんだから」

「いえ何とも思っちゃいません」

「本当に?」

「本当に何とも思っちゃいません」

「それでやっと安心した」

 細君はすぐ元の軽い調子を恢復《かいふく》した。

「あなたまだどこか子供子供したところがあるのね、こうして話していると。だから男は損なようでやっぱり得《とく》なのね。あなたはそら今おっしゃった通りちょうどでしょう、それからお延さんが今年三になるんだから、年歯でいうと、よっぽど違うんだけれども、様子からいうと、かえって奥さんの方が更《ふ》けてるくらいよ。更けてると云っちゃ失礼に当るかも知れないけれども、何と云ったらいいでしょうね、まあ……」

 細君は津田を前に置いてお延の様子を形容する言葉を思案するらしかった。津田は多少の好奇心をもって、それを待ち受けた。

「まあ老成《ろうせい》よ。本当に怜悧《りこう》な方《かた》ね、あんな怜悧な方は滅多《めった》に見た事がない。大事にして御上げなさいよ」

 細君の語勢からいうと、「大事にしてやれ」という代りに、「よく気をつけろ」と云っても大した変りはなかった。


        十二


 その時二人の頭の上に下《さが》っている電灯がぱっと点《つ》いた。先刻《さっき》取次に出た書生がそっと室《へや》の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸《お》ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉《ガスだんろ》の色のだんだん濃くなって来るのを、最前《さいぜん》から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送《もくそう》した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬《レモン》の一切《ひときれ》を除《よ》けるようにしてその余りを残りなく啜《すす》った。そうしてそれを相図《あいず》に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固《もと》より単簡《たんかん》であった。けれども細君の諾否《だくひ》だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。

「いつだって構やしないんでしょう。繰合《くりあわ》せさえつけば」

 彼女はさも無雑作《むぞうさ》な口ぶりで津田に好意を表してくれた。

「無論繰合せはつくようにしておいたんですが……」

「じゃ好いじゃありませんか。明日《あした》から休んだって」

「でもちょっと伺った上でないと」

「じゃ帰ったら私からよく話しておきましょう。心配する事も何にもないわ」

 細君は快よく引き受けた。あたかも自分が他《ひと》のために働らいてやる用事がまた一つできたのを喜こぶようにも見えた。津田はこの機嫌《きげん》のいい、そして同情のある夫人を自分の前に見るのが嬉《うれ》しかった。自分の態度なり所作《しょさ》なりが原動力になって、相手をそうさせたのだという自覚が彼をなおさら嬉しくした。

 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好《す》いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打《ど》やされた刹那《せつな》に受ける快感に近い或物であった。

 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕《ゆたか》にもっていた。彼はその自己をわざと押《お》し蔵《かく》して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲《なぶ》られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚《よ》りかかっていた。

 彼が用事を済まして椅子《いす》を離れようとした時、細君は突然口を開《ひら》いた。

「また子供のように泣いたり唸《うな》ったりしちゃいけませんよ。大きな体《なり》をして」

 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。

「あの時は実際弱りました。唐紙《からかみ》の開閉《あけたて》が局部に応《こた》えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体《からだ》全体が寝床《ねどこ》の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度《こんだ》は大丈夫です」

「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅《くちはば》ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ」

「あなたに見舞《みまい》に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」

「いっこう構わないわ」

 細君の様子は本気なのか調戯《からか》うのかちょっと要領を得なかった。医者の専門が、自分の病気以外の或方面に属するので、婦人などはあまりそこへ近づかない方がいいと云おうとした津田は、少し口籠《くちごも》って躊躇《ちゅうちょ》した。細君は虚に乗じて肉薄した。

「行きますよ、少しあなたに話す事があるから。お延さんの前じゃ話しにくい事なんだから」

「じゃそのうちまた私の方から伺います」

 細君は逃げるようにして立った津田を、笑い声と共に応接間から送り出した。


        十三


 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇《よいやみ》の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。

 冷たそうに燦《ぎら》つく肌合《はだあい》の七宝《しっぽう》製の花瓶《かびん》、その花瓶の滑《なめ》らかな表面に流れる華麗《はなやか》な模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒《あおぐろ》い地《じ》の中に茶の唐草《からくさ》模様を浮かした重そうな窓掛、三隅《みすみ》に金箔《きんぱく》を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟《しげき》が、すでに明るい電灯の下《もと》を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。

 彼は無論この渦《うず》まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻《さっき》彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆《いりまめ》を口に入れた人のように、咀嚼《そしゃく》しつつ味わった。

「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」

 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中《うち》で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露《ばくろ》した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。

「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」

 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。

「おれに調戯《からか》うため?」

 それは何とも云えなかった。彼女は元来|他《ひと》に調戯う事の好《すき》な女であった。そうして二人の間柄《あいだがら》はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦《じ》らす事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒《らち》を平気で跨《また》ぐかも知れなかった。

「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負《ひいき》にし過ぎるため?」

 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。

 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端《ほりばた》を沿うて走るその電車の窓硝子《まどガラス》の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠《わだか》まる黒い松の木が見えるだけであった。

 車内の片隅《かたすみ》に席を取った彼は、窓を透《すか》してこのさむざむしい秋の夜《よ》の景色《けしき》にちょっと眼を注いだ後《あと》、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕《ゆうべ》はそのままにしておいた金の工面《くめん》をどうかしなければならない位地《いち》にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。

「先刻《さっき》事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」

 そう思うと、自分が気を利《き》かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。

 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干《らんかん》の下に蹲踞《うずく》まる乞食《こじき》を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套《がいとう》を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉《ガスだんろ》の温かい※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔《けんかく》は今の彼の眼中にはほとんど入《はい》る余地がなかった。彼は窮した人のように感じた。父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた。


        十四


 津田は同じ気分で自分の宅《うち》の門前まで歩いた。彼が玄関の格子《こうし》へ手を掛けようとすると、格子のまだ開《あ》かない先に、障子《しょうじ》の方がすうと開《あ》いた。そうしてお延の姿がいつの間にか彼の前に現われていた。彼は吃驚《びっくり》したように、薄化粧《うすげしょう》を施こした彼女の横顔を眺めた。

 彼は結婚後こんな事でよく自分の細君から驚ろかされた。彼女の行為は時として夫の先《せん》を越すという悪い結果を生む代りに、時としては非常に気の利《き》いた証拠《しょうこ》をも挙《あ》げた。日常|瑣末《さまつ》の事件のうちに、よくこの特色を発揮する彼女の所作《しょさ》を、津田は時々自分の眼先にちらつく洋刀《ナイフ》の光のように眺める事があった。小さいながら冴《さ》えているという感じと共に、どこか気味の悪いという心持も起った。

 咄嗟《とっさ》の場合津田はお延が何かの力で自分の帰りを予感したように思った。けれどもその訳を訊《き》く気にはならなかった。訳を訊いて笑いながらはぐらかされるのは、夫の敗北のように見えた。

 彼は澄まして玄関から上へ上がった。そうしてすぐ着物を着換えた。茶の間の火鉢《ひばち》の前には黒塗の足のついた膳《ぜん》の上に布巾《ふきん》を掛けたのが、彼の帰りを待ち受けるごとくに据《す》えてあった。

「今日もどこかへ御廻り?」

 津田が一定の時刻に宅《うち》へ帰らないと、お延はきっとこういう質問を掛けた。勢《いきお》い津田は何とか返事をしなければならなかった。しかしそう用事ばかりで遅くなるとも限らないので、時によると彼の答は変に曖昧《あいまい》なものになった。そんな場合の彼は、自分のために薄化粧をしたお延の顔をわざと見ないようにした。

「あてて見ましょうか」

「うん」

 今日の津田はいかにも平気であった。

「吉川さんでしょう」

「よくあたるね」

「たいてい容子《ようす》で解りますわ」

「そうかね。もっとも昨夜《ゆうべ》吉川さんに話をしてから手術の日取をきめる事にしようって云ったんだから、あたる訳は訳だね」

「そんな事がなくったって、妾《あたし》あてるわ」

「そうか。偉いね」

 津田は吉川の細君に頼んで来た要点だけをお延に伝えた。

「じゃいつから、その治療に取りかかるの」

「そういう訳だから、まあいつからでも構わないようなもんだけれども……」

 津田の腹には、その治療にとりかかる前に、是非金の工面《くめん》をしなければならないという屈託《くったく》があった。その額は無論大したものではなかった。しかし大した額でないだけに、これという簡便な調達方《ちょうだつかた》の胸に浮ばない彼を、なお焦《いら》つかせた。

 彼は神田にいる妹《いもと》の事をちょっと思い浮べて見たが、そこへ足を向ける気にはどうしてもなれなかった。彼が結婚後家計|膨脹《ぼうちょう》という名義の下《もと》に、毎月《まいげつ》の不足を、京都にいる父から填補《てんぽ》して貰《もら》う事になった一面には、盆暮《ぼんくれ》の賞与で、その何分《なんぶん》かを返済するという条件があった。彼はいろいろの事情から、この夏その条件を履行《りこう》しなかったために、彼の父はすでに感情を害していた。それを知っている妹はまた大体の上においてむしろ父の同情者であった。妹の夫の手前、金の問題などを彼女の前に持ち出すのを最初から屑《いさぎ》よしとしなかった彼は、この事情のために、なおさら堅くなった。彼はやむをえなければ、お延の忠告通り、もう一返父に手紙を出して事情を訴えるよりほかに仕方がないと思った。それには今の病気を、少し手重《ておも》に書くのが得策だろうとも考えた。父母《ふぼ》に心配をかけない程度で、実際の事実に多少の光沢《つや》を着けるくらいの事は、良心の苦痛を忍ばないで誰にでもできる手加減であった。

「お延|昨夜《ゆうべ》お前の云った通りもう一遍御父さんに手紙を出そうよ」

「そう。でも……」

 お延は「でも」と云ったなり津田を見た。津田は構わず二階へ上《あが》って机の前に坐った。


        十五


 西洋流のレターペーパーを使いつけた彼は、机の抽斗《ひきだし》からラヴェンダー色の紙と封筒とを取り出して、その紙の上へ万年筆で何心なく二三行書きかけた時、ふと気がついた。彼の父は洋筆《ペン》や万年筆でだらしなく綴《つづ》られた言文一致の手紙などを、自分の伜《せがれ》から受け取る事は平生《ひごろ》からあまり喜こんでいなかった。彼は遠くにいる父の顔を眼の前に思い浮べながら、苦笑して筆を擱《お》いた。手紙を書いてやったところでとうてい効能《ききめ》はあるまいという気が続いて起った。彼は木炭紙に似たざらつく厚い紙の余りへ、山羊髯《やぎひげ》を生やした細面《ほそおもて》の父の顔をいたずらにスケッチして、どうしようかと考えた。

 やがて彼は決心して立ち上った。襖《ふすま》を開けて、二階の上《あが》り口《ぐち》の所に出て、そこから下にいる細君を呼んだ。

「お延お前の所に日本の巻紙と状袋があるかね。あるならちょいとお貸し」

「日本の?」

 細君の耳にはこの形容詞が変に滑稽《こっけい》に聞こえた。

「女のならあるわ」

 津田はまた自分の前に粋《いき》な模様入の半切《はんきれ》を拡《ひろ》げて見た。

「これなら気に入るかしら」

「中さえよく解るように書いて上げたら紙なんかどうでもよかないの」

「そうは行かないよ。御父さんはあれでなかなかむずかしいんだからね」

 津田は真面目《まじめ》な顔をしてなお半切を見つめていた。お延の口元には薄笑いの影が差《さ》した。

「時《とき》をちょいと買わせにやりましょうか」

「うん」

 津田は生返事《なまへんじ》をした。白い巻紙と無地の封筒さえあれば、必ず自分の希望が成功するという訳にも行かなかった。

「待っていらっしゃい。じきだから」

 お延はすぐ下へ降りた。やがて潜《くぐ》り戸《ど》が開《あ》いて下女の外へ出る足音が聞こえた。津田は必要の品物が自分の手に入るまで、何もせずに、ただ机の前に坐って煙草《たばこ》を吹かした。

 彼の頭は勢い彼の父を離れなかった。東京に生れて東京に育ったその父は、何ぞというとすぐ上方《かみがた》の悪口《わるくち》を云いたがる癖に、いつか永住の目的をもって京都に落ちついてしまった。彼がその土地を余り好まない母に同情して多少不賛成の意を洩《も》らした時、父は自分で買った土地と自分が建てた家とを彼に示して、「これをどうする気か」と云った。今よりもまだ年の若かった彼は、父の言葉の意味さえよく解らなかった。所置はどうでもできるのにと思った。父は時々彼に向って、「誰のためでもない、みんな御前のためだ」と云った。「今はそのありがた味《み》が解らないかも知れないが、おれが死んで見ろ、きっと解る時が来るから」とも云った。彼は頭の中で父の言葉と、その言葉を口にする時の父の態度とを描き出した。子供の未来の幸福を一手《いって》に引き受けたような自信に充《み》ちたその様子が、近づくべからざる予言者のように、彼には見えた。彼は想像の眼で見る父に向って云いたくなった。

「御父さんが死んだ後《あと》で、一度に御父さんのありがた味が解るよりも、お父さんが生きているうちから、毎月《まいげつ》正確にお父さんのありがた味が少しずつ解る方が、どのくらい楽だか知れやしません」

 彼が父の機嫌《きげん》を損《そこね》ないような巻紙の上へ、なるべく金を送ってくれそうな文句を、堅苦しい候文で認《したた》め出したのは、それから約十分|後《ご》であった。彼はぎごちない思いをして、ようやくそれを書き上げた後《あと》で、もう一遍読み返した時に、自分の字の拙《まず》い事につくづく愛想《あいそ》を尽かした。文句はとにかく、こんな字ではとうてい成功する資格がないようにも思った。最後に、よし成功しても、こっちで要《い》る期日までに金はとても来ないような気がした。下女にそれを投函《とうかん》させた後《あと》、彼は黙って床の中へ潜《もぐ》り込みながら、腹の中で云った。

「その時はその時の事だ」


        十六


 翌日の午後津田は呼び付けられて吉川の前に立った。

「昨日《きのう》宅《うち》へ来たってね」

「ええちょっと御留守へ伺って、奥さんに御目にかかって参りました」

「また病気だそうじゃないか」

「ええ少し……」

「困るね。そうよく病気をしちゃ」

「何実はこの前の続きです」

 吉川は少し意外そうな顔をして、今まで使っていた食後の小楊子《こようじ》を口から吐き出した。それから内隠袋《うちがくし》を探《さぐ》って莨入《たばこいれ》を取り出そうとした。津田はすぐ灰皿の上にあった燐寸《マッチ》を擦《す》った。あまり気を利《き》かそうとして急《せ》いたものだから、一本目は役に立たないで直ぐ消えた。彼は周章《あわ》てて二本目を擦って、それを大事そうに吉川の鼻の先へ持って行った。

「何しろ病気なら仕方がない、休んでよく養生したらいいだろう」

 津田は礼を云って室《へや》を出ようとした。吉川は煙《けむ》りの間から訊《き》いた。

「佐々木には断ったろうね」

「ええ佐々木さんにもほかの人にも話して、繰《く》り合《あわ》せをして貰う事にしてあります」

 佐々木は彼の上役《うわやく》であった。

「どうせ休むなら早い方がいいね。早く養生して早く好くなって、そうしてせっせと働らかなくっちゃ駄目《だめ》だ」

 吉川の言葉はよく彼の気性《きしょう》を現わしていた。

「都合がよければ明日《あした》からにしたまえ」

「へえ」

 こう云われた津田は否応《いやおう》なしに明日から入院しなければならないような心持がした。

 彼の身体《からだ》が半分戸の外へ出かかった時、彼はまた後《うしろ》から呼びとめられた。

「おい君、お父さんは近頃どうしたね。相変らずお丈夫かね」

 ふり返った津田の鼻を葉巻の好い香《におい》が急に冒《おか》した。

「へえ、ありがとう、お蔭《かげ》さまで達者でございます」

「大方詩でも作って遊んでるんだろう。気楽で好いね。昨夕《ゆうべ》も岡本と或所で落ち合って、君のお父さんの噂《うわさ》をしたがね。岡本も羨《うらや》ましがってたよ。あの男も近頃少し閑暇《ひま》になったようなもののやっぱり、君のお父さんのようにゃ行かないからね」

 津田は自分の父がけっしてこれらの人から羨《うら》やましがられているとは思わなかった。もし父の境遇に彼らをおいてやろうというものがあったなら、彼らは苦笑して、少なくとももう十年はこのままにしておいてくれと頼むだろうと考えた。それは固《もと》より自分の性格から割り出した津田の観察に過ぎなかった。同時に彼らの性格から割り出した津田の観察でもあった。

「父はもう時勢後《じせいおく》れですから、ああでもして暮らしているよりほかに仕方がございません」

 津田はいつの間にかまた室の中に戻って、元通りの位置に立っていた。

「どうして時勢後れどころじゃない、つまり時勢に先だっているから、ああした生活が送れるんだ」

 津田は挨拶《あいさつ》に窮した。向うの口の重宝《ちょうほう》なのに比べて、自分の口の不重宝《ぶちょうほう》さが荷になった。彼は手持無沙汰《てもちぶさた》の気味で、緩《ゆる》く消えて行く葉巻の煙りを見つめた。

「お父さんに心配を掛けちゃいけないよ。君の事は何でもこっちに分ってるから、もし悪い事があると、僕からお父さんの方へ知らせてやるぜ、好いかね」

 津田はこの子供に対するような、笑談《じょうだん》とも訓戒とも見分《みわけ》のつかない言葉を、苦笑しながら聞いた後で、ようやく室外に逃《のが》れ出《で》た。


        十七


 その日の帰りがけに津田は途中で電車を下りて、停留所から賑《にぎ》やかな通りを少し行った所で横へ曲った。質屋の暖簾《のれん》だの碁会所《ごかいしょ》の看板だの鳶《とび》の頭《かしら》のいそうな格子戸作《こうしどづく》りだのを左右に見ながら、彼は彎曲《わんきょく》した小路《こうじ》の中ほどにある擦硝子張《すりガラスばり》の扉を外から押して内へ入った。扉の上部に取り付けられた電鈴《ベル》が鋭どい音を立てた時、彼は玄関の突き当りの狭い部屋から出る四五人の眼の光を一度に浴びた。窓のないその室《へや》は狭いばかりでなく実際暗かった。外部《そと》から急に入って来た彼にはまるで穴蔵のような感じを与えた。彼は寒そうに長椅子の片隅《かたすみ》へ腰をおろして、たった今暗い中から眼を光らして自分の方を見た人達を見返した。彼らの多くは室の真中に出してある大きな瀬戸物|火鉢《ひばち》の周囲《まわり》を取り巻くようにして坐っていた。そのうちの二人は腕組のまま、二人は火鉢の縁《ふち》に片手を翳《かざ》したまま、ずっと離れた一人はそこに取り散らした新聞紙の上へ甜《な》めるように顔を押し付けたまま、また最後の一人は彼の今腰をおろした長椅子の反対の隅に、心持|身体《からだ》を横にして洋袴《ズボン》の膝頭《ひざがしら》を重ねたまま。

 電鈴《ベル》の鳴った時申し合せたように戸口をふり向いた彼らは、一瞥《いちべつ》の後《のち》また申し合せたように静かになってしまった。みんな黙って何事をか考え込んでいるらしい態度で坐っていた。その様子が津田の存在に注意を払わないというよりも、かえって津田から注意されるのを回避するのだとも取れた。単に津田ばかりでなく、お互に注意され合う苦痛を憚《はば》かって、わざとそっぽへ眼を落しているらしくも見えた。

 この陰気な一群《いちぐん》の人々は、ほとんど例外なしに似たり寄ったりの過去をもっているものばかりであった。彼らはこうして暗い控室の中で、静かに自分の順番の来るのを待っている間に、むしろ華《はな》やかに彩《いろど》られたその過去の断片のために、急に黒い影を投げかけられるのである。そうして明るい所へ眼を向ける勇気がないので、じっとその黒い影の中に立ち竦《すく》むようにして閉《と》じ籠《こも》っているのである。

 津田は長椅子の肱掛《ひじかけ》に腕を載《の》せて手を額にあてた。彼は黙祷《もくとう》を神に捧げるようなこの姿勢のもとに、彼が去年の暮以来この医者の家で思いがけなく会った二人の男の事を考えた。

 その一人は事実彼の妹婿《いもとむこ》にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚《びっくり》した。そんな事に対して比較的|無頓着《むとんじゃく》な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶《あいさつ》に窮したらしかった。

 他の一人は友達であった。これは津田が自分と同性質の病気に罹《かか》っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性《セックス》と愛《ラヴ》という問題についてむずかしい議論をした。

 妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後《あと》のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後《ご》異常な結果が生れた。

 その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然|衝撃《ショック》を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。

 すると診察所から紺《こん》セルの洋服を着た三十|恰好《がっこう》の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。彼が隠袋《かくし》から紙入を出して金を払おうとする途端《とたん》に、看護婦が敷居の上に立った。彼女と見知り越《ごし》の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。

「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊《き》いて下さい。明日《あした》か明後日《あさって》手術を受けに来て好いかって」

 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い室《へや》の戸口に現わした。

「今ちょうど二階が空《あ》いておりますから、いつでも御都合の宜《よろ》しい時にどうぞ」

 津田は逃《のが》れるように暗い室を出た。彼が急いで靴を穿《は》いて、擦硝子張《すりガラスばり》の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点《つ》いた。


        十八


 津田の宅《うち》へ帰ったのは、昨日《きのう》よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚《ひあし》は疾《と》くに傾いて、先刻《さっき》まで往来にだけ残っていた肌寒《はださむ》の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。

 彼の二階には無論火が点いていなかった。玄関も真暗であった。今|角《かど》の車屋の軒灯《けんとう》を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。彼はがらりと格子《こうし》を開けた。それでもお延は出て来なかった。昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。それから階子段《はしごだん》を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。同時に下女が勝手の方から馳《か》け出して来た。

「何をしているんだ」

 津田の言葉には多少不満の響きがあった。お延は何にも云わなかった。しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡《うち》に自分を牽《ひ》きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。白い歯が何より先に彼の視線を奪った。

「二階は真暗じゃないか」

「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」

「寝ていたな」

「まさか」

 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。

 湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭《てぬぐい》を例の通り彼女の手から受け取って火鉢《ひばち》の傍《そば》を離れようとする夫を引きとめた。彼女は後《うし》ろ向《むき》になって、重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》から、ネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を出して夫の前へ置いた。

「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧《おし》が好く利《き》いていないかも知れないけども」

 津田は煙《けむ》に巻かれたような顔をして、黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかかった荒い竪縞《たてじま》の褞袍《どてら》を見守《みま》もった。それは自分の買った品でもなければ、拵《こしら》えてくれと誂《あつら》えた物でもなかった。

「どうしたんだい。これは」

「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装《なり》をしているのは見っともないから」

「いつの間に拵えたのかね」

 彼が手術のため一週間ばかり家《うち》を空《あ》けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前《にさんちまえ》の事であった。その上彼はその日から今日《きょう》に至るまで、ついぞ針を持って裁物板《たちものいた》の前に坐《すわ》った細君の姿を見た事がなかった。彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。そうしてわざと説明も何も加えなかった。

「布《きれ》は買ったのかい」

「いいえ、これあたしの御古《おふる》よ。この冬着ようと思って、洗張《あらいはり》をしたまま仕立てずにしまっといたの」

 なるほど若い女の着る柄《がら》だけに、縞《しま》がただ荒いばかりでなく、色合《いろあい》もどっちかというとむしろ派出《はで》過ぎた。津田は袖《そで》を通したわが姿を、奴凧《やっこだこ》のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。

「とうとう明日《あした》か明後日《あさって》やって貰う事にきめて来たよ」

「そう。それであたしはどうなるの」

「御前はどうもしやしないさ」

「いっしょに随《つ》いて行っちゃいけないの。病院へ」

 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。


        十九


 津田の明《あく》る朝《あさ》眼を覚《さ》ましたのはいつもよりずっと遅かった。家の内《なか》はもう一片付《ひとかたづき》かたづいた後のようにひっそり閑《かん》としていた。座敷から玄関を通って茶の間の障子《しょうじ》を開けた彼は、そこの火鉢の傍《そば》にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶《てつびん》が鳴っていた。

「気を許して寝ると、寝坊《ねぼう》をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」

 彼は云い訳らしい事をいって、暦《こよみ》の上にかけてある時計を眺めた。時計の針はもう十時近くの所を指《さ》していた。

 顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳《ぜん》に向った。その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥《くたび》れたといった方が適当であった。彼は膳の上に掛けてある布巾《ふきん》を除《と》ろうとしてふと気がついた。

「こりゃいけない」

 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。彼は突然細君に云った。

「ちょっと訊《き》いてくる」

「今すぐ?」

 お延は吃驚《びっくり》して夫の顔を見た。

「なに電話でだよ。訳ゃない」

 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散《けち》らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。そうして電車通りを半丁《はんちょう》ほど右へ行った所にある自動電話へ馳《か》けつけた。そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。

「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口《がまぐち》でも好い」

「何《なん》になさるの」

 お延には夫の意味がまるで解らなかった。

「何でもいいから早く出してくれ」

 彼はお延から受取った蟇口を懐中《ふところ》へ放《ほう》り込《こ》んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。そうして電車に乗った。

 彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分|後《ご》で、もう午《ひる》に間もない頃であった。

「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」

 津田はそう云いながら腋《わき》に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。

「足りなくって?」

 お延は細かい事にまで気を遣《つか》わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。

「いや足りないというほどでもないがね」

「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床《かみいどこ》かと思ったけれども」

 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。永く髪を刈らないと、心持|番《ばん》の小さい彼の帽子が、被《かぶ》るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日《きのう》の朝受けた新らしい感じまで思い出した。

「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」

「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」

 彼は蟇口の悪口《わるくち》ばかり云えた義理でもなかった。

 お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶《かん》と、麺麭《パン》と牛酪《バタ》を取り出した。

「おやおやこれ召《め》しゃがるの。そんなら時《とき》を取りにおやりになればいいのに」

「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」

 やがて好い香《におい》のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。

 朝飯《あさめし》とも午飯《ひるめし》とも片のつかない、極《きわ》めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独《ひと》りごとのように云った。

「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞《ぶさたみまい》に、ちょっと朝の内藤井の叔父《おじ》の所まで行って来《き》ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」

 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。


        二十


 藤井というのは津田の父の弟であった。広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経《へ》めぐる不便と不利益とに痛《いた》く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。したがって二人の関係は普通の叔父|甥《おい》の域《いき》を通り越していた。性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄《あいだがら》を説明するものであった。

 津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。半生の間|始終《しじゅう》動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。

「緩慢《かんまん》なる人世の旅行者」

 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。それを何気なく小耳に挟《はさ》んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。そうして今日《こんにち》までその言葉を忘れなかった。しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然《はっきり》しなかった。ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。肉の少ない細面《ほそおもて》の腮《あご》の下に、売卜者《うらないしゃ》見たような疎髯《そぜん》を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。

 彼の父は今から十年ばかり前に、突然|遍路《へんろ》に倦《う》み果てた人のように官界を退いた。そうして実業に従事し出した。彼は最後の八年を神戸で費《つい》やした後《あと》、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請《ふしん》をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。津田の知らない間《ま》に、この閑静《かんせい》な古い都が、彼の父にとって隠栖《いんせい》の場所と定められると共に、終焉《しゅうえん》の土地とも変化したのである。その時叔父は鼻の頭へ皺《しわ》を寄せるようにして津田に云った。

「兄貴はそれでも少し金が溜《たま》ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」

 しかし金の重みのいつまで経《た》ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。彼は始終《しじゅう》東京にいて始終貧乏していた。彼はいまだかつて月給というものを貰った覚《おぼえ》のない男であった。月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後《あと》でも、やはり以前の強情を押し通していた。これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑《けいべつ》されるだけで、いっこう得《とく》にはならないという事をよく承知しているからでもあった。

 実際の世の中に立って、端的《たんてき》な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然|迂濶《うかつ》な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。言葉を換《か》えていうと、彼は迂濶の御蔭《おかげ》で奇警《きけい》な事を云ったり為《し》たりした。

 彼の知識は豊富な代りに雑駁《ざっぱく》であった。したがって彼は多くの問題に口を出したがった。けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。それは彼の位地《いち》が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑《おさ》えつけておくせいでもあった。彼は或頭をもっていた。けれども彼には手がなかった。もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。彼は始終|懐手《ふところで》をしていたがった。一種の勉強家であると共に一種の不精者《ぶしょうもの》に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。


        二十一


 こういう人にありがちな場末生活《ばすえせいかつ》を、藤井は市の西北《にしきた》にあたる高台の片隅《かたすみ》で、この六七年続けて来たのである。ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々《ねんねん》建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼《あお》い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆《ペン》を走らす手を止《や》めて、よく自分の兄の身の上を考えた。折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵《こしら》えて見ようかしらという気を起した。その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。「緩慢《かんまん》なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。

 津田の宅《うち》からこの叔父の所へ行くには、半分道《はんぶんみち》ほど川沿《かわぞい》の電車を利用する便利があった。けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関の援《たすけ》に依らない方が、彼の勝手であった。

 一時少し前に宅《うち》を出た津田は、ぶらぶら河縁《かわべり》を伝《つた》って終点の方に近づいた。空は高かった。日の光が至る所に充《み》ちていた。向うの高みを蔽《おお》っている深い木立《こだち》の色が、浮き出したように、くっきり見えた。

 彼は道々|今朝《けさ》買い忘れたリチネの事を思い出した。それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑《にぎ》やかな町の方へ歩いて行こうとした。すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違《すじかい》に切断されていた。彼は残酷に在来の家屋を掻《か》き※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77]《むし》って、無理にそれを取り払ったような凸凹《でこぼこ》だらけの新道路の角《かど》に立って、その片隅《かたすみ》に塊《かた》まっている一群《いちぐん》の人々を見た。群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。

 小肥《こぶと》りにふとったその男は双子木綿《ふたこもめん》の羽織着物に角帯《かくおび》を締《し》めて俎下駄《まないたげた》を穿《は》いていたが、頭には笠《かさ》も帽子も被《かぶ》っていなかった。彼の後《うしろ》に取り残された一本の柳を盾《たて》に、彼は綿《めん》フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。

「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この空《から》っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」

 彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風《おうふう》な言葉でこんな事を云った。それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳《こぶし》をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙《だま》さないばかりに。しかし彼は騙したのではなかった。彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。彼はそれを親指と人さし指の間に挟《はさ》んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。

 津田は軽蔑《けいべつ》に嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。すると突然|後《うしろ》から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。軽い衝撃《ショック》を受けた彼はほとんど反射作用のように後《うしろ》をふり向いた。そうしてそこにさも悪戯小僧《いたずらこぞう》らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。徽章《きしょう》の着いた制帽と、半洋袴《はんズボン》と、背中にしょった背嚢《はいのう》とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。

「今学校の帰りか」

「うん」

 子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。


        二十二


「お父さんはどうした」

「知らない」

「相変らずかね」

「どうだか知らない」

 自分が十《とお》ぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。子供はまた一生懸命に手品遣《てずまつか》いの方ばかり注意しだした。服装から云うと一夜《いちや》作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。

「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」

 彼は例の袋を片手でぐっと締扱《しご》いて、再び何か投げ込む真似《まね》を小器用にした後《あと》、麗々《れいれい》と第二の玉子を袋の底から取り出した。それでも飽《あ》き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない棉《めん》フラネルの縞柄《しまがら》を遠慮なく群衆の前に示した。しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧《ていねい》に地面の上へ並べた。

「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個《いくつ》でも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度《こんだ》は一つ生きた鶏《とり》を出そう」

 津田は叔父の子供をふり返った。

「おい真事《まこと》もう行こう。小父《おじ》さんはこれからお前の宅《うち》へ行くんだよ」

 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。

「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」

「ありゃ嘘《うそ》だよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」

「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」

「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を吐《つ》いていつまでも人を散らさないようにするんだよ」

「そうしてどうするの」

 そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。すると真事が彼の袂《たもと》を捉《つらま》えた。

「小父さん何か買ってさ」

 宅で強請《ねだ》られるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。

「じゃ自動車、ね」

「自動車は少し大き過ぎるな」

「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」

 七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。彼は何にも云わずに歩き出した。

「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父《おじ》さんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐《うそつ》きじゃないか」

「あいつは玉子は出すが鶏《とり》なんか出せやしないんだよ」

「どうして」

「どうしてって、出せないよ」

「だから小父さんも自動車なんか買えないの」

「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」

「じゃキッドの靴さ」

 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。彼は眼を落して真事《まこと》の足を見た。さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。

「赤かったのを宅《うち》でお父さんが染めたんだよ」

 津田は笑いだした。藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄《ことがら》が、何だか彼にはおかしかった。学校の規則を知らないで拵《こし》らえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策《きゅうさく》を滑稽《こっけい》的に批判したくなった。そうしてその窮策から出た現在のお手際《てぎわ》を擽《くす》ぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。


        二十三


「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」

「だってこんな色の靴誰も穿《は》いていないんだもの」

「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多《めった》に穿《は》けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」

「だってみんなが尨犬《むくいぬ》の皮だ尨犬の皮だって揶揄《からか》うんだもの」

 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。しかしそのおかしみは微《かす》かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。

「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」

 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。そこを好い加減にしておく真事ではなかった。

「立派な何さ」

「立派な――靴さ」

 津田はもし懐中が許すならば、真事《まこと》のために、望み通りキッドの編上《あみあげ》を買ってやりたい気がした。それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。彼は胸算《むなざん》で自分の懐《ふところ》にある紙入の中を勘定《かんじょう》して見た。しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。もし京都から為替《かわせ》が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心《せけんしん》も起った。

「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度《こんだ》宅《うち》へ来た時、小母《おば》さんに買ってお貰い。小父《おじ》さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」

 彼は賺《すか》すようにまた宥《なだ》めるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物《はきもの》で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方《かた》町並《まちなみ》が生れ変ったように立派に整のって来た。ところどころのショーウィンドーには、一概に場末《ばすえ》ものとして馬鹿にできないような品が綺麗《きれい》に飾り立てられていた。真事はその間を向う側へ馳《か》け抜けて、朝鮮人の飴屋《あめや》の前へ立つかと思うと、また此方《こちら》側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立《たたず》んだ。彼の馳け出す時には、隠袋《ポッケット》の中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。

「今日学校でこんなに勝っちゃった」

 彼は隠袋の中へ手をぐっと挿《さ》し込んで掌《てのひら》いっぱいにそのビー玉を載《の》せて見せた。水色だの紫色だのの丸い硝子《ガラス》玉が迸《ほと》ばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章《あわ》ててそれを追いかけた。そうして後《うしろ》を振り向きながら津田に云った。

「小父さんも拾ってさ」

 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋《おもちゃや》へ引《ひ》き摺《ず》り込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。

「雀《すずめ》ならいいが、むやみに人を狙《ねら》っちゃいけないよ」

「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」

「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」

「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅《うち》へ行って」

 好い加減をいうとすぐ後《あと》から実行を逼《せま》られそうな様子なので、津田は生返事《なまへんじ》をしたなり話をほかへそらした。真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端《かたっぱし》から批評し始めた。

「あの岡本って奴《やつ》、そりゃ狡猾《ずる》いんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」

 話はまた靴へ戻って来た。津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中《うち》で比較した。


        二十四


「御前《おまい》近頃岡本の所へ遊びに行くかい」

「ううん、行かない」

「また喧嘩《けんか》したな」

「ううん、喧嘩なんかしない」

「じゃなぜ行かないんだ」

「どうしてでも――」

 真事《まこと》の言葉には後《あと》がありそうだった。津田はそれが知りたかった。

「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」

「ううん、そんなにくれない」

「じゃ御馳走《ごちそう》するだろう」

「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛《から》かったよ」

 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。

「それで行くのが厭《いや》になった訳でもあるまい」

「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」

 津田は小首を傾けた。叔父《おじ》が子供を岡本へやりたがらない理由《わけ》は何だろうと考えた。肌合《はだあい》の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。始終《しじゅう》机に向って沈黙の間に活字的の気※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《きえん》を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。彼は暗《あん》にその距離を自覚していた。その自覚はまた彼を多少|頑固《かたくな》にした。幾分か排外的にもした。金力権力本位の社会に出て、他《ひと》から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分《いちぶ》でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。

「真事なぜお父さんに訊《き》いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」

「僕|訊《き》いたよ」

「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」

「ううん、云った」

「何と云った」

 真事は少し羞恥《はにか》んでいた。しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切《くぎり》を置くような重い口調《くちょう》で答えた。

「あのね、岡本へ行くとね、何でも一《はじめ》さんの持ってるものをね、宅《うち》へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」

 津田はようやく気がついた。富の程度に多少等差のある二人の活計向《くらしむき》は、彼らの子供が持つ玩具《おもちゃ》の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。

「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請《ねだる》んだな。みんな一《はじめ》さんの持ってるのを見て来たんだろう」

 津田は揶揄《からか》い半分手を挙《あ》げて真事の背中を打とうとした。真事は跋《ばつ》の悪い真相を曝露《ばくろ》された大人《おとな》に近い表情をした。けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。

「嘘《うそ》だよ。嘘だよ」

 彼は先刻《さっき》津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃を担《かつ》いだままどんどん自分の宅《うち》の方へ逃げ出した。彼の隠袋《かくし》の中にあるビー玉が数珠《じゅず》を劇《はげ》しく揉《も》むように鳴った。背嚢《はいのう》の中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。

 彼は曲り角の黒板塀《くろいたべい》の所でちょっと立ちどまって鼬《いたち》のように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路《こうじ》のうちに隠した。津田がその小路を行き尽して突《つ》きあたりにある藤井の門を潜《くぐ》った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。彼は右手の生垣《いけがき》の間から大事そうに彼を狙撃《そげき》している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。


        二十五


 座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子《こうし》の間から一足の客靴を覗《のぞ》いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側《えんがわ》の方へ廻った。もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切《しきり》もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻《えんばな》まで歩いて行けた。目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿の樹《き》の下を潜《くぐ》った津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出《みいだ》した。障子《しょうじ》の篏入硝子《はめガラス》に映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部《そと》から声を掛けた。

「叔母さん」

 叔母はすぐ障子を開けた。

「今日はどうしたの」

 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想《あいそ》というものがなかった。その代り時と場合によると世間並《せけんなみ》の遠慮を超越した自然が出た。そのうちにはほとんど性《セックス》の感じを離れた自然さえあった。津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。そうしていつでもその相違に驚ろいた。同じ女、しかも年齢《とし》のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他《ひと》に与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。

「叔母さんは相変らず色気がないな」

「この年齢になって色気があっちゃ気狂《きちがい》だわ」

 津田は縁側《えんがわ》へ腰をかけた。叔母は上《あが》れとも云わないで、膝《ひざ》の上に載《の》せた紅絹《もみ》の片《きれ》へ軽い火熨斗《ひのし》を当てていた。すると次の間からほどき物を持って出て来たお金《きん》さんという女が津田にお辞儀《じぎ》をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。

「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」

 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団《ざぶとん》を縁側《えんがわ》へ持って来《き》ようとした。津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。

「ねえ叔母さん」

「ええ」

 気のなさそうな生返事《なまへんじ》をした叔母は、お金さんが生温《なまぬ》るい番茶を形式的に津田の前へ注《つ》いで出した時、ちょっと首をあげた。

「お金さん由雄《よしお》さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘《うそ》を吐《つ》かない人だから」

 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。津田は何とか云わなければすまなくなった。

「お世辞《せじ》じゃありません、本当の事です」

 叔母は別に取り合う様子もなかった。その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳《ききみみ》を立てた。

「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ丸《だま》を入れて打つと危険《あぶな》いから」

 叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。

「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」

「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏《とり》を打つに違ないから。構わないから丸《たま》だけ取り上げて来て下さい」

 お金さんはそれを好い機《しお》に茶の間から姿をかくした。叔母は黙って火鉢《ひばち》に挿《さ》し込んだ鏝《こて》をまた取り上げた。皺《しわ》だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗《きれい》に平たく延びて行くのを何気なく眺《なが》めていた津田の耳に、客間の話し声が途切《とぎ》れ途切れに聞こえて来た。

「時に誰です、お客は」

 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。

「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」


        二十六


 津田は客間にいる声の主を、坐《すわ》ったまま突き留めようと力《つと》めて見た。やがて彼は軽く膝を拍《う》った。

「ああ解った。小林でしょう」

「ええ」

 叔母は嫣然《にこり》ともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。

「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿《は》き込んで厭《いや》にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」

 想像の眼で見るにはあまりに陳腐《ちんぷ》過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。この夏会った時の彼の異《い》な服装《なり》もおのずと思い出された。白縮緬《しろちりめん》の襟《えり》のかかった襦袢《じゅばん》の上へ薩摩絣《さつまがすり》を着て、茶の千筋《せんすじ》の袴《はかま》に透綾《すきや》の羽織をはおったその拵《こしら》えは、まるで傘屋《かさや》の主人《あるじ》が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯《こわめし》の折でも懐《ふところ》に入れているとしか受け取れなかった。その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。

 津田は微笑しながら叔母に訊《き》いた。

「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」

「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い悪《にく》い事なんでね」

「へえ、小林にもそんな真面目《まじめ》な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」

 こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後《あと》を引っ込ましてしまった。叔母は少し声を低くした。その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。

「お金《きん》さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」

 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。

「もうきまったんですか」

「まあ旨《うま》く行きそうなのさ」

 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。少し乾燥《はしゃ》ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。

「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」

 叔母は黙って津田を眺めた。たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯《ふざけ》た空虚《からっぽ》うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。

「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡《りょうけん》で貰ったの」

 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当《けんとう》がつかなかった。

「そんな料簡《りょうけん》って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」

「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける方《ほう》の身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」

 藤井は四年|前《ぜん》長女を片づける時、仕度《したく》をしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。だからここでもしお金さんの縁談が纏《まと》まるとすれば、それは正に三人目の出費《ものいり》に違なかった。娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向《くらしむき》に多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。


        二十七


 こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々|真事《まこと》の穿《は》きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。それさえ彼は懐都合《ふところつごう》で見合せなければならなかったのである。まして京都から多少の融通を仰《あお》いで、彼らの経済に幾分の潤沢《うるおい》をつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。それで彼はただ自分の所へさえ早く為替《かわせ》が届いてくれればいいという期待に縛《しば》られて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。すると叔母が「由雄《よしお》さん」と云い出した。

「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰《もら》ったの、お前さんは」

「まさか冗談《じょうだん》に貰やしません。いくら僕だってそう浮《ふわ》ついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相《かわいそう》だ」

「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等《だんとう》があるもんだからね」

 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。

「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」

 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。しかし彼は叔母に対して少しも退避《たじろ》ぐ気はなかった。

「これでもいざとなると、なかなか真面目《まじめ》なところもありますからね」

「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」

 こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。

「まあ止《よ》しましょう。今さら云ったって始まらない事だから」

 叔母は先刻《さっき》火熨斗《ひのし》をかけた紅絹《もみ》の片《きれ》を鄭寧《ていねい》に重ねて、濃い渋を引いた畳紙《たとう》の中へしまい出した。それから何となく拍子抜《ひょうしぬ》けのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。

「由雄さんはいったい贅沢《ぜいたく》過ぎるよ」

 学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終《しじゅう》こう云われつけていた。自分でもまたそう信じて疑わなかった。そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。

「ええ少し贅沢です」

「服装《なり》や食物ばかりじゃないのよ。心が派出《はで》で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終|御馳走《ごちそう》はないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」

「じゃ贅沢どころかまるで乞食《こじき》じゃありませんか」

「乞食じゃないけれども、自然|真面目《まじめ》さが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」

 この時津田の胸を掠《かす》めて、自分の従妹《いとこ》に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。その娘は二人とも既婚の人であった。四年前に片づいた長女は、その後《のち》夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。その福岡は長男の真弓《まゆみ》が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。

 この二人の従妹《いとこ》のどっちも、貰おうとすれば容易《たやす》く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。だから彼は知らん顔をして過ぎた。当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云って疾《や》ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄《しなかばん》の葢《ふた》を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。


        二十八


 奥の四畳半で先刻《さっき》からお金《きん》さんに学課の復習をして貰《もら》っていた真事《まこと》が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語《フランスご》の読本を浚《さら》い始めた。ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切《くぎり》を置いて読み上げる小学二年生の頓狂《とんきょう》な声を、例《いつも》ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。彼はすぐ袂《たもと》に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。すると、客間でも時計の音に促《うな》がされたような叔父の声がした。

「じゃあっちへ行こう」

 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。津田はちょっと居住居《いずまい》を直して叔父に挨拶《あいさつ》をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。

「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵《こしら》えたじゃないか」

 小林はホームスパンみたようなざらざらした地合《じあい》の背広《せびろ》を着ていた。いつもと違ってその洋袴《ズボン》の折目がまだ少しも崩《くず》れていないので、誰の眼にも仕立卸《したておろ》しとしか見えなかった。彼は変り色の靴下を後《うしろ》へ隠すようにして、津田の前に坐《すわ》り込んだ。

「へへ、冗談《じょうだん》云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」

 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子《まどガラス》の中に飾ってある三《み》つ揃《ぞろい》に括《くく》りつけてあった正札を見つけて、その価段《ねだん》通りのものを彼が注文して拵えたのであった。

「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢《ぜいたく》やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」

 津田は叔母の手前重ねて悪口《わるくち》を云う勇気もなかった。黙って茶碗《ちゃわん》を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作《しょさ》を眺めた。

「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」


 今日《こんにち》まで病気という病気をした例《ためし》のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。あらゆる疾病《しっぺい》とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。

「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」

 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩《ごましお》だらけの髯《ひげ》を撫《な》でた。生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々《じじ》むさく見せた。

「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」

 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。よほど以前この叔父から惑病《わくびょう》は同源《どうげん》だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶《おも》い出すと、それが病気に罹《かか》らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽《こっけい》に感ぜられた。彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。小林はすぐ口を出した。けれども津田の予期とは全くの反対を云った。

「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私《わたくし》なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹《かか》らないもんだろうと思います」

 津田は馬鹿馬鹿しくなった。

「つまらない事をいうなよ」

「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」

 この不論理《ふろんり》な断案は、云い手が真面目《まじめ》なだけに、津田をなお失笑させた。すると今度は叔父が賛成した。

「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」

 薄暗くなった室《へや》の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。津田は立って電灯のスウィッチを捩《ねじ》った。


        二十九


 いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢《さらこばち》の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。

「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」

 津田は明日《あした》の治療を控えているので断って帰ろうとした。

「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走《ごちそう》が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」

 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻《しり》を据《す》えた。

「今日は何事かあるんですか」

「何ね、小林が今度――」

 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。小林は少し得意そうににやにやしていた。

「小林君どうかしたのか」

「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅《うち》へ行って詳《くわ》しい話をするがね」

「しかし僕は明日《あした》から入院するんだぜ」

「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」

 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊《き》いた。医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。堀というのは津田の妹婿の姓であった。彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通《かよ》ったのを小林はよく知っていたのである。

 彼の詳《くわ》しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。それは先刻《さっき》叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。またそうでないらしくも見えた。この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆《そそ》られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。

 津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵《こしら》えてくれた肉にも肴《さかな》にも、日頃大好な茸飯《たけめし》にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭《パン》と牛乳を買って来させようとした。ねとねとしてむやみに歯の間に挟《はさ》まるここいらの麺麭に内心|辟易《へきえき》しながら、また贅沢《ぜいたく》だと云われるのが少し怖《こわ》いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿《うしろすがた》を見送った。

 お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。

「どうかまああの子《こ》も今度《こんだ》の縁が纏《まと》まるようになると仕合せですがね」

「纏まるだろうよ」

 叔父は苦《く》のなさそうな返事をした。

「至極《しごく》よさそうに思います」

 小林の挨拶《あいさつ》も気軽かった。黙っているのは津田と真事《まこと》だけであった。

 相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家《うち》で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。

「お金さんはその人を知ってるんですか」

「顔は知ってるよ。口は利《き》いた事がないけれども」

「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」

「当り前さ」

「それでよく結婚が成立するもんだな」

 津田はこういって然《しか》るべき理窟《りくつ》が充分自分の方にあると考えた。それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。

「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」

 叔父は少し機嫌《きげん》を損じたらしい語気で津田の方を向いた。津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。

「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」


        三十


 それでも座は白《しら》けてしまった。今まで心持よく流れていた談話が、急に堰《せ》き止められたように、誰も津田の言葉を受《う》け継《つ》いで、順々に後《あと》へ送ってくれるものがなくなった。

 小林は自分の前にある麦酒《ビール》の洋盃《コップ》を指《さ》して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊《き》いた。

「真事《まこと》さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」

「苦《にが》いから僕|厭《いや》だよ」

 真事はすぐ跳《は》ねつけた。始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機《しお》にははと笑った。好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。

「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」

 すぐ立って奥の四畳半へ馳《か》け込んだ彼が、そこから新らしい玩具《おもちゃ》を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。叔父も叔母も嬉《うれ》しがっているわが子のために、一言《いちごん》の愛嬌《あいきょう》を義務的に添える必要があった。

「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺《おやじ》を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦《あき》らめたようだから、まだ始末が好い」

「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入《い》ります」

「見て来たような事を云うな」

 空気銃の御蔭《おかげ》で、みんながまた満遍《まんべん》なく口を利《き》くようになった。結婚が再び彼らの話頭に上《のぼ》った。それは途切《とぎ》れた前の続きに相違なかった。けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異《ちが》った気分によって、彼らの表現を支配されていた。

「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁《ふえん》になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終《すえしじゅう》和合するとは限らないんだから」

 叔母の見て来た世の中を正直に纏《まと》めるとこうなるよりほかに仕方なかった。この大きな事実の一隅《いちぐう》にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目《まじめ》さを欠いているとしか彼には思えなかった。

「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢《ぜいたく》な事を、我々|風情《ふぜい》が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」

 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目《ふまじめ》という疑念を塗り潰《つぶ》すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。彼は首を捻《ひね》って考え込む様子をしながら云った。

「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易《たやす》く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」

「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来《き》ようはずがないじゃないか。由雄さん」

「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」

「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」

「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」

「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」

「そう云った日にゃまるで議論にならない」

「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選《え》り好《ごの》みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」

 先刻《さっき》から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。


        三十一


「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母《おば》甥《おい》の対話とは思えないよ」

 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実《じつ》行司でも審判官でもなかった。

「何だか双方|敵愾心《てきがいしん》をもって云い合ってるようだが、喧嘩《けんか》でもしたのかい」

 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事《まこと》を相手にビー珠《だま》を転がしていた小林が偸《ぬす》むようにしてこっちを見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。

「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来|悪《にく》いかも知れないがね、叔母さんは嘘《うそ》を吐《つ》いてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後《あと》と同じように真面目だったのさ」

「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」

「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」

 そろそろ酔の廻った叔父は、火熱《ほて》った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃《コップ》を取り上げて麦酒《ビール》をぐいと飲んだ。

「実を云うとその訳を今日《きょう》までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」

「ええ」

 津田も半分は真面目であった。

「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意《い》があったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」

「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男《ぶおとこ》に意《い》なんぞあるもんですか」

 津田も小林も吹き出した。独《ひと》りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。

「お母さん意があるって何」

「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」

「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」

 叔父はにやにやしながら、禿《は》げた頭の真中を大事そうに撫《な》で廻した。気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。

「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」

「ふん。じゃ好いじゃないか」

「だから誰も悪いと云ってやしない」

「だって皆《みん》な笑うじゃないか」

 この問答の途中へお金《きん》さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間《ねま》の方へ追いやった。興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。

「そりゃ昔《むか》しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝《あさ》が怖《こわ》い顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚《ほ》れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」

「どうだか存じませんよ」

 叔母は真事の立った後《あと》へ坐って、さっさと松茸飯《まつだけめし》を手盛《てもり》にして食べ始めた。

「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」

「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」

「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他《ひと》の娘を何だと思う」

「女だと思ってます」

 津田は交《ま》ぜ返《かえ》し半分わざと返事をした。

「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母《ふぼ》から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚《ほ》れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女《あれ》を愛した覚《おぼえ》がない」

「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」

 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり下味《まず》い食麺麭《しょくパン》をにちゃにちゃ噛《か》んだ。


        三十二


 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏《まと》めようと努力するもののないのに気が付いた。

 餉台《ちゃぶだい》の上に両肱《りょうひじ》を突いた叔父が酔後《すいご》の欠《あくび》を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物《ざんぶつ》を勝手へ運ばした。先刻《さっき》から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面《おもて》を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒《ビール》の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。

 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終《しじゅう》自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜《ひそ》んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。

 半日以上の暇を潰《つぶ》したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌《かっぱつ》な吉川夫人とその綺麗《きれい》な応接間とを記憶の舞台に躍《おど》らした。つづいて近頃ようやく丸髷《まるまげ》に結い出したお延《のぶ》の顔が眼の前に動いた。

 彼は座を立とうとして小林を顧《かえり》みた。

「君はまだいるかね」

「いや。僕ももう御暇《おいとま》しよう」

 小林はすぐ吸い残した敷島《しきしま》の袋を洋袴《ズボン》の隠袋《かくし》へねじ込んだ。すると彼らの立《た》ち際《ぎわ》に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。

「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰《ごぶさた》をしている。宜《よろ》しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑《ひま》で困るだろうね、彼《あ》の女《おんな》も。いったい何をして暮してるかね」

「何って別にする事もないでしょうよ」

 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後《あと》からつけ足した。

「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」

「感心じゃないか。お前のようなお洒落《しゃれ》にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」

「ありがたい仕合せだな」

「芝居《しばや》はどうだい。近頃行くかい」

「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」

 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。

「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」

「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」

「お厭ですか」

「厭より、いつの事だか分らないからね」

 芝居場《しばいば》などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻《か》いて見せた。

「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」

 叔母はふふんと笑った。

「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」

「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」

 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。

「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」

 叔父は笑うだけであった。

「兄貴《あにき》は怒ってるんだろう」

「いったいお秀《ひで》がまた余計な事を云ってやるからいけない」

 津田は少し忌々《いまいま》しそうに妹の名前を口にした。

「お秀に咎《とが》はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」

「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺《おやじ》から送って貰った金を、きちんきちん返す奴《やつ》があるもんですか」

「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」

「もう解りましたよ、叔母さん」

 津田はとても敵《かな》わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促《うな》がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。


        三十三


 戸外《そと》には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬《ほお》に冷たく触れた。星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露《つゆ》がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套《がいとう》の肩を撫《な》でた。その外套の裏側に滲《し》み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧《かえり》みた。

「日中《にっちゅう》は暖《あった》かだが、夜になるとやっぱり寒いね」

「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」

 小林は新調の三《み》つ揃《ぞろい》の上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先《つまさき》を厚く四角に拵《こしら》えたいかつい亜米利加型《アメリカがた》の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖《ステッキ》をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異《こと》ならなかった。

「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」

 彼は突然意外な質問を津田にかけた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。

「うん、まだあるよ」

「まだ着ているのか」

「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」

「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」

「欲しければやっても好い」

 津田はむしろ冷やかに答えた。靴足袋《くつたび》まで新らしくしている男が、他《ひと》の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横《よこた》わる、不規則な物質的の凸凹《たかびく》を証拠《しょうこ》立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊《き》いた。

「なぜその背広《せびろ》といっしょに外套も拵えなかったんだ」

「君と同《おん》なじように僕を考えちゃ困るよ」

「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」

「訊き方が少し手酷《てきび》し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」

 津田はすぐ口を閉じた。

 二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔《へだ》てて向《むこう》に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴《したた》らした。

「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」

 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺《うかが》った。彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝《こんもり》した竹藪《たけやぶ》が一面に生《お》い被《かぶ》さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹《ささ》の葉の梢《こずえ》は、季節相応な蕭索《しょうさく》の感じを津田に与えるに充分であった。

「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放《ほう》ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」

 津田はこういって当面の挨拶《あいさつ》をごまかそうとした。しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。

「おい行こうじゃないか、久しぶりで」

「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」

「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」

「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」

「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止《や》めないと身体《からだ》に障《さわ》るからね」

 自分に都合の好い理窟《りくつ》を勝手に拵《こし》らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶《つれ》であった。彼は冷かし半分に訊《き》いた。

「君が奢《おご》るのか」

「うん奢っても好い」

「そうしてどこへ行くつもりなんだ」

「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」

 二人は黙って坂の下まで降りた。


        三十四


 順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直《まっすぐ》に行かなければならなかった。しかし体《てい》よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗《のぞ》き込むように見て云った。

「僕もそっちへ行くよ」

 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場《バー》めいた店の硝子戸《ガラスど》が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。

「ここが好い。ここへ入ろう」

「僕は厭だよ」

「君の気に入りそうな上等の宅《うち》はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」

「僕は病気だよ」

「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」

「冗談《じょうだん》云うな。厭《いや》だよ」

「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」

 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調《くちょう》で追究《ついきゅう》した。

「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」

 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部《そと》へ現わした。

「じゃ飲もう」

 二人はすぐ明るい硝子戸《ガラスど》を引いて中へ入った。客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅《かたすみ》を択《えら》んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲《あたり》へ向けた。

 服装から見た彼らの相客中《あいきゃくちゅう》に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞《しま》の半纏《はんてん》の肩へ濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》を掛けたのだの、木綿物《もめんもの》に角帯《かくおび》を締《し》めて、わざとらしく平打《ひらうち》の羽織の紐《ひも》の真中へ擬物《まがいもの》の翡翠《ひすい》を通したのだのはむしろ上等の部であった。ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛《はらがけ》股引《ももひき》も一人|交《まじ》っていた。

「どうだ平民的でいいじゃないか」

 小林は津田の猪口《ちょく》へ酒を注《つ》ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出《はで》な彼の背広《せびろ》が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。

「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」

 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃《そろ》っているような顔をして、一同を見廻した。

「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」

 挨拶《あいさつ》をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。

「少くとも陶然《とうぜん》としているだろう」

「上流社会だって陶然とするからな」

「だが陶然としかたが違うよ」

 津田は昂然《こうぜん》として両者の差違を訊《き》かなかった。それでも小林は少しも悄気《しょげ》ずに、ぐいぐい杯《さかずき》を重ねた。

「君はこういう人間を軽蔑《けいべつ》しているね。同情に価《あたい》しないものとして、始めから見くびっているんだ」

 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。

「ねえ君。そうだろう」

 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強《くっきょう》な頸筋《くびすじ》を曲げてちょっとこっちを見た。すると小林はすぐ杯《さかずき》をそっちの方へ出した。

「まあ君一杯飲みたまえ」

 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。

「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」


        三十五


 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏《はんてん》の角刈《かくがり》と入れ違に這入《はい》って来て、二人から少し隔《へだた》った所に席を取った。廂《ひさし》を深くおろした鳥打《とりうち》を被《かぶ》ったまま、彼は一応ぐるりと四方《あたり》を見廻した後《あと》で、懐《ふところ》へ手を入れた。そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。彼はいつまで経《た》っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他《ほか》の客を、見ないようにして見始めた。その相間《あいま》相間には、ちんちくりんな外套《がいとう》の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭《ひげ》を撫《な》でた。

 先刻《さっき》から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向《まむき》になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。

「何だか知ってるか」

 津田は元の通りの姿勢を崩《くず》さなかった。ほとんど返事に価《あたい》しないという口調で答えた。

「何だか知るもんか」

 小林はなお声を低くした。

「あいつは探偵《たんてい》だぜ」

 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口《ちょく》を干した。小林はすぐそれへなみなみと注《つ》いだ。

「あの眼つきを見ろ」

 薄笑いをした津田はようやく口を開《ひら》いた。

「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」

「社会主義者?」

 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。

「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕《つく》ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然《しか》るべきだかよく考えて見ろ」

 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。

「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」

 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。

「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地《きじ》をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃《ほこり》で汚《よご》れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢《きた》ないんだ。馬鹿にするな」

 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家《じか》の弁護らしく聞こえた。しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷《きずつ》けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追《おっ》かけて来た。

「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜《ロシア》の小説を読んだろう」

 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。

「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤《げせん》であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕《つくろ》わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」

「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」

「先生に訊《き》くと、先生はありゃ嘘《うそ》だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器《うつわ》に盛って、感傷的に読者を刺戟《しげき》する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢《とし》を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」

 小林の言葉はだんだん逼《せま》って来た。しまいに彼は感慨に堪《た》えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布《テーブルクロース》の上に落した。


        三十六


 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。同化の埒外《らちがい》からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。彼はつまらなかった。また不安であった。感激家によって彼の前にふり落された涙の痕《あと》を、ただ迷惑そうに眺めた。

 探偵《たんてい》として物色《ぶっしょく》された男は、懐《ふところ》からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広《せびろ》の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。

「君は僕が汚ない服装《なり》をすると、汚ないと云って軽蔑《けいべつ》するだろう。またたまに綺麗《きれい》な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生《ごしょう》だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」

 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。

「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵《こしら》えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」

「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸《はだか》で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」

「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落《しゃれ》だと解釈している。それが悪い」

「そうか。そりゃ悪かった」

 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。

「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気《しゃれけ》はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」

 そんな特別の理由を津田は固《もと》より知ろうはずがなかった。また知りたくもなかった。けれども行きがかり上|訊《き》いてやらない訳にも行かなかった。両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装《なり》を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。

「実はこの着物で近々《きんきん》都落《みやこおち》をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」

 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。ついでに先刻《さっき》から苦になっていた襟飾《えりかざり》の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。

 長い間叔父の雑誌の編輯《へんしゅう》をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終《しじゅう》忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。

「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防《しんぼう》していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際|厭《いや》だよ」

 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利《き》いた。

「要するに僕なんぞは、生涯《しょうがい》漂浪《ひょうろう》して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者《かけおちもの》になるよりほかに仕方がないじゃないか」

「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」

「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢《ぜいたく》だからさ。僕のは死ぬまで麺麭《パン》を追《おっ》かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」

「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」

 小林は津田の言葉から何らの慰藉《いしゃ》を受ける気色《けしき》もなかった。


        三十七


 先刻《さっき》から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓《テーブル》の上を片づけ始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾《と》うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉《とら》えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。そうしてその中からまた新らしい金口《きんぐち》を一本出してそれに火を点《つ》けた。行きがけの駄賃《だちん》らしいこの所作《しょさ》が、煙草《たばこ》の箱を受け取って袂《たもと》へ入れる津田の眼を、皮肉に擽《くす》ぐったくした。

 時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜《よ》の往来は意外に更《ふ》けやすかった。昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁《ふち》をつたって動いて行った。

「朝鮮へはいつ頃行くんだね」

「ことによると君の病院へ入《は》いっているうちかも知れない」

「そんなに急に立つのか」

「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然《はっきり》した事は分らないんだ」

「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」

「うん、まあ――」

 彼の返事は少し曖昧《あいまい》であった。津田がそれを追究《ついきゅう》もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。

「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」

「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」

「なにそうでもないんだ」

「じゃ止《よ》したらいいじゃないか」

 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟《りくつ》なだけに、同情に飢《う》えていそうな相手の気分を残酷に射貫《いぬ》いたと一般であった。数歩の後《のち》、小林は突然津田の方を向いた。

「津田君、僕は淋《さむ》しいよ」

 津田は返事をしなかった。二人はまた黙って歩いた。浅い河床《かわどこ》の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭《はしぐい》の下で黒く消えて行く時、幽《かす》かに音を立てて、電車の通る相間《あいま》相間に、ちょろちょろと鳴った。

「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」

「じゃ行くさ」

「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」

 彼の語気は癇走《かんばし》っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。

「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯《とし》さえ若くって身体《からだ》さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効《せいこう》できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」

 今度は小林の方がいい返事をしなかった。津田は重ねて跋《ばつ》を合せる態度に出た。

「君が行ったらお金《きん》さんの結婚する時困るだろう」

 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。

「うん、あいつも可哀相《かわいそう》だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴《あにき》をもったのが不仕合せだと思って、諦《あき》らめて貰うんだ」

「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」

「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅《うち》で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」

「向うじゃくれないのか」

「くれそうもないな」

「どうにかして出させたら好いだろう」

「さあ」

 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独《ひと》り言《ごと》のように云った。

「旅費は先生から借りる、外套《がいとう》は君から貰う、たった一人の妹は置《お》いてき堀《ぼり》にする、世話はないや」

 これがその晩小林の口から出た最後の台詞《せりふ》であった。二人はついに分れた。津田は後《あと》をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。


        三十八


 彼の門は例《いつも》の通り締《し》まっていた。彼は潜《くぐ》り戸《ど》へ手をかけた。ところが今夜はその潜り戸もまた開《あ》かなかった。立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かきがね》の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。

 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立《たたず》んだ。新らしい世帯を持ってから今日《こんにち》に至るまで、一度も外泊した覚《おぼえ》のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。

 今日《きょう》の彼は灯点《ひとも》し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、むしろお延《のぶ》の面影《おもかげ》を心におきながら外で暮していた。その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火《ともしび》を慕って、それを目標《めあて》に足を運んだのと一般であった。彼の身体《からだ》が土塀《どべい》に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。

 彼は手を挙《あ》げて開《あ》かない潜《くぐ》り戸《ど》をとんとんと二つ敲《たた》いた。「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締《し》めた」といって詰問するような音が、更《ふ》け渡《わた》りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主《ぬし》は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側《こちらがわ》で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩《ひね》る音が明らかに聞こえた。格子《こうし》がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉《た》ててない事はたしかであった。

「どなた?」

 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止《と》まると、お延はまずこう云って誰何《すいか》した。彼はなおの事|急《せ》き込んだ。

「早く開けろ、おれだ」

 お延は「あらッ」と叫んだ。

「あなただったの。御免遊《ごめんあそ》ばせ」

 ごとごと云わして※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かきがね》を外《はず》した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼《あお》い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。

 茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。鉄瓶《てつびん》が約束通り鳴っていた。長火鉢《ながひばち》の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団《ざぶとん》が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向《むこう》には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱《すずりばこ》が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿《らでん》の葢《ふた》は傍《わき》へ取《と》り除《の》けられて、梨地《なしじ》の中に篏《は》め込《こ》んだ小さな硯がつやつやと濡《ぬ》れていた。持主が急いで座を立った証拠《しょうこ》に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲《にじ》ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚《けが》していた。

 戸締《とじま》りをして夫の後《あと》から入ってきたお延は寝巻《ねまき》の上へ平生着《ふだんぎ》の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。

「どうもすみません」

 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりのところであった。結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。

「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」

「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋《さむ》しくってたまらなくなったから、とうとう宅《うち》へ手紙を書き出したの」

 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得《なっとく》ができなかった。

「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒《ぶっそう》だからかね」

「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」

「だって現《げん》に締まっていたじゃないか」

「時《とき》が昨夕《ゆうべ》締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」

 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉《まゆ》を動かして見せた。日中用のない潜《くぐ》り戸《ど》の※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かきがね》を、朝|外《はず》し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。

「時はどうしたい」

「もう先刻《さっき》寝かしてやったわ」

 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜《くぐ》り戸《ど》の事をそのままにして寝た。


        三十九


 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜《ゆうべ》寝るまで全く予想していなかった不意の観物《みもの》によって驚ろかされた。

 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟《あでやか》に盛粧《せいそう》したお延が澄ましてそこに坐っていた。津田ははっと思った。寝起《ねおき》の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩《も》らした。

「今|御眼覚《おめざめ》?」

 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡《てがら》をかけた大丸髷《おおまるまげ》と、派出《はで》な刺繍《ぬい》をした半襟《はんえり》の模様と、それからその真中にある化粧後《けしょうご》の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。

「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」

 お延は平気なものであった。

「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」

 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴《はかま》も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃《そろ》えて、渋紙《しぶかみ》の上へ載《の》せてあった。

「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」

「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」

「迷惑って訳はないがね。――」

 津田はまた改めて細君の服装《なり》を吟味《ぎんみ》するように見た。

「あんまりおつくりが大袈裟《おおげさ》だからね」

 彼はすぐ心の中《うち》でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。そこに坐っている患者の一群《ひとむれ》とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。

「だってあなた今日は日曜よ」

「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」

「だって妾《あたし》……」

 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。

「どうもそういうでこでこな服装《なり》をして、あのお医者様へ夫婦お揃《そろ》いで乗り込むのは、少し――」

「辟易《へきえき》?」

 お延の漢語が突然津田を擽《くすぐ》った。彼は笑い出した。ちょっと眉《まゆ》を動かしたお延はすぐ甘垂《あまった》れるような口調を使った。

「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍《かんにん》してちょうだいよ、ね」

 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥《くるま》を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急《せ》き立《た》てられでもするように世話《せわ》しなく聞いた。


 普通の食事を取らない彼の朝飯《あさめし》はほとんど五分とかからなかった。楊枝《ようじ》も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。

「病院へ持って行くものを纏《まと》めなくっちゃ」

 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後《うしろ》にある戸棚《とだな》を開けた。

「ここに拵《こしら》えてあるからちょっと見てちょうだい」

 よそ行着《ゆきぎ》を着た細君を労《いたわ》らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄《てさげかばん》と小さな風呂敷包《ふろしきづつみ》を、自分の手で戸棚《とだな》から引《ひ》き摺《ず》り出した。包の中には試しに袖《そで》を通したばかりの例の褞袍《どてら》と平絎《ひらぐけ》の寝巻紐《ねまきひも》が這入《はい》っているだけであったが、鞄《かばん》の中からは、楊枝だの歯磨粉《はみがき》だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙《しょかんようし》だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏《はさみ》だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張《かさば》った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。

「これは置いて行くよ」

「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折《しおり》が挟《はさ》んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」

 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書《ドイツしょ》を重そうに畳の上に置いた。

「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」

 こう云った津田は、それがこの大部《たいぶ》の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。

「そう、本はどれが要《い》るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択《よ》ってちょうだい」

 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰《つ》め込んだ。


        四十


 天気が好いので幌《ほろ》を畳《たた》ました二人は、鞄《かばん》と風呂敷包を、各自《めいめい》の俥《くるま》の上に一つずつ乗せて家を出た。小路《こうじ》の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。俥は前後ともすぐとまった。

「大変。忘れものがあるの」

 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入《ねんいり》に身仕舞《みじまい》をした若い女の口から出る刺戟性《しげきせい》に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒《かじぼう》を握ったまま、等しくお延《のぶ》の方へ好奇の視線を向けた。傍《そば》を通る往来の人さえ一瞥《いちべつ》の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。

「何だい。何を忘れたんだい」

 お延は思案するらしい様子をした。

「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」

 彼女は自分の俥だけを元へ返した。中《ちゅう》ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇《はげ》しい速力でまた彼の待っている所まで馳《か》けて来た。それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖《くさり》を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端《はじ》には環《わ》があって、環の中には大小五六個の鍵《かぎ》が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作《しょさ》と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。

「これ忘れたの。箪笥《たんす》の上に置きっ放しにしたまま」

 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人|揃《そろ》って外出する時の用心に、大事なものに錠《じょう》を卸《おろ》しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。

「お前預かっておいで」

 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手《ひらて》でぽんとその上を敲《たた》きながら、津田を見て微笑した。

「大丈夫」

 俥は再び走《か》け出した。

 彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後《おく》れていた。しかし午《ひる》までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。

「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」

 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作《ぞうさ》もなく笑いながら津田にお辞儀《じぎ》をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀《くじゃく》はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。お延が先《せん》を越して、「御厄介《ごやっかい》になります」とこっちから挨拶《あいさつ》をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。

「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」

 津田は車夫から受取った鞄《かばん》を看護婦に渡して、二階の上《あが》り口《くち》の方へ廻った。

「お延こっちだ」

 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗《のぞ》き込んでいたお延は、すぐ津田の後《あと》に随《つ》いて階子段《はしごだん》を上《あが》った。

「大変陰気な室《へや》ね、あすこは」

 南東《みなみひがし》の開《あ》いた二階は幸《さいわい》に明るかった。障子《しょうじ》を開けて縁側《えんがわ》へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干《ものほし》を見ながら、津田を顧《かえり》みた。

「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚《よご》れているけれども」

 もと請負師《うけおいし》か何かの妾宅《しょうたく》に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋《いき》な昔の面影《おもかげ》が残っていた。

「古いけれども宅《うち》の二階よりましかも知れないね」

 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少|燻《くす》ぶった天井《てんじょう》だの床柱《とこばしら》だのを見廻した。


        四十一


 そこへ先刻《さっき》の看護婦が急須《きゅうす》へ茶を淹《い》れて持って来た。

「今|仕度《したく》をしておりますから、少しの間どうぞ」

 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。

「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」

「まるでお客さまに行ったようだろう」

「ええ」

 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。

「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物《はもの》の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」

「あたし怖《こわ》いわ、そんなものを見るのは」

 お延は実際怖そうに眉《まゆ》を動かした。

「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍《そば》まで来て、穢《きた》ないところを見る必要はないんだから」

「でもこんな場合には誰か身寄《みより》のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」

 津田は真面目《まじめ》なお延の顔を見て笑い出した。

「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人《たちあいにん》なんか呼んで来る奴《やつ》があるものかね」

 津田は女に穢《きた》ないものを見せるのが嫌《きらい》な男であった。ことに自分の穢ないところを見せるは厭《いや》であった。もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。

「じゃ止《よ》しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。

「お午《ひる》までに済むでしょうか」

「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同《おん》なじこっちゃないか」

「そりゃそうだけど……」

 お延は後を云わなかった。津田も訊《き》かなかった。

 看護婦がまた階子段《はしごだん》の上へ顔を出した。

「支度《したく》ができましたからどうぞ」

 津田はすぐ立ち上った。お延も同時に立ち上ろうとした。

「お前はそこに待っといでと云うのに」

「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」

「どこかへ用があるのかね」

「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」

 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。今度の病気について妹《いもと》の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。

「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山《ぎょうさん》過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」

 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手《にがて》であった。

 お延は中腰《ちゅうごし》のまま答えた。

「でも後《あと》でまた何か云われると、あたしが困るわ」

 強《し》いてとめる理由も見出《みいだ》し得なかった津田は仕方なしに云った。

「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」

 お延は微《かす》かな声で階下《した》を憚《はば》かるような笑い方をした。しかし彼女の露《あら》わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽《こっけい》だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。

「じゃお秀さんへかけるのは止《よ》すから」

 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。

「まだほかにかける所があるのかい」

「ええ岡本へかけるのよ。午《ひる》までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」

 前後して階子段《はしごだん》を下りた二人は、そこで別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。


        四十二


「リチネはお飲みでしたろうね」

 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊《き》いた。

「飲みましたが思ったほど効目《ききめ》がないようでした」

 昨日《きのう》の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤《げざい》から受けた影響は、ほとんど精神的に零《ゼロ》であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。

「じゃもう一度|浣腸《かんちょう》しましょう」

 浣腸の結果も充分でなかった。

 津田はそれなり手術台に上《のぼ》って仰向《あおむけ》に寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷《ひや》りとした。堅い括《くく》り枕《まくら》に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬《まばた》きをして、何度も天井《てんじょう》を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠《かす》めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸《ぬす》み見たのだという心持がなおのこと募《つの》った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。

「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」

 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。

 局部魔睡《きょくぶますい》は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍《にぶ》い抵抗がそこに感ぜられた。

「どんなです。痛かないでしょう」

 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。

「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」

 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。

「どうも妙な感じです。説明のできないような」

「そうですか。我慢できますか」

 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒《ぶどうしゅ》などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭《いや》であった。

「大丈夫です」

「そうですか。もう直《じき》です」

 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際《てぎわ》が閃《ひら》めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。

 切物《きれもの》の皿に当って鳴る音が時々した。鋏《はさみ》で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇《いかく》した。津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥《なまぐ》さそうに眺めた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。むず痒《かゆ》い虫のようなものが、彼の身体《からだ》を不安にするために、気味悪く血管の中を這《は》い廻った。

 彼は大きな眼を開《あ》いて天井《てんじょう》を見た。その天井の上には綺麗《きれい》に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。

「やっと済みました」

 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後《あと》で、医者はまた云った。

「瘢痕《はんこん》が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」

 最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下《お》ろされた。


        四十三


 診察室を出るとき、後《うしろ》から随《つ》いて来た看護婦が彼に訊《き》いた。

「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」

「いいえ。――蒼《あお》い顔でもしているかね」

 自分自身に多少|懸念《けねん》のあった津田はこう云って訊《き》き返さなければならなかった。

 創口《きずぐち》にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他《ひと》が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段《はしごだん》を上《あが》る時には、割《さ》かれた肉とガーゼとが擦《こす》れ合《あ》ってざらざらするような心持がした。

 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。

「済んだの? どうして?」

 津田ははっきりした返事も与えずに室《へや》の中に這入《はい》った。そこには彼の予期通り、白いシーツに裹《つつ》まれた蒲団《ふとん》が、彼の安臥《あんが》を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地《ねずみじ》のネルを重ねた銘仙《めいせん》の褞袍《どてら》を後《うしろ》から着せるつもりで、両手で襟《えり》の所を持ち上げたお延は、拍子抜《ひょうしぬ》けのした苦笑と共に、またそれを袖畳《そでだた》みにして床《とこ》の裾《すそ》の方に置いた。

「お薬はいただかなくっていいの」

 彼女は傍《そば》にいる看護婦の方を向いて訊《き》いた。

「別に内用のお薬は召し上らないでも差支《さしつか》えないのでございます。お食事の方はただいま拵《こしら》えてこちらから持って参ります」

 看護婦は立ちかけた。黙って寝ていた津田は急に口を開いた。

「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」

「そうね」

 お延は躊躇《ちゅうちょ》した。

「あたしどうしようかしら」

「だって、もう昼過だろう」

「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」

 時計の葢《ふた》を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎《まないた》へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井《てんじょう》の上で、時計と睨《にら》めっ競《くら》でもするように、手術の時間を計っていたのである。

 津田は再び訊《き》いた。

「今から宅《うち》へ帰ったって仕方がないだろう」

「ええ」

「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」

「ええ」

 お延の返事はいつまで経《た》っても捗々《はかばか》しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟《しげき》を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開《あ》かなければならなかった。

「心持が悪いの?」

「いいや」

 念を押したお延はすぐ後《あと》を云った。

「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上《あが》りますからって」

「そうか」

 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。

「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」

 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作《しょさ》が一度に閃《ひら》めいた。病院へ随《つ》いて来るにしては派出過《はです》ぎる彼女の衣裳《いしょう》といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注《そそ》ぎ込《こ》まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。津田は黙って横を向いた。床《とこ》の間《ま》の上に取り揃《そろ》えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙《しょかんようし》だの鋏《はさみ》だの書物だのが彼の眼についた。それは先刻《さっき》鞄《かばん》へ入れて彼がここへ持って来たものであった。

「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」

 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。


        四十四


 津田は書物に手を触れなかった。

「岡本へは断ったんじゃないのか」

 不審よりも不平な顔をした彼が、向《むき》を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床《ゆか》が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。

「断ったのよ」

「断ったのに是非来いっていうのかね」

 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女はかえって微笑した。


「断ったのに是非来いっていうのよ」

「しかし……」

 彼はちょっと行きつまった。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速《じんそく》に働らいてくれなかった。

「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」

「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢《わからずや》ね」

 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究《ついきゅう》していいか見当《けんとう》がつかなかった。

「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」

 彼女の眉《まゆ》がさもさも厭そうに動いた。

「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」

「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」

 不幸にして津田にはその変なところが明暸《めいりょう》に云えなかった。

「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」

 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関《かか》わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。二つの我《が》が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。

「ああ」

 お延は微《かす》かな溜息《ためいき》を洩《も》らしてそっと立ち上った。いったん閉《た》て切《き》った障子《しょうじ》をまた開けて、南向の縁側《えんがわ》へ出た彼女は、手摺《てすり》の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干《ものほし》に隙間《すきま》なく吊《つる》されたワイ襯衣《シャツ》だのシーツだのが、先刻《さっき》見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。

「好いお天気だ事」

 お延が小さな声で独《ひと》りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然|籠《かご》の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍《そば》に縛《しば》りつけておくのが少し可哀相《かわいそう》になった。彼はお延に言葉をかけようとして、接穂《つぎほ》のないのに困った。お延も欄干《らんかん》に身を倚《よ》せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。

 そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上《あが》って来た。

「どうもお待遠さま」

 津田の膳《ぜん》には二個の鶏卵《けいらん》と一合のソップと麺麭《パン》がついているだけであった。その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。

 津田は床の上に腹這《はらばい》になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。

「行くのか、行かないのかい」

 お延はすぐ肉匙《フォーク》の手を休めた。

「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止《よ》せとおっしゃれば止すわ」

「大変柔順だな」

「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊《き》いて見ろって云うんですもの」

「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」

「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返《いっぺん》断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午《ひる》までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」

「岡本からそういう返事が来たのかい」

「ええ」

 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。

「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」

 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。

「そりゃ行きたいわ」

「とうとう白状したな。じゃおいでよ」

 二人はこういう会話と共に午飯《ひるめし》を済ました。


        四十五


 手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後《おく》らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口《ひとくち》劇場の名を云ったなり、すぐ俥《くるま》に乗った。門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。

 小路《こうじ》を出た護謨輪《ゴムわ》は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑《にぎ》やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方《かけかた》が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体《からだ》が浮《うわ》つきながら早く揺《うご》くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛《ふん》として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。

 車上の彼女は宅《うち》の事を考える暇がなかった。機嫌《きげん》よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像《イメジ》が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支《さしつか》えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好《しこう》を始めからもっていない彼女は、時間が後《おく》れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟《しげき》であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。

 俥は茶屋の前でとまった。挨拶《あいさつ》をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯《ちょうちん》だの暖簾《のれん》だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜《さくそう》した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間《すきま》から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入《しゅつにゅう》したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇《くらやみ》を通り抜けて、急に明海《あかるみ》へ出た人のように眼を覚《さ》ました。そうしてこの氛囲気《ふんいき》の片隅《かたすみ》に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作《きょしどうさ》共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。

 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子《つぎこ》は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣《きづか》うように、後《うしろ》を向いて筋違《すじかい》に身体《からだ》を延ばしながらお延に訊《き》いた。

「見えて? 少しここと換《かわ》ってあげましょうか」

「ありがとう。ここでたくさん」

 お延は首を振って見せた。

 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子《ゆりこ》は左利《ひだりきき》なので、左の手に軽い小さな象牙製《ぞうげせい》の双眼鏡を持ったまま、その肱《ひじ》を、赤い布《きれ》で裹《つつ》んだ手摺《てすり》の上に載《の》せながら、後《うしろ》をふり返った。

「遅かったのね。あたし宅《うち》の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」

 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶《あいさつ》かたがたお延に何か云うほどの智慧《ちえ》をもたなかった。

「御用があったの?」

「ええ」

 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻《さっき》から姉妹《きょうだい》の母親が傍目《わきめ》もふらず熱心に見つめている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木《ひょうしぎ》の鳴るまでついに一言《ひとこと》も口を利《き》かなかった。


        四十六


「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻《さっき》継《つぎ》と話してたの」

 幕が引かれてから、始めてうち寛《くつ》ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。

「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」

 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後《あと》を云い足した。

「あたしお母さまと賭《かけ》をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」

「そう。また御神籤《おみくじ》を引いて」

 継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書《てんしょ》の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙《ぞうげ》を平たく削《けず》った精巧の番号札が数通《かずどお》り百本納められていた。彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入《こようじいれ》を取り扱うような手つきで、短冊形《たんざくがた》の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入《もんくいり》の折手本《おりでほん》を繰《く》りひろげて見た。そうしてそこに書いてある蠅《はえ》の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重《はぶたえ》の裏をつけた更紗《さらさ》の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳《かざ》したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具《おもちゃ》としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的《ゆうぎてき》に着けてくれる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙《ちつ》入のままそれを机の上から取って帯の間に挟《はさ》んで外出する事さえあった。

「今日も持って来たの?」

 お延は調戯半分《からかいはんぶん》彼女に訊《き》いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍《そば》から彼女に代って返事をするごとくに云った。

「今日の予言はお神籤《みくじ》じゃないのよ。お神籤よりもっと偉《えら》い予言なの」

「そう」

 お延は後が聞きたそうにして、母子《おやこ》を見比べた。

「継《つぎ》はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被《おっかぶ》せるようにとめた。

「止《よ》してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」

 今まで黙って三人の会話を聴《き》いていた妹娘の百合子《ゆりこ》が、くすくす笑い出した。

「あたし云ってあげてもいいわ」

「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを浚《さら》って上げないから」

 母は隣りにいる人の注意を惹《ひ》かないように、小さな声を出して笑った。お延もおかしかった。同時になお訳が訊《き》きたかった。

「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」

 百合子はわざと腮《あご》を前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。

「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」

 こう云いながら立つと、継子は後《うしろ》の戸を開けてすぐ廊下へ出た。

「お姉さま怒ったのね」

「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」

「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」

「だから話してちょうだいよ」

 年歯《とし》の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨《うま》く利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩《くず》していたので、お延の慫慂《しょうよう》は何の効目《ききめ》もなかった。母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負《しょ》わなければならなかった。

「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」

「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母《たのも》しく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」

「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」

「まあ」

 お延は弱い感投詞《かんとうし》をむしろ淋《さみ》しそうに投げた。


        四十七


 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕《あさゆう》尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一《ゆいいつ》の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。

「良人《おっと》というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿《かいめん》に過ぎないのだろうか」

 これがお延のとうから叔母《おば》にぶつかって、質《ただ》して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位《きぐらい》があった。見方次第では痩我慢《やせがまん》とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制《けんせい》した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲《すもう》を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体《てい》よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝《さら》すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。

 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届《ふゆきとどき》からでも出たように、傍《はた》から解釈されてはならないと日頃から掛念《けねん》していた。すべての噂《うわさ》のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。

「世間には津田よりも何層倍か気《き》むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人《おっと》を綾《あや》なして行けないのは、畢竟《ひっきょう》知恵《ちえ》がないからだ」

 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷《きずつ》けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外《そら》せた。

 舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目《つぎめ》の少し切れた間から誰かが見物の方を覗《のぞ》いた。気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐《すわ》ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩《くず》したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦《うず》のように見えた。彼らの或者の派出《はで》な扮装《つくり》が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。

 土間《どま》から眼を放したお延は、ついに谷を隔《へだ》てた向う側を吟味《ぎんみ》し始めた。するとちょうどその時|後《うしろ》をふり向いた百合子が不意に云った。

「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」

 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当《けんとう》へつけて、そこに容易《たやす》く吉川夫人らしい人の姿を発見した。

「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」

「見つけやしないのよ。先刻《さっき》から知ってるのよ」

「叔母さんや継子さんも知ってるの」

「ええ皆《みん》な知ってるのよ」

 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。

「あたし厭《いや》だわ。あんなにして見られちゃ」

 お延は隠れるように身を縮《ちぢ》めた。それでも向側《むこうがわ》の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。

「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」

 お延はすぐ継子の後《あと》を追《おっ》かけて廊下へ出た。


        四十八


 そこから見渡した外部《そと》の光景も場所柄《ばしょがら》だけに賑《にぎ》わっていた。裏へ貫《ぬき》を打って取《と》り除《はず》しのできるように拵《こし》らえた透《すか》しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下の端《はじ》に立って、半《なか》ば柱に身を靠《も》たせたお延が、継子の姿を見出《みいだ》すまでには多少の時間がかかった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指《めざ》す人のいる方へ渡った。

「何を買ってるの」

 後《うしろ》から覗《のぞ》き込むようにして訊《き》いたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんど擦《す》れ擦れになって、微笑《ほほえ》み合った。

「今困ってるところなのよ。一《はじめ》さんが何かお土産《みやげ》を買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにく何《なん》にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」

 疳違《かんちが》いをして、男の子の玩具《おもちゃ》を買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、止《よ》すには止されず、弱っているところであった。役者に縁故のある紋《もん》などを着けた花簪《はなかんざし》だの、紙入だの、手拭《てぬぐい》だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利《き》いてやった。

「駄目よ、あの子は、拳銃《ピストル》とか木剣《ぼっけん》とか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんな粋《いき》な所にあろうはずがないわ」

 売店の男は笑い出した。お延はそれを機《しお》に年下の女の手を取った。

「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた後《のち》ほど」

 こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端《はじ》まで引張るようにして連れて来た。そこでとまった二人は、また一本の軒柱《のきばしら》を盾《たて》に立話をした。

「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」

「来るのよ、今に」

 お延は意外に思った。四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件《ひとじけん》であった。

「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、圧《お》されてへしゃげちまうわ」

「百合子さんと入れ代るのよ」

「どうして」

「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」

「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」

「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間《いっけん》取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」

「吉川さんとも前から約束があったの?」

「ええ」

 継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊《き》かなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似《てまね》までして見せた。

「こうやって真《ま》ともに向けるんだから、敵《かな》わないわね」

「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅《うち》のお父さまがそうおっしゃってよ」

「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」

「見て御覧なさい、きっと嬉《うれ》しがってよ。延子さんはハイカラだって」

 二人が声を出して笑い合っている傍《そば》に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。無地の羽織に友縫《ともぬい》の紋《もん》を付けて、セルの行灯袴《あんどんばかま》を穿《は》いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶《あいさつ》でもして通り過ぎるように、鄭重《ていちょう》な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子は赧《あか》くなった。

「もう這入《はい》りましょうよ」

 彼女はすぐお延を促《うな》がして内へ入った。


        四十九


 場中《じょうちゅう》の様子は先刻《さっき》見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女《なんにょ》の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩《わず》らわしく眺《なが》められた。できるだけ多くの注意を惹《ひ》こうとする浮誇《ふこ》の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾《ふんしょく》であった。

 比較的静かな舞台《ぶたい》の裏側では、道具方の使う金槌《かなづち》の音が、一般の予期を唆《そそ》るべく、折々場内へ響き渡った。合間合間には幕の後《うしろ》で拍子木《ひょうしぎ》を打つ音が、攪《か》き廻《まわ》された注意を一点に纏《まと》めようとする警柝《けいたく》の如《よう》に聞こえた。

 不思議なのは観客であった。何もする事のないこの長い幕間《まくあい》を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟《しげき》を盛って、他愛《たわい》なく時間のために流されていた。彼らは穏和《おだや》かであった。彼らは楽しそうに見えた。お互の吐《は》く呼息《いき》に酔っ払った彼らは、少し醒《さ》めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。すぐ相手の気分に同化する事ができた。

 席に戻った二人は愉快らしく四辺《あたり》を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。婦人の双眼鏡はもう彼らを覘《ねら》っていなかった。その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。

「あらいらっしゃらないわ」

「本当ね」

「あたし探《さが》してあげましょうか」

 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛《あ》てがった。

「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前《ににんまえ》ぐらい肥《ふと》ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」

 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗《きれい》な友染模様《ゆうぜんもよう》の背中が隠れるほど、帯を高く背負《しょ》った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪《こら》えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘《たし》なめた。

「百合子さん」

 妹は少しも応《こた》えなかった。例の通りちょっと小鼻を膨《ふく》らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。

「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」

「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」

「でもいるわ」

 百合子はやはり動かなかった。子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍《かたわら》に、お延が年相応の分別《ふんべつ》を出して叔母に向った。

「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶《ごあいさつ》をして来ましょうか。澄《す》ましていちゃ悪いわね」

 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでもこっちを嫌《きら》っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気《おぼろげ》な理由さえあった。自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴《ともな》っていた。先刻《さっき》双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶《あいさつ》に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易《たやす》く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗《あん》に願っていた。

 叔母はすぐ返事をした。

「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」

「でも今いらっしゃらないから」

「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」

「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」

「叔母さんは――」

「いらっしゃらない?」

「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙《ごめんこうむ》ってその時にしようかと思ってるのよ」

「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上《めしや》がるの」

「みんなよ」

「あたしも?」

「ああ」

 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。

「そんならあたしもその時にするわ」


        五十


 岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰《もら》った戸の隙間《すきま》から中を覗《のぞ》いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談《たちばなし》を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後《あと》へ窮屈そうに坐った。こんな場所ではちょっと身体《からだ》の位置を変《かえ》るのさえ臆劫《おっくう》そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後《うしろ》を向いた。

「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞《ふさ》いで邪魔だろう」

 一夜作《いちやづく》りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺《あたり》へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例《ためし》のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合《あい》だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生《なま》っ白《ちろ》い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞《しま》の着物をぞろりと着流して、博多《はかた》の帯をわざと下の方へ締《し》めたその色男は、素足に雪駄《せった》を穿《は》いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍《そば》にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。然《しか》るに観客の顔はことごとく緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳《せき》一つするものがなかった。急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分|後《うしろ》を向いて、小声でお延に話しかけた。

「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」

 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊《き》いた。

「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人|芝居《しばや》へ行くなんて不埒千万《ふらちせんばん》だとか何とか。え? きっとそうだろう」

「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」

「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」

 小声でさえ話をするものが周囲《あたり》に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。

「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」

「あたし心配なんかしちゃいないわ」

「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌《ごきげん》を損じちゃ」

「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」

 お延は煩《うる》さそうに眉《まゆ》を動かした。面白半分|調戯《からか》って見た岡本は少し真面目《まじめ》になった。

「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居《しばや》を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」

 お延の眼は急に舞台を離れた。

「理由《わけ》っていったい何」

「今ここじゃ話し悪《にく》いがね。いずれ後で話すよ」

 お延は黙るよりほかに仕方なかった。岡本はつけ足すように云った。

「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食《ばんめし》を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」

 先刻《さっき》まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。

「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部《クラブ》から」

 二人の会話はそこで途切《とぎ》れた。お延はまた真面目に舞台の方を見出した。しかし十分|経《た》つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後《うしろ》の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語《ささや》いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。

「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間《まくあい》にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」

 叔父はすぐ返事を伝えさせた。

「承知しました」

 男はまた戸をそっと閉《た》てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。


        五十一


 彼女が叔父叔母の後《あと》に随《つ》いて、継子といっしょに、二階の片隅《かたすみ》にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間|後《のち》であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹《いとこ》に小声で訊《き》いて見た。

「いったいこれから何が始まるの」

「知らないわ」

 継子は下を向いて答えた。

「ただ御飯を食べるぎりなの」

「そうなんでしょう」

 訊《き》こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧《あいまい》になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母《ちちはは》に遠慮があるのかも知れなかった。また自分は何《なん》にも承知していないのかも分らなかった。あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。

 鋭い一瞥《いちべつ》の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢《であ》う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然《こつぜん》お延の頭に彼女と自分との比較が閃《ひら》めいた。姿恰好《すがたかっこう》は継子に立《た》ち優《まさ》っていても、服装《なり》や顔形《かおかたち》で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥《はにか》んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々《ういうい》しく出来上った、処女としては水の滴《した》たるばかりの、この従妹《いとこ》を軽い嫉妬《しっと》の眼で視《み》た。そこにはたとい気の毒だという侮蔑《ぶべつ》の意《こころ》が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我《ひが》の地位を易《か》えて立って見たいぐらいな羨望《せんぼう》の念が、著《いちじ》るしく働らいていた。お延は考えた。

「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」

 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。平生継子を標準《めやす》におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑《にぎ》やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁《あいしゅう》に打たれた。それは軽いものであった。しかし涙に変化しやすい性質《たち》のものであった。そうして今|嫉妬《しっと》の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締《し》めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。

「あなたは私より純潔です。私が羨《うら》やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋《つな》ぐために、その貴《たっと》い純潔な生地《きじ》を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛《つら》くあたるかも知れません。私はあなたが羨《うらや》ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器《うつわ》が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母《ふぼ》の膝下《しっか》を離れると共に、すぐ天真の姿を傷《きずつ》けられます。あなたは私よりも可哀相《かわいそう》です」

 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮《さえ》ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。

「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」

 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向ってかけられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方《ひとかた》ならぬ恩顧《おんこ》を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能《あた》う限《かぎ》りの愛嬌《あいきょう》と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後《あと》に随《つ》いて食堂に入った。


        五十二


 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標《まと》にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談《たちばなし》をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食《は》み出している大々《だいだい》した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲《みなぎ》らしていた夫人の方でも、すぐ眸《ひとみ》をお延の上に移した。しかし咄嗟《とっさ》の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶《あいさつ》を取《と》り換《かわ》すまで、ついに互を認め合わなかった。

 夫人に投げかけた一瞥《いちべつ》についで、お延はまたその傍《そば》に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻《さっき》廊下で継子といっしょになって、冗談《じょうだん》半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。

 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後《うしろ》に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好《みよし》さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついにその三好の何人《なんびと》であるかを知らずにしまった。

 席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐《すわ》った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子《いす》へ腰を下《お》ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇《ちゅうちょ》した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。

「どうですかけたら」

 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。

「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。

「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」

 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先《せん》を越《こ》すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙《まず》い感じが胸のどこかにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心《うぶ》らしい様子を、食卓越《テーブルごし》に眺めた時、ますます強固にされた。

 継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。ろくろく口も利《き》かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中《うち》には、ほとんど苦痛に近い或物が見透《みすか》された。気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌《あいきょう》のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。

 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑《ちぎ》しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。

「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」

 ちょうど叔母と話を途切《とぎ》らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。

「ええ何でも致しましょう」

「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」

 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。

「また独逸《ドイツ》を逃げ出した話でもするがいい」

 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。

「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰《く》り返《かえ》すんでね、近頃はもう他《ひと》よりも自分の方が陳腐《ちんぷ》になってしまいました」

「あなたのような落ちついた方《かた》でも、少しは周章《あわて》たでしょうね」

「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」

「でも殺されるとは思わなかったでしょう」

「さよう」

 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。

「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」

「なぜです。人間がずうずうしいからですか」

「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」

 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。


        五十三


 三好を中心にした洋行談がひとしきり弾《はず》んだ。相間《あいま》相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際《てぎわ》を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和《おだやか》というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車《くちぐるま》に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。

 彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言《ひとこと》も口を挟《さしは》さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫《ごう》も技巧の臭味《くさみ》なしに、着々成功して行く段取《だんどり》を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。

「こっちの気のせいかしらん」

 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。

「延子さんが呆《あき》れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」

 お延は不意を打たれて退避《たじ》ろいだ。津田の前でかつて挨拶《あいさつ》に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚《きょ》を充《み》たした。しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌《あいきょう》に過ぎなかった。

「いいえ、大変面白く伺《うかが》っております」と後《あと》から付け足した時は、お延自分でももう時機の後《おく》れている事に気がついていた。またやり損《そく》なったという苦《にが》い感じが彼女の口の先まで湧《わ》いて出た。今日こそ夫人の機嫌《きげん》を取り返してやろうという気込《きごみ》が一度に萎《な》えた。夫人は残酷に見えるほど早く調子を易《か》えて、すぐ岡本に向った。

「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」

「ええ。何しろ一昔前《ひとむかしまえ》の事ですからな」

「一昔前って何年頃なの、いったい」

「さよう西暦《せいれき》……」

 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。

「普仏戦争《ふふつせんそう》時分?」

「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様《だんなさま》を案内して倫敦《ロンドン》を連れて歩いて上げた覚《おぼえ》があるんだから」

「じゃ巴理《パリ》で籠城《ろうじょう》した組じゃないのね」

「冗談じゃない」

 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。

「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」

「うん、あの鈍臭《のろくさ》いバスがまだ幅を利《き》かしていた時代だよ」

 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹《ひ》き起すらしく見えた。継子と三好を見較《みくら》べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。

「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」

「じゃ始終《しじゅう》その子の傍《そば》に坐っていらっしったら好いでしょう」

 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。

「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊《き》いた。叔母がそんな呑気《のんき》な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。

「今度はお爺《じい》さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前《がんぜん》に逼《せま》って来たんだ。油断はできません」

 継子が顔を赧《あか》くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。

「でも岡本さんにゃ自分の年歯《とし》を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何《なん》にも反省器械《はんせいきかい》を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」

「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」

 みんなが声を出して笑った。


        五十四


 彼らほど多人数《たにんず》でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群《いちぐん》を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲《コヒー》も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼らは中途で拭布《ナプキン》を放《ほう》り出《だ》す訳に行かなかった。またそんな世話しない真似《まね》をする気もないらしかった。芝居を観《み》に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。

「もう始まったのかい」

 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊《き》いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧《ていねい》に答えた。

「ただ今|開《あ》きました」

「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」

 叔父はすぐ皮付の鶏《とり》の股《もも》を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着《とんじゃく》しないらしかった。彼はすぐ叔父の後《あと》へついて、劇とは全く無関係な食物《くいもの》の挨拶《あいさつ》をした。

「君は相変らず旨《うま》そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車《かたぐるま》へ乗った話をお聞きですか」

 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子にかけた。継子も知らなかった。

「そうでしょうね、あんまり外聞《がいぶん》の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」

「何が?」

 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍《そば》から口を出した。

「おおかた重過ぎてその外国人を潰《つぶ》したんでしょう」

「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦《ロンドン》の群衆の中で、大男の肩の上へ噛《かじ》りついていたんだ。行列を見るためにね」

 叔父《おじ》はまだ笑いもしなかった。

「何を捏造《ねつぞう》する事やら。いったいそりゃいつの話だね」

「エドワード七世の戴冠式《たいかんしき》の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈《せい》が高過ぎるもんだから、苦し紛《まぎ》れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」

「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」

 叔父の弁解はむしろ真面目《まじめ》であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。

「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人《イギリスじん》が大きいたって、どうも君じゃ辻褄《つじつま》が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小《わいしょう》だからな」

 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑《ふ》に落ちたらしい言葉遣《ことばづか》いをして、なおその当人の猿という渾名《あざな》を、一座を賑《にぎ》わせる滑稽《こっけい》の余音《よいん》のごとく繰《く》り返《かえ》した。夫人は半《なか》ば好奇的で、半ば戒飭的《かいちょくてき》な態度を取った。

「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」

「なにお前の知らない人だ」

「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏《ひょうり》なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同《おん》なじ事です」

 こんな他愛《たわい》もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前《わけまえ》を取る事ができなかった。自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経《た》っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。あるいはむしろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒《いっけん》置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹《いとこ》を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹《あと》さえありありと見えた。それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部《そと》に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望《せんぼう》の漣※[#「さんずい+猗」、第3水準1-87-6]《さざなみ》が立った。

「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」

 会食中の彼女はしばしばこう思った。そうしてその後《あと》から暗《あん》に人馴《ひとな》れない継子を憐《あわ》れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮《けいぶ》の念が例《いつ》もの通り起った。


        五十五


 彼らの席を立ったのは、男達の燻《くゆ》らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜《たま》った頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時《なんじ》だろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間を捉《とら》えた夫人は突然お延に話しかけた。

「延子さん。津田さんはどうなすって」

 いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後《あと》を自分で云い足した。

「先刻《さっき》から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」

 この云訳《いいわけ》をお延は腹の中で嘘《うそ》らしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠《こんきょ》のある推定であった。彼女は食堂へ這入《はい》って夫人に挨拶《あいさつ》をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、恭《うやうや》しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介《ごやっかい》になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言《ひとこと》も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。そうして二三日前《にさんちまえ》津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。

 お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌《きら》われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振《そぶり》を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。しかし単に夫を贔負《ひいき》にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚《はば》かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然|他《ひと》に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一《ゆいいつ》の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞《つか》えていたからであった。それをいよいよ席を立とうとする間際《まぎわ》になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘《うそ》らしいという疑を抱《いだ》くだけではすまなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。

「ありがとうございます。お蔭《かげ》さまで」

「もう手術をなすったの」

「ええ今日《こんち》」

「今日《きょう》? それであなたよくこんな所へ来られましたね」

「大した病気でもございませんものですから」

「でも寝ていらっしゃるんでしょう」

「寝てはおります」

 夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他《ひと》に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。

「病院へ御入《おはい》りになって」

「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空《あ》いておるので、五六日《ごろくんち》そこへおいていただく事にしております」

 夫人は医者の名前と住所《ところ》とを訊《き》いた。見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。

 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。

「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒《なお》るまでよく養生するように、そう云って下さい」

 お延は礼を云った。

 食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。


        五十六


 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾《はらん》も来なかった。ただ褞袍《どてら》を着て横臥《おうが》した寝巻姿《ねまきすがた》の津田の面影《おもかげ》が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那《せつな》に、「いや疳違《かんちが》いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗《のぞ》いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。騙《だま》されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打《したうち》をしたくなった。

 食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後《ゆうめしご》に起った新らしい経験にほかならなかった。彼女は黙って前後|二様《によう》の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰《く》り返《かえ》さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓《テーブル》で晩餐《ばんさん》を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。しかし夫人のいかなる点が、この苦《にが》い酒を醸《かも》す醗酵分子《はっこうぶんし》となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊《き》かれると、彼女はとても判然《はっきり》した返事を与えることができなかった。彼女はただ不明暸《ふめいりょう》な材料をもっていた。そうして比較的明暸な断案に到着していた。材料に不足な掛念《けねん》を抱《いだ》かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。彼女は総《すべ》ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。

 芝居が了《は》ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑《ごたごた》した間際《まぎわ》に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦《あき》らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭《かげ》から、ちょいちょい首を出した。

 茶屋は幸にして異《ちが》っていた。吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。襟《えり》に毛皮の付いた重そうな二重廻《にじゅうまわ》しを引掛《ひっか》けながら岡本がコートに袖《そで》を通しているお延を顧《かえり》みた。

「今日は宅《うち》へ来て泊って行かないかね」

「え、ありがとう」

 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶《あいさつ》をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆《あき》れますね」という表情で叔父を見た。そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着《むとんじゃく》なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目《まじめ》な調子で繰り返した。

「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要《い》らないから」

「泊っていけったって、あなた、宅《うち》にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」

「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」

 そんなら止《よ》すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。

「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介《ごやっかい》になった事はなくってよ」

「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至《いたり》だね」

「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」

「いや結構ですよ。御夫婦お揃《そろい》で、お堅くっていらっしゃるのは――」

「何よりもって恐悦至極《きょうえつしごく》」

 先刻《さっき》聞いた役者の言葉を、小さな声で後《あと》へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆《あき》れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。

「何ですって」

 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口《かどぐち》の方へ歩いて行った。みんなもその後《あと》に随《つ》いて表へ出た。

 車へ乗る時、叔父はお延に云った。


「お前|宅《うち》へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中《にさんちじゅう》にね。少し訊《き》きたい事があるんだから」

「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日《あした》にでも伺ってよ、好くって」

「オー、ライ」

 四人の車はこの英語を相図《あいず》に走《か》け出《だ》した。


        五十七


 津田の宅《うち》とほぼ同じ方角に当る岡本の住居《すまい》は、少し道程《みちのり》が遠いので、三人の後《あと》に随《つ》いたお延の護謨輪《ゴムわ》は、小路《こうじ》へ曲る例の角《かど》までいっしょに来る事ができた。そこで別れる時、彼女は幌《ほろ》の中から、前に行く人達に声をかけた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥《くるま》はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋《さみ》しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知《われし》らず調子を踏《ふ》み外《はず》して、一人|圏外《けんがい》にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅《うち》の玄関を上った。

 下女は格子《こうし》の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶《てつびん》さえいつものように快い音を立てなかった。今朝《けさ》見たと何の変りもない室《へや》の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁《ほうよう》し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体《からだ》を、長火鉢《ながひばち》の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。

 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛《たわい》なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然《はっきり》して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩《くず》れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方《かた》へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽《ろうばい》させた。

 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我《ひが》の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母《たのも》しかった。

「早く玄関を締《し》めてお寝。潜《くぐ》りの※[#「金+饌のつくり」、第4水準2-91-37]《かきがね》はあたしがかけて来たから」

 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢《ひばち》の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継《つ》ぎ足《た》した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸《わ》かした。しかし夜更《よふけ》に鳴る鉄瓶《てつびん》の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼《せま》ってくる孤独の感が、先刻《さっき》帰った時よりもなお劇《はげ》しく募《つの》って来た。それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋《さび》しみに比べると、遥《はる》かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐《なつ》かしそうに心の眼で眺めた。

「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」

 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日《あした》は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食《くっ》ついていなかった。二人の間に何だか挟《はさ》まってしまった。こっちで寄り添おうとすればするほど、中間《ちゅうかん》にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半《なか》ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜《よろ》しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。

 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈《えしゃく》なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱《いだ》かずにすんだろうにという気ばかり強くした。

 しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜《ゆうべ》書きかけた里へやる手紙の続《つづき》を書こうと思って、筆を執《と》りかけた彼女は、いつまで経《た》っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏《まと》める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟《しげき》するので、彼女は焦《じ》らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。


        五十八


 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時《なんじ》だか分らない朝の光で眼を覚《さ》ました。雨戸の隙間《すきま》から差し込んで来るその光は、明らかに例《いつ》もより寝過ごした事を彼女に物語っていた。

 彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕《ゆうべ》の衣裳を見た。上着と下着と長襦袢《ながじゅばん》と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩《くず》れているので、そこには上下《うえした》裏表《うらおもて》の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊《かたま》りがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端《はじ》を出した金糸入りの檜扇模様《ひおうぎもよう》の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。

 彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆《あき》れた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面《きちょうめん》を女徳《じょとく》の一つと心がけて来た自分の所作《しょさ》かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。津田に嫁《とつ》いで以後、かつてこんな不体裁《ふしだら》を夫に見せた覚《おぼえ》のない彼女は、その夫が今自分と同じ室《へや》の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。

 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、例《いつ》もの通り宅《うち》にいたならば、たといどんなに夜更《よふか》しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼が覚《さ》めると共に跳《は》ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑《けいべつ》しない訳に行かなかった。

 それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕《ゆうべ》の不首尾を償《つぐな》うためか、自分の知らない間《ま》に起きてくれたお時の足音が、先刻《さっき》から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。

 そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん弛《ゆる》んで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支《さしつか》えなかろうと考え直すようになった。彼女の関節《ふしぶし》が楽々しだした。彼女はいつにない暢《のん》びりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。これも畢竟《ひっきょう》夫が留守のお蔭《かげ》だと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。そうして毎日夫と寝起《ねおき》を共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒《かくせい》は無論長く続かなかった。いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕《ゆうべ》の自分を嘲《あざ》けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。

 彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗《きれい》に片づけた。津田がいないので、だいぶ省《はぶ》ける手数《てすう》を利用して、下女も煩《わずら》わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞《みじまい》をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。

 彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。その三人のうちで一番先に択《えら》ばれたものは、やはり津田であった。しかし自分で電話口へ立つ事のできない横臥《おうが》状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くよりほかに仕方がなかった。ただ別に異状のあるはずはないと思っていた彼女の予期は外《はず》れなかった。彼女は「順当でございます、お変りはございません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どのくらい津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくってもいいかと尋ねて貰った。すると津田がなぜかと云って看護婦に訊《き》き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判断に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。しかし行かないと、機嫌《きげん》を悪くする男であった。それでは行けば喜こぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損《しぞん》をさせておいて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。ふとこんな事を考えた彼女は、昨夕《ゆうべ》吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩《も》らしてしまった。

「今日は岡本へ行かなければならないから、そちらへは参りませんって云って下さい」

 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へかけ易《か》えて、今に行ってもいいかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口《ひとくち》報告的に通じただけで、また宅《うち》へ帰った。


        五十九


 お時の御給仕で朝食兼帯《あさめしけんたい》の午《ひる》の膳《ぜん》に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王《クイーン》らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貪《むさ》ぼり得たこの自由が、いつもよりはかえって彼女を囚《とら》えた。身体《からだ》のゆっくりした割合に、心の落ちつけなかった彼女は、お時に向って云った。

「旦那様《だんなさま》がいらっしゃらないと何だか変ね」

「へえ、御淋《おさむ》しゅうございます」

 お延はまだ云い足りなかった。

「こんな寝坊をしたのは始めてね」

「ええ、その代りいつでもお早いんだから、たまには朝とお午といっしょでも、宜《よろ》しゅうございましょう」

「旦那様がいらっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」

「誰がでございます」

「お前がさ」

「飛んでもない」

 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりもひどくお延の趣味に応《こた》えた。彼女はすぐ黙ってしまった。

 三十分ほど経《た》って、お時の沓脱《くつぬぎ》に揃《そろ》えたよそゆきの下駄《げた》を穿《は》いてまた表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧《かえり》みた。

「よく気をつけておくれよ。昨夕見たいに寝てしまうと、不用心だからね」

「今夜も遅く御帰りになるんでございますか」

 お延はいつ帰るかまるで考えていなかった。

「あんなに遅くはならないつもりだがね」

 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸のどこかでした。

「なるたけ早く帰って来て上げるよ」

 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。

 岡本の住居《すまい》は藤井の家とほぼ同じ見当《けんとう》にあるので、途中までは例の川沿《かわぞい》の電車を利用する事ができた。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、そこに掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日《にさんち》前の晩、酒場《バー》を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺《もつ》れ合《あ》った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼らとは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父《おじ》の宅《うち》へ行くには是非共|上《のぼ》らなければならない細長い坂へかかった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。

「昨日《さくじつ》は」

「どこへ行くの」

「お稽古《けいこ》」

 去年女学校を卒業したこの従妹《いとこ》は、余暇《ひま》に任せていろいろなものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。

「何のお稽古? トーダンス?」

 彼らはこんな楽屋落《がくやおち》の笑談《じょうだん》をいうほど親しい間柄《あいだがら》であった。しかしお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心《かんじん》の当人には、いっこう諷刺《ふうし》としての音響を伝えずにすむらしかった。

「まさか」

 彼女はただこう云って機嫌《きげん》よく笑った。そうして彼女の笑は、いかに鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女はついにどこへ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。

「冷かすから厭《いや》よ」

「また何か始めたの」

「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」

 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅では隠れない事実であった。最初妹からつけられて、たちまち家族のうちに伝播《でんぱん》したこの悪口《わるくち》は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。

「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」

 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度ふり返って見たお延の胸に、また尊敬と軽侮とを搗《つ》き交《ま》ぜたその人に対するいつもの感じが起った。


        六十


 岡本の邸宅《やしき》へ着いた時、お延はまた偶然叔父の姿を玄関前に見出《みいだ》した。羽織も着ずに、兵児帯《へこおび》をだらりと下げて、その結び目の所に、後《うしろ》へ廻した両手を重ねた彼は、傍《そば》で鍬《くわ》を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。

「来たね。今庭いじりをやってるところだ」

 植木屋の横には、大きな通草《あけび》の蔓《つる》が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。

「そいつを今その庭の入口の門の上へ這《は》わせようというんだ。ちょっと好いだろう」

 お延は網代組《あじろぐみ》の竹垣の中程にあるその茅門《かやもん》を支えている釿《ちょうな》なぐりの柱と丸太の桁《けた》を見較べた。

「へえ。あの袖垣《そでがき》の所にあったのを抜いて来たの」

「うんその代りあすこへは玉縁《たまぶち》をつけた目関垣《めせきがき》を拵《こしら》えたよ」

 近頃|身体《からだ》に暇ができて、自分の意匠《いしょう》通り住居《すまい》を新築したこの叔父の建築に関する単語は、いつの間にか急に殖《ふ》えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答《あしら》っているよりほかに仕方がなかった。

「食後の運動には好いわね。お腹《なか》が空《す》いて」

「笑談《じょうだん》じゃない、叔父さんはまだ午飯前《ひるめしまえ》なんだ」

 お延を引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住《すみ》、住」と大きな声で叔母を呼んだ。

「腹が減って仕方がない、早く飯にしてくれ」

「だから先刻《さっき》みんなといっしょに召上《めしや》がれば好いのに」

「ところが、そう勝手元の御都合のいいようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一|物《もの》に区切《くぎり》のあるという事をあなたは御承知ですか」

 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶《あいさつ》も相変らずであった。久しぶりで故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対《いっつい》の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経《た》たない、云わば新生活の門出《かどで》にある彼ら二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長《なが》の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、またはいくら永くいっしょに暮らしたところで、性格が違えば、互いの立場も末始終《すえしじゅう》まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。しかし未来の自分も、この叔母のように膏気《あぶらけ》が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横《よこた》わる必然の運命だとすれば、いつまでも現在の光沢《つや》を持ち続けて行こうとする彼女は、いつか一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしいところがなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真《しん》に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。

 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧《わ》いているとは夢にも気のつきようはずのない叔父は、自分の前に据《す》えられた膳《ぜん》に向って胡坐《あぐら》を掻《か》きながら、彼女を見た。

「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」

 お延はすぐ答えた。

「久しぶりにお給仕でもしましょう」

 飯櫃《おはち》があいにくそこにないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼びとめた。

「御給仕をしたくったって、麺麭《パン》だからできないよ」

 下女が皿の上に狐色に焦《こ》げたトーストを持って来た。

「お延、叔父さんは情《なさ》けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀想《かわいそう》だろう」

 糖尿病《とうにょうびょう》の叔父は既定の分量以外に澱粉質《でんぷんしつ》を摂取《せっしゅ》する事を主治医から厳禁されてしまったのである。

「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」

 叔父の膳にはとても一人では平らげ切れないほどの白い豆腐が生《なま》のままで供えられた。

 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情《なさけ》なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、かえって笑いたくなった。

「少しゃ断食でもした方がいいんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違ないから」

 叔父は叔母を顧《かえり》みた。

「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」


        六十一


 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、いろいろの角度で出没《しゅつぼつ》するこの叔父の特色を他人よりよく承知していた。

 肥った身体《からだ》に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室《へや》に入ったぎり、半日ぐらい黙って口を利《き》かずにいる癖がある代りに、他《ひと》の顔さえ見ると、また何かしらしゃべらないでは片時《かたとき》もいられないといった気作《きさく》な風があった。それが元気のやり場所に困るからというよりも、なるべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想《おも》いやりや、または客を前に置いて、ただのつそつとしている自分の手持無沙汰《てもちぶさた》を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心がけから来る一種の興味的中心があった。彼の成効《せいこう》に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上|極《きわ》めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天から稟《う》けた諧謔趣味《かいぎゃくしゅみ》のために、一層|派出《はで》な光彩を放つ事がしばしばあった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍《そば》にいたお延の口に、いつの間にか乗り移ってしまった。機嫌《きげん》のいい時に、彼を向うへ廻して軽口《かるくち》の吐《つ》き競《くら》をやるくらいは、今の彼女にとって何の努力も要《い》らない第二の天性のようなものであった。しかし津田に嫁《とつ》いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初|慎《つつし》みのために控えた悪口《わるくち》は、二カ月経っても、三カ月経ってもなかなか出て来なかった。彼女はついにこの点において、岡本にいた時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺《あざ》むいているような気がしてならなかった。たまに来て、もとに変らない叔父の様子を見ると、そこに昔《むか》しの自由を憶《おも》い出させる或物があった。彼女は生豆腐《なまどうふ》を前に、胡坐《あぐら》を掻《か》いている剽軽《ひょうきん》な彼の顔を、過去の記念のように懐《なつ》かし気に眺めた。

「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込《しこみ》じゃないの。津田に教わった覚《おぼえ》なんか、ありゃしないわ」

「ふん、そうでもあるめえ」

 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、いっさい家庭に入れてはならないもののごとくに忌《い》み嫌《きら》う叔母の方を見た。傍《はた》から注意するとなお面白がって使いたがる癖をよく知っているので、叔母は素知《そし》らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標《あて》が外《はず》れた人のように叔父はまたお延に向った。

「いったい由雄さんはそんなに厳格な人かね」

 お延は返事をしずに、ただにやにやしていた。

「ははあ、笑ってるところを見ると、やっぱり嬉しいんだな」

「何がよ」

「何がよって、そんなに白《しら》ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」

「どうだかあたしよく解らないわ。なぜまたそんな事を真面目《まじめ》くさってお訊《き》きになるの」

「少しこっちにも料簡《りょうけん》があるんだ、返答次第では」

「おお怖《こわ》い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」

「本当にかい」

「ええ。ずいぶん叔父さんも苦呶《くど》いのね」

「じゃこっちでも簡潔に結論を云っちまう。はたして由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。とうてい悪口の達者なお前には向かないね」

 こう云いながら叔父は、そこに黙って坐っている叔母の方を、頷《あご》でしゃくって見せた。

「この叔母さんなら、ちょうどお誂《あつ》らえ向《むき》かも知れないがね」

 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫《な》でた。彼女は急に悲しい気分に囚《とら》えられた自分を見て驚ろいた。

「叔父さんはいつでも気楽そうで結構ね」

 津田と自分とを、好過ぎるほど仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯半分《からかいはんぶん》の叔父の笑談《じょうだん》を、ただ座興から来た出鱈目《でたらめ》として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙《すき》があり過ぎた。と云って、その隙を飽《あ》くまで取《と》り繕《つく》ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由をもっていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜《た》まろうとしたところを、彼女は瞬《またた》きでごまかした。

「いくらお誂《あつ》らえ向《むき》でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」

 年の割にどこへ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢《つや》のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。


        六十二


 親身《しんみ》の叔母よりもかえって義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛《かわい》がられているという信念を常にもっていた。洒落《しゃらく》でありながら神経質に生れついた彼の気合《きあい》をよく呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分|違《たが》わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、いつでも年齢《とし》の若さから来る柔軟性が伴っていたので、ほとんど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、また自分に満足を与える事ができた。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作《しょさ》を眺めていてくれるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。

 いかにして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、どこへ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成効《せいこう》するに違ないと信じていた。津田といっしょになった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、なるほどという眼つきで眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟《こな》しつけるか、またはすでに出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、どっちかにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。しかし彼女の同情はむしろ叔父型の人間に注《そそ》がれた。こんな時に、叔父なら嬉《うれ》しがってくれるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一《ちくいち》叔父に話してしまえと命令した。その命令に背《そむ》くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気にはとてもなれなかった。

 こうして叔父夫婦を欺《あざ》むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の掛念《けねん》もなく彼女のために騙《だま》されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でもまた彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度ぐらいなある秘密をもっているという事をよく承知していた。有体《ありてい》に見透《みすか》した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼はけっして彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横《よこた》わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじきそこに気がついた。しかし彼女はまだその上に材料をもっていた。粗放のようで一面に緻密《ちみつ》な、無頓着《むとんじゃく》のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、すでに直観的に津田を嫌《きら》っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊《き》かれた裏側に、「じゃおれのようなものは嫌《きらい》だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。しかし「叔父さんの御意見は」とこっちから問い返した時の彼は、もうその気下味《きまず》い関《せき》を通り越していた。

「おいでよ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要《い》らないから」と親切に云ってくれた。

 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事ができたのである。

「あの男は日本中の女がみんな自分に惚《ほ》れなくっちゃならないような顔つきをしているじゃないか」

 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯《せいいっぱい》愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。また叔父の例の悪口《わるくち》が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬《しっと》から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚《おのぼれ》は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌《あいづち》を打ってくれた。……

 叔父の前に坐ったお延は自分の後《うしろ》にあるこんな過去を憶《おも》い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談《じょうだん》のうちに、何か真面目《まじめ》な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。

「おれの云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。しかし万一何かあるなら、また今ないにしたところで、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃいけないよ」

 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。


        六十三


 感傷的の気分を笑に紛《まぎ》らした彼女は、その苦痛から逃《のが》れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。

「昨日《きのう》の事は全体どういう意味なの」

 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与えるはずの叔父がかえって彼女に反問した。

「お前はどう思う」

 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣《めづか》いをして彼女をじっと見た。

「解らないわ。藪《やぶ》から棒にそんな事|訊《き》いたって。ねえ叔母さん」

 叔母はにやりと笑った。

「叔父さんはね、あたしのようなうっかりものには解らないが、お延にならきっと解る。あいつは貴様より気が利《き》いてるからっておっしゃるんだよ」

 お延は苦笑するよりほかに仕方なかった。彼女の頭には無論|朧気《おぼろげ》ながらある臆測《おくそく》があった。けれども強《し》いられないのに、悧巧《りこう》ぶってそれを口外するほど、彼女の教育は蓮葉《はすは》でなかった。

「あたしにだって解りっこないわ」

「まああてて御覧。たいてい見当《けんとう》はつくだろう」

 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の気色《けしき》を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。

「見合じゃなくって」

「どうして。――お前にはそう見えるかね」

 お延の推測を首肯《うけが》う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。しまいに彼は大きな声を出して笑った。

「あたった、あたった。やっぱりお前の方が住《すみ》より悧巧だね」

 こんな事で、二人の間《ま》に優劣をつける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評《ひやか》した。

「ねえ、叔母さんだってそのくらいの事ならたいてい見当がつくわね」

「お前も御賞《おほめ》にあずかったって、あんまり嬉《うれ》しくないだろう」

「ええちっともありがたかないわ」

 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋《あっせん》ぶりがまた描《えが》き出《いだ》された。

「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終《しじゅう》継子さんと、それからあの三好さんて方《かた》を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」

「ところがあのお継と来たら、また引き立たない事|夥《おびただ》しいんだからな。引き立てようとすれば、かえって引き下がるだけで、まるで紙袋《かんぶくろ》を被《かぶ》った猫見たいだね。そこへ行くと、お延のようなのはどうしても得《とく》だよ。少くとも当世向《とうせいむき》だ」

「厭《いや》にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞《ほ》められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのようなおとなしい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」

 こう答えたお延は、叔父のいわゆる当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、したがって自分から見ればむしろ不成効《ふせいこう》に終った、昨夕《ゆうべ》の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。

「何でまたあたしがあの席に必要だったの」

「お前は継子の従姉《いとこ》じゃないか」

 ただ親類だからというのが唯一《ゆいいつ》の理由だとすれば、お延のほかにも出席しなければならない人がまだたくさんあった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。

「何だか変じゃないの。そうするともし津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」

「それゃまた別口だ。ほかに意味があるんだ」

 叔父の目的中には、昨夕《ゆうべ》の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫婦に接近させてやろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切《はっきり》聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性《きしょう》がそこに現われているように思って、暗《あん》に彼の親切を感謝すると共に、そんならなぜあの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けてくれなかったのかと恨《うら》んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果はかえって近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。しかしその後《あと》から、吉川夫人と自分との間に横《よこた》わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟《ひっきょう》どうする事もできないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕《かんじょ》の念も起って来た。


        六十四


 お延はその問題をそこへ放《ほう》り出《だ》したまま、まだ自分の腑《ふ》に落ちずに残っている要点を片づけようとした。

「なるほどそういう意味|合《あい》だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだほかに何かあるんでしょう」

「あるかも知れないが、たといないにしたところで、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値《ねうち》は充分あるだろう」

「ええ、有るには有るわ」

 お延はこう答えなければならなかった。しかしそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物《いちもつ》を胸に蔵《しま》い込《こ》んでいた。

「実はお前にお婿さんの眼利《めきき》をして貰《もら》おうと思ったのさ。お前はよく人を見抜く力をもってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫としていいだろうか悪いだろうか」

 叔父の平生から推して、お延はどこまでが真面目《まじめ》な相談なのか、ちょっと判断に迷った。

「まあ大変な御役目を承《うけたま》わったのね。光栄の至りだ事」

 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑《おさ》えた。

「あたしのようなものが眼利《めきき》をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間ぐらいああしていっしょに坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」

「いやお前にはちょっと千里眼らしいところがあるよ。だから皆《みん》なが訊《き》きたがるんだよ」

「冷評《ひやか》しちゃ厭《いや》よ」

 お延はわざと叔父を相手にしないふりをした。しかし腹の中では自分に媚《こ》びる一種の快感を味わった。それは自分が実際|他《ひと》にそう思われているらしいという把捉《はそく》から来る得意にほかならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面《てきめん》の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後|今日《こんにち》に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点のできるように、思い違い疳違《かんちがい》の痕迹《こんせき》で、すでにそこここ汚《よご》れていた。畢竟《ひっきょう》夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、ようやく頭を下げかけていた彼女は、叔父に煽《あお》られてすぐ図に乗るほど若くもなかった。

「人間はよく交際《つきあ》って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」

「そのくらいな事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」

「だからよ。一度会ったぐらいで何にも云える訳がないっていうのよ」

「そりゃ男の云《い》い草《ぐさ》だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。またよく旨《うま》い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。なにもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」

「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」

 叔母はいつものようにお延に加勢《かせい》しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強《し》いる気色《けしき》を見せない代りに、叔父の悪強《わるじ》いもとめなかった。始めて嫁にやる可愛《かわい》い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打《ねうち》は充分あるといった風も見えた。お延は当《あた》り障《さわ》りのない事を一口二口云っておくよりほかに仕方がなかった。

「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ちついていらっしゃるのね。……」

 その後《あと》を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、また催促するように訊《き》いた。

「それっきりかね」

「だって、あたしあの方《かた》の一軒《いっけん》置いてお隣へ坐らせられて、ろくろくお顔も拝見しなかったんですもの」

「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言《ひとこと》で、ずばりと向うの急所へあたるような……」

「むずかしいのね。――何しろ一度ぐらいじゃ駄目よ」

「しかし一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」

「云えないわ」

「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」

「ええ、お嫁に行ってから、だんだん直覚が擦《す》り減《へ》らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって鈍覚《どんかく》だけよ」


        六十五


 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、また別の考えが絶えず並行して流れていた。

 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いてくれなかった叔父が、その後彼の好悪《こうお》を改めるはずがないという事もよく承知していた。だから睦《むつま》しそうな津田と自分とを、彼は始終《しじゅう》不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父はいつでも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損《みそく》なったのは、自分でなくて、かえってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳《ようえい》するために、彼の心に下層にいつも沈澱《ちんでん》しているらしかった。

「それだのに叔父はなぜ三好に対する自分の評を、こんなに執濃《しつこ》く聴こうとするのだろう」

 お延は解《げ》しかねた。すでに自分の夫を見損なったものとして、暗《あん》に叔父から目指《めざ》されているらしい彼女に、その自覚を差しおいて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女はしまいに黙ってしまった。しかし年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象にほかならなかった。彼はお延を措《お》いて叔母の方を向いた。

「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。だいぶ臆病になった。それもやっぱり旦那様《だんなさま》の感化かな。不思議なもんだな」

「あなたがあんまり苛《いじ》めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」

 叔母の態度は、叔父を窘《たしな》めるよりもむしろお延を庇護《かば》う方に傾いていた。しかしそれを嬉《うれ》しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、いっぱいになり過ぎていた。

「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つできまるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」

 お延は自分で自分の夫を択《えら》んだ当時の事を憶《おも》い起さない訳に行かなかった。津田を見出《みいだ》した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許《もと》に嫁《とつ》ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女はいつでも彼女の主人公であった。また責任者であった。自分の料簡《りょうけん》をよそにして、他人の考えなどを頼りたがった覚《おぼえ》はいまだかつてなかった。

「いったい継子さんは何とおっしゃるの」

「何とも云わないよ。あいつはお前よりなお臆病だからね」

「肝心《かんじん》の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」

「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」

「臆病じゃないのよ、おとなしいのよ」

「どっちにしたって仕方がない、何にも云わないんだから。あるいは何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」

 そういう二人が漫然として結びついた時に、夫婦らしい関係が、はたして両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横《よこた》わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理《ロジック》がすぐ彼女の頭に閃《ひら》めいた。「自分の結婚だって畢竟《ひっきょう》は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事のできなかった彼女は、一直線に自分の眼をつけた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。

「叔父さん」と呼びかけた彼女は、呆《あき》れたように細い眼を強く張って彼を見た。

「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」

「だってあたしが立ち合えばどうするの」

「とにかく継《つぎ》が是非そうしてくれっておれ達に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方をよっぽど悧巧《りこう》だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後からいろいろ云ってくれる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」

「じゃ最初からそうおっしゃれば、あたしだってその気で行くのに」

「ところがまたそれは厭《いや》だというんだ。是非黙っててくれというんだ」

「なぜでしょう」

 お延はちょっと叔母の方を向いた。「きまりが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮《さえぎ》った。

「なにきまりが悪いばかりじゃない。成心《せいしん》があっちゃ、好い批評ができないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」

 お延は初めて叔父に強《し》いられる意味を理解した。


        六十六


 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。こちらの利害を心にかけてくれるという点において、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基《もとづ》く牽引性《けんいんせい》以外に、年齢の相似から来る有利な接触面をもっていた。

 若い女の心を共通に動かすいろいろな問題の前に立って、興味に充《み》ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合における彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、もちろん継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女はよく承知していた。

 この小さい嘆美者には、お延のいうすべてを何でも真《ま》に受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寝起《ねおき》を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇《ふこ》の心から、柔軟性《じゅうなんせい》に富んだこの従妹《いとこ》を、いつの間にかそう育て上げてしまったのである。

「女は一目見て男を見抜かなければいけない」

 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女はまた充分それをやり終《おお》せるだけの活きた眼力《がんりき》を自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、羨《うらや》みから嘆賞に変って、しまいに崇拝の間際《まぎわ》まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、あたかも神秘の※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》のごとく、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとってついに永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。

 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身にもっていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食《は》み出《だ》している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。

 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫《ごう》も変らなかった。彼女は飽《あ》くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。どこまでも先見の明によって、天の幸福を享《う》ける事のできた少数の果報者として、継子の前に自分を標榜《ひょうぼう》していた。

 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍《おど》らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛《つら》いよりもむしろ快よくなかった。それは皆《み》んなが寄ってたかって、今まで糊塗《こと》して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。こっちの「我《が》」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。

「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれでたくさんだ」

 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩《たた》きつける事のできないものであった。もし叩きつけるとすれば、彼ら三人を無心に使嗾《しそう》して、自分に当擦《あてこす》りをやらせる天に向ってするよりほかに仕方がなかった。

 膳《ぜん》を引かせて、叔母の新らしく淹《い》れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交《こ》み入《い》った蟠《わだか》まりが蜿蜒《うねく》っていようと思うはずがなかった。造りたての平庭《ひらにわ》を見渡しながら、晴々《せいせい》した顔つきで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹《き》や石の配置について批評しあった。

「来年はあの松の横の所へ楓《かえで》を一本植えようと思うんだ。何だかここから見ると、あすこだけ穴が開《あ》いてるようでおかしいからね」

 お延は何の気なしに叔父の指《さ》している見当《けんとう》を見た。隣家《となり》と地続《じつづ》きになっている塀際《へいぎわ》の土をわざと高く盛り上げて、そこへ小さな孟宗藪《もうそうやぶ》をこんもり繁《しげ》らした根の辺《あたり》が、叔父のいう通り疎《まば》らに隙《す》いていた。先刻《さっき》から問題を変えよう変えようと思って、暗《あん》に機会を待っていた彼女は、すぐ気転を利《き》かした。

「本当ね。あすこを塞《ふさ》がないと、さもさも藪《やぶ》を拵《こしら》えましたって云うようで変ね」

 談話は彼女の予期した通りよその溝へ流れ込んだ。しかしそれが再びもとの道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。


        六十七


 それは叔父が先刻玄関先で鍬《くわ》を動かしていた出入《でいり》の植木屋に呼ばれて、ちょっと席を外《はず》した後《あと》、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。

 まだ学校から帰らない百合子《ゆりこ》や一《はじめ》の噂《うわさ》に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑《すべ》り込みつつあった。

「慾張屋《よくばりや》さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」

 叔母はわざわざ百合子の命《つ》けた渾名《あざな》で継子を呼んだ。お延はすぐその慾張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽《あ》くまで放恣《ほうし》なくせに、そこから一歩踏み出すと、急に謹慎の模型見たように竦《すく》んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠《かご》の中で、さも愉快らしく囀《さえず》る小鳥のようなもので、いったん戸を開けて外へ出されると、かえってどう飛んでいいか、どう鳴いていいか解らなくなるだけであった。

「今日は何のお稽古《けいこ》に行ったの」

 叔母は「あてて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させてくれた。しかしその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学だと聞いた時に、彼女はまた改めて従妹《いとこ》の多慾に驚ろかされた。そんなにいろいろなものに手を出していったい何にするつもりだろうという気さえした。

「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」

 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながらやはり今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前|殊勝《しゅしょう》らしい顔をしてなるほどと首肯《うなず》かなければならなかった。

 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それらを予想して結婚前に習っておこうという女の心がけは、未来の良人《りょうじん》に対する親切に違なかった。あるいは単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間としてまた細君としての大事な稽古《けいこ》がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善《よ》くするものではなかった。しかし女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦《まさつ》するには相違なかった。しかし怜悧《れいり》に研《と》ぎ澄《すま》すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭《かげ》でそれを今日《こんにち》に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。

「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足できるだろう」

 従妹《いとこ》のどこにも不平らしい素振《そぶり》さえ見せた事のない叔父叔母は、この点においてお延に不可解であった。強《し》いて解釈しようとすれば、彼らは姪《めい》と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うよりほかに仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然|口惜《くや》しくなった。そういう考えがまた時々|発作《ほっさ》のようにお延の胸を掴《つか》んだ。しかし城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それはいつでも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖《そで》を顔へあてて内部の赤面を隠しながら、やっぱり不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎《なぞ》のように不断から見つめていた。

「でも継子さんは仕合せね。あたし見たいに心配性《しんぱいしょう》でないから」

「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅《うち》にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」

「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」

「そりゃお前と継《つぎ》とは……」

 中途で止《や》めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追究する前に、お延ははっと思った。それは今まで気のつかなかった或物に、突然ぶつかったような動悸《どうき》がしたからである。

「昨日《きのう》の見合に引き出されたのは、容貌《ようぼう》の劣者として暗《あん》に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」

 お延の頭に石火《せっか》のようなこの暗示が閃《ひら》めいた時、彼女の意志も平常《へいぜい》より倍以上の力をもって彼女に逼《せま》った。彼女はついに自分を抑《おさ》えつけた。どんな色をも顔に現さなかった。

「継子さんは得《とく》な方《かた》ね。誰にでも好かれるんだから」

「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々《すきずき》だからね。あんな馬鹿でも……」

 叔父が縁側《えんがわ》へ上ったのと、叔母がこう云いかけたのとは、ほとんど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながらまた座敷へ入って来た。


        六十八


 すると今まで抑《おさ》えつけていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。飽《あ》くまで機嫌《きげん》の好い、飽くまで元気に充《み》ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延をとっさに刺戟《しげき》した。

「叔父さんもずいぶん人が悪いのね」

 彼女は藪《やぶ》から棒にこう云わなければならなかった。今日《こんにち》まで二人の間に何百遍《なんびゃっぺん》となく取り換わされたこの常套《じょうとう》な言葉を使ったお延の声は、いつもと違っていた。表情にも特殊なところがあった。けれども先刻《さっき》からお延の腹の中にどんな潮《うしお》の満干《みちひ》があったか、そこにまるで気のつかずにいた叔父は、平生の細心にも似ず、全く無邪気であった。

「そんなに人が悪うがすかな」

 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻煙草《きざみ》を雁首《がんくび》へ詰めた。

「おれの留守《るす》にまた叔母さんから何か聴《き》いたな」

 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。

「あなたの人の悪いぐらい今さら私から聴かないでもよく承知してるそうですよ」

「なるほどね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金がいくらあって、彼はそれを犢鼻褌《ふんどし》のミツへ挟《はさ》んでいるか、または胴巻《どうまき》へ入れて臍《へそ》の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、なかなか油断はできないよ」

 叔父の笑談《じょうだん》はけっして彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉《まゆ》と睫毛《まつげ》をいっしょに動かした。その睫毛の先には知らない間《ま》に涙がいっぱい溜《たま》った。勝手を違えた叔父の悪口《わるくち》もぱたりととまった。変な圧迫が一度に三人を抑えつけた。

「お延どうかしたのかい」

 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管《きせる》で灰吹《はいふき》を叩いた。叔母も何とかその場を取り繕《つく》ろわなければならなくなった。

「何だね小供らしい。このくらいな事で泣くものがありますか。いつもの笑談じゃないか」

 叔母の小言《こごと》は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶《あいさつ》とばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、どこから見ても公平なものであった。お延はそれをよく承知していた。けれども叔母の小言をもっともと思えば思うほど、彼女はなお泣きたくなった。彼女の唇《くちびる》が顫《ふる》えた。抑えきれない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰《せ》きとめていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。

「何もそんなにまでして、あたしを苛《いじ》めなくったって……」

 叔父は当惑そうな顔をした。

「苛めやしないよ。賞《ほ》めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆《みん》な蔭《かげ》で感心しているんだ。だから……」

「そんな事|承《うかが》わなくっても、もうたくさんです。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」

 沈黙がすこし続いた。

「何だかとんだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯《からか》い方《かた》が悪かったのかい」

「いいえ。皆《み》んなあたしが悪いんでしょう」

「そう皮肉を云っちゃいけない。どこが悪いか解らないから訊《き》くんだ」

「だから皆《みん》なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」

「だが訳を云わないからさ」

「訳なんかないんです」

「訳がなくって、ただ悲しいのかい」

 お延はなお泣き出した。叔母は苦々《にがにが》しい顔をした。

「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅《うち》にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしないくせに。お嫁に行きたてで、少し旦那《だんな》から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」

 お延は唇《くちびる》を噛《か》んで黙った。すべての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父はかえって気の毒そうな様子を見せた。

「そんなに叱ったってしようがないよ。おれが少し冷評《ひやか》し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。きっとそうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物をやる」

 ようやく発作《ほっさ》の去ったお延は、叔父からこんな風に小供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋《ばつ》の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。


        六十九


 ところへ何にも知らない継子《つぎこ》が、語学の稽古《けいこ》から帰って来て、ひょっくり顔を出した。

「ただいま」

 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出《みいだ》した人のように喜こんだ。そうしてほとんど同時に挨拶《あいさつ》を返した。

「お帰んなさい」

「遅かったのね。先刻《さっき》から待ってたのよ」

「いや大変なお待兼《まちかね》だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」

 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層|快豁《かいかつ》であった。

「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」

 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆《さかさ》まに投げておきながら、彼はかえって得意になっているらしかった。

 しかし下女が襖越《ふすまごし》に手を突いて、風呂の沸《わ》いた事を知らせに来た時、彼は急に思いついたように立ち上った。

「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」

 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。

 けれどもいったん背中を座敷の方へ向けた後でまたふり返った。

「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」

 こう云って二三間歩いたかと思うと彼はまた引き返して来た。お延は頭のよく働くその世話《せわ》しない様子を、いかにも彼の特色らしく感心して眺めた。

「お延が来たから晩に藤井でも呼んでやろうか」

 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前よりよほど叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉《うれ》しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるか余計に、彼女は彼らより離れていた。

「しかし来るかな」といった叔父の顔は、まさにお延の腹の中を物語っていた。

「近頃みんなおれの事を隠居隠居っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、とうていおれなどの及ぶところじゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」

「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」

 叔母は婉曲《えんきょく》に自己を表現した。

「おおかたいらっしゃらないでしょう」

「うん、なかなかおいそれとやって来そうもないね。じゃ止《よ》すか。――だがまあ試しにちょっと掛けてみるがいい」

 お延は笑い出した。

「掛けてみるったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」

「じゃ仕方がない。使でもやるんだ」

 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙《ごめんこうむ》ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。

 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧《かえり》みない叔母の態度は、お延にとって羨《うらや》ましいものであった。また忌《いま》わしいものであった。女らしくない厭《いや》なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああできたらさぞ好かろうという感じと、いくら年をとってもああはやりたくないという感じが、彼女の心にいつもの通り交錯《こうさく》した。

 立って行く叔母の後姿《うしろすがた》を彼女がぼんやり目送《もくそう》していると、一人残った継子が突然誘った。

「あたしのお部屋へ来なくって」

 二人は火鉢《ひばち》や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。


        七十


 継子の居間はとりも直さず津田に行く前のお延の居間であった。そこに机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井《てんじょう》にも残っていた。硝子戸《ガラスど》を篏《は》めた小さい棚《たな》の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇《ばら》の花を刺繍《ぬい》にした籃入《かごいり》のピンクッションもそのままであった。二人してお対《つい》に三越から買って来た唐草《からくさ》模様の染付《そめつけ》の一輪挿《いちりんざし》もそのままであった。

 四方を見廻したお延は、従妹《いとこ》と共に暮した処女時代の匂《におい》を至る所に嗅《か》いだ。甘い空想に充《み》ちたその匂が津田という対象を得てついに実現された時、忽然《こつぜん》鮮《あざ》やかな※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》に変化した自己の感情の前に抃舞《べんぶ》したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯《ガス》があったから、ぱっと火が点《つ》いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何らの差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧《かえり》みるとその時からもう半年《はんとし》以上経過していた。いつか空想はついに空想にとどまるらしく見え出して来た。どこまで行っても現実化されないものらしく思われた。あるいは極《きわ》めて現実化され悪《にく》いものらしくなって来た。お延の胸の中《うち》には微《かす》かな溜息《ためいき》さえ宿った。

「昔は淡い夢のように、しだいしだいに確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」

 彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐《すわ》っている従妹を見た。多分は自分と同じ径路を踏んで行かなければならない、またひょっとしたら自分よりもっと予期に外《はず》れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽《さい》が、畳の上に転がり次第、今明日中にでも、永久に片づけられてしまうのであった。

 お延は微笑した。

「継子さん、今日はあたしがお神籤《みくじ》を引いて上げましょうか」

「なんで?」

「何でもないのよ。ただよ」

「だってただじゃつまらないわ。何かきめなくっちゃ」

「そう。じゃきめましょう。何がいいでしょうね」

「何がいいか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたがきめて下さらなくっちゃ」

 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方からむやみに云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接にどこかでそこに触れて貰《もら》いたい様子がありありと見えた。お延は従妹《いとこ》を喜《よろ》こばせてやりたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭《いや》であった。

「じゃあたしが引くから、あなた自分でおきめなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。よくって」

 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼ら夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。

「厭よ」

 お延は手を引込めなかった。

「何が厭なの。いいからちょいとお貸しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」

 神籤《みくじ》に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯《たわむ》れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶《おも》い起させる良《い》い媒介《なかだち》であった。弱いものの虚《きょ》を衝《つ》くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活溌《かっぱつ》にした。抑えられた手を跳《は》ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱《みくじばこ》を継子の机の上から奪い取りたかった。もしくはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚《はばか》りなく出して、遊技的《ゆうぎてき》な戦いに興を添えた。二人はついに硯箱《すずりばこ》の前に飾ってある大事な一輪挿《いちりんざし》を引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》した。紫檀《したん》の台からころころと転がり出したその花瓶《かびん》は、中にある水を所嫌《ところきら》わず打《う》ち空《あ》けながら畳の上に落ちた。二人はようやく手を引いた。そうして自然の位置から不意に放《ほう》り出《だ》された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事のできない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。


        七十一


 偶然の出来事がお延をなお小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。

「継子さん早く雑巾《ぞうきん》を取っていらっしゃい」

「厭よ。あなたが零《こぼ》したんだから、あなた取っていらっしゃい」

 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。

「じゃジャン拳《けん》よ」と云い出したお延は、繊《ほそ》い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。

「狡猾《ずる》いわ」

「あなたこそ狡猾いわ」

 しまいにお延が負けた時には零《こぼ》れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗《きれい》に吸い込まれていた。彼女は落ちつき払って袂《たもと》から出した手巾《ハンケチ》で、濡《ぬ》れた所を上から抑《おさ》えつけた。

「雑巾なんか要《い》りゃしない。こうしておけば、それでたくさんよ。水はもう引いちまったんだから」

 彼女は転がった花瓶《はないけ》を元の位置に直して、摧《くだ》けかかった花を鄭寧《ていねい》にその中へ挿《さ》し込んだ。そうして今までの頓興《とんきょう》をまるで忘れた人のように澄まし返った。それがまたたまらなくおかしいと見えて、継子はいつまでも一人で笑っていた。

 発作《ほっさ》が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入《ちついり》の神籤《みくじ》を取り出して、傍《そば》にある本箱の抽斗《ひきだし》へしまい易《か》えた。しかもその上からぴちんと錠《じょう》を下《おろ》して、わざとお延の方を見た。

 けれども継子にとっていつまでも続く事のできるらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。ひとしきり我を忘れた彼女は、従妹《いとこ》より早く醒《さ》めてしまった。

「継子さんはいつでも気楽で好いわね」

 彼女はこう云って継子を見返した。当《あた》り障《さわ》りのない彼女の言葉はとても継子に通じなかった。

「じゃ延子さんは気楽でないの」

 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼《かね》ての不平も交っていた。

「あなたとあたしといったいどこが違うんでしょう」

 二人は年齢《とし》が違った。性質も違った。しかし気兼苦労という点にかけて二人のどこにどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。

「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話してちょうだいな」

「心配なんかないわ」

「そら御覧なさい。あなただってやっぱり気楽じゃないの」

「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」

「どうしてでしょう」

 お延は説明する訳に行かなかった。また説明する気になれなかった。

「今に解るわ」

「だけど延子さんとあたしとは三つ違よ、たった」

 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定《かんじょう》に入れていなかった。

「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様《だんなさま》を亡《な》くなして、未亡人《びぼうじん》になるとか」

 継子は少し怪訝《けげん》な顔をしてお延を見た。

「延子さんは宅《うち》にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、どっちが気楽なの」

「そりゃ……」

 お延は口籠《くちごも》った。継子は彼女に返答を拵《こしら》える余地を与えなかった。

「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」

 お延は仕方なしに答えた。

「そうばかりにも行かないわ。これで」

「だってあなたが御自分で望んでいらしった方じゃないの、津田さんは」

「ええ、だからあたし幸福よ」

「幸福でも気楽じゃないの」

「気楽な事も気楽よ」

「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」

「そう継子さんのように押しつめて来ちゃ敵《かな》わないわね」

「押しつめる気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」


        七十二


 だんだん勾配《こうばい》の急になって来た会話は、いつの間《ま》にか継子の結婚問題に滑《すべ》り込んで行った。なるべくそれを避けたかったお延には、今までの行きがかり上、またそれを避ける事のできない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言はともかくも、男女《なんにょ》関係に一日《いちじつ》の長ある年上の女として、相当の注意を与えてやりたい親切もないではなかった。彼女は差し障《さわ》りのない際《きわ》どい筋の上を婉曲《えんきょく》に渡って歩いた。

「そりゃ駄目《だめ》よ。津田の時は自分の事だから、自分によく解ったんだけれども、他《ひと》の事になるとまるで勝手が違って、ちっとも解らなくなるのよ」

「そんなに遠慮しないだってよかないの」

「遠慮じゃないのよ」

「じゃ冷淡なの」

 お延は答える前にしばらく間《ま》をおいた。

「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めてよく働らく事ができるのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄《てがら》をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯《しょうがい》にそうたんとありゃしないわ。ことによると生涯に一返《いっぺん》も来ないですんでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目《めくら》同然よ。少なくとも平生は」

「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんならなぜそれをあたしの場合に使って下さらなかったの」

「使わないんじゃない、使えないのよ」

「だって岡目八目《おかめはちもく》って云うじゃありませんか。傍《はた》にいるあなたには、あたしより余計公平に分るはずだわ」

「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命をきめてしまう気なの」

「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」

 お延はまたしばらく黙っていた。それから少し前よりは改《あらたま》った態度で口を利《き》き出した。

「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」

「ええ」

「なぜあたしが幸福だかあなた知ってて」

 お延はそこで句切《くぎり》をおいた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継《つ》ぎ足《た》した。

「あたしが幸福なのは、ほかに何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択《えら》ぶ事ができたからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」

 継子は心細そうな顔をした。

「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」

 お延は何とか云わなければならなかった。しかしすぐは何とも云えなかった。しまいに突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸《ほとば》しり出した。

「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込はいくらでもあるのよ」

 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話しかけながら、ほとんど三好《みよし》の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真《ま》ともにお延の調子を受けるほど感激しなかった。

「誰を」と云った彼女は少し呆《あき》れたようにお延の顔を見た。「昨夕《ゆうべ》お目にかかったあの方《かた》の事?」

「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」

 平生|包《つつ》み蔵《かく》しているお延の利かない気性《きしょう》が、しだいに鋒鋩《ほうぼう》を露《あら》わして来た。おとなしい継子はそのたびに少しずつ後《あと》へ退《さが》った。しまいに近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微《かす》かな溜息《ためいき》さえ吐《つ》いた。するとお延が忽然《こつぜん》また調子を張り上げた。

「あなたあたしの云う事を疑《うたぐ》っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘《うそ》なんか吐《つ》いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」

 こう云って絶対に継子を首肯《うけが》わせた彼女は、後からまた独《ひと》り言《ごと》のように付け足した。

「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにしたところで、その人の料簡《りょうけん》一つで、未来は幸福になれるのよ。きっとなれるのよ。きっとなって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」

 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然《ばくぜん》と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。しかしいくら考えてもその意味はほとんど解らなかった。


        七十三


 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主《ぬし》ががらりと室《へや》の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「ただいま」と云って姉に挨拶《あいさつ》した。

 彼女の机を据《す》えた場所は、ちょうどもとお延の坐っていた右手の隅《すみ》であった。お延が津田へ片づくや否や、すぐその後《あと》へ入る事のできた彼女は、従姉《いとこ》のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合《こうつごう》のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉をかけた。

「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。よくって」

 百合子は「よくいらっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開《あ》きそうになった黒い靴足袋《くつたび》の親指の先を、手で撫《な》でていたが、足を畳の上へおろすと共に答えた。

「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」

「まあひどい事」と云って笑ったお延は、少し間《ま》をおいてから、また彼女を相手にした。

「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相《かわいそう》だと思って下さるでしょう」

「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」

「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって」

「そうね」

 百合子は少し考える様子をした。

「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」

「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」

「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」

 こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃《そろ》えて笑った。そうして袴《はかま》も脱がずに、火鉢《ひばち》の傍《そば》へ来てその間に坐《すわ》りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子《もちがし》を食べ出した。

「今頃お八《や》ツ? このお皿を見ると思い出すのね」

 お延は自分が百合子ぐらいであった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自《めいめい》の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。旨《うま》そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。

「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」

「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫《おっくう》だし、そうかって宅《うち》に何かあっても、昔《むか》しのように旨《おい》しくないのね、もう」

「運動が足りないからでしょう」

 二人が話しているうちに、百合子は綺麗《きれい》に木皿を空《から》にした。そうして木に竹を接《つ》いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。

「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」

「そう、どこへいらっしゃるの」

「どこだか知らないけれども行く事は行くのよ」

「じゃ何という方の所へいらっしゃるの」

「何という名だか知らないけれども、行くのよ」

 お延は根気よく三度目の問を掛けた。

「それはどんな方なの」

 百合子は平気で答えた。

「おおかた由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」

 薄赤くなった継子は急に妹《いもと》の方へかかって行った。百合子は頓興《とんきょう》な声を出してすぐそこを飛《と》び退《の》いた。

「おお大変大変」

 入口の所でちょっと立ちどまってこう云った彼女は、お延と継子をそこへ残したまま、一人で室《へや》を逃げ出して行った。


        七十四


 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間《ま》もなくであった。

 一家のものは明るい室に晴々《はればれ》した顔を揃《そろ》えた。先刻《さっき》何かに拗《す》ねて縁の下へ這入《はい》ったなり容易に出て来なかったという一《はじめ》さえ、機嫌《きげん》よく叔父と話をしていた。

「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹《いとこ》から、彼がぱくりと口を開《あ》いて上から鼻の先へ出された餅菓子《もちがし》に食いついたという話を聞いたのであった。

 お延は微笑しながらいわゆる犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。

「お父さま彗星《ほうきぼし》が出ると何か悪い事があるんでしょう」

「うん昔の人はそう思っていた。しかし今は学問が開《ひら》けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」

「西洋では」

 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。

「西洋? 西洋にゃ昔からない」

「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」

「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、ごまかすよりほかに仕方がないらしかった。

「ありゃ羅馬《ローマ》の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」

 一《はじめ》はそれで納得《なっとく》して黙った。しかしすぐ第二の質問をかけた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を掘って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落《おっ》こちなければならない。しかるに地面はなぜ落こちないか。これが彼の要旨《ようし》であった。それに対する叔父の答弁がまたすこぶるしどろもどろなので、傍《はた》のものはみんなおかしがった。

「そりゃお前落ちないさ」

「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」

「そう旨《うま》くは行かないよ」

 女連《おんなれん》が一度に笑い出すと、一はたちまち第三の問題に飛び移った。

「お父さま、僕この宅《うち》が軍艦だと好いな。お父さまは?」

「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」

「だって地震の時宅なら潰《つぶ》れるじゃないの」

「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。なるほどこいつは気がつかなかった。ふうん、なるほど」

 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻《さっき》藤井を晩餐《ばんさん》に招待するといった彼は、もうその事を念頭においていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊《き》いて見たくなった。

「一さん藤井の真事《まこと》さんと同級なんでしょう」

「ああ」と云った一は、すぐ真事についてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、とうてい子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑《にぎ》わった。

 みんなを笑わせた真事の逸話の中《うち》に、下《しも》のようなのがあった。

 ある時学校の帰りに、彼は一といっしょに大きな深い穴を覗《のぞ》き込んだ。土木工事のために深く掘り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円やると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢《はいのう》を背負《しょ》って、尨犬《むくいぬ》の皮で拵《こしら》えたといわれる例の靴を穿《は》いたまま、「きっとくれる?」と云いながら、ほとんど平たい幅をもっていない、つるつる滑《すべ》りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩一歩と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖《こわ》くなった。彼は深い穴の真上にある友達をそこへ置《お》き去《ざ》りにして、どんどん逃げだした。真事はまた始終《しじゅう》足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一がどこへ行ったか全く知らずにいた。ようやく冒険を仕遂《しと》げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手はいつの間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなかったというのである。

「一の方が少し小悧巧《こりこう》のようだな」と叔父が評した。

「藤井さんは近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。


        七十五


 小供が一つ学校の同級にいる事のほかに、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否《いや》でも顔を合せなければならない祝儀《しゅうぎ》不祝儀《ぶしゅうぎ》の席を未来に控えている彼らは、事情の許す限り、双方から接近しておく便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才《じょさい》なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面《おうだんめん》もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向《くらしむき》に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大|不遜《ふそん》の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地についた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚なところを、自分の趣味に適《かな》う模細工《モザイック》で毎日|埋《う》めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物にだんだん接近して見ようという意志ももっていた。

 これらの原因が困絡《こんがら》がって、叔父は時々藤井の宅《うち》へ自分の方から出かけて行く事があった。排外的に見える藤井は、律義《りちぎ》に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭《いや》がる様子も見せなかった。彼らはむしろ快よく談じた。底《そこ》まで打ち解けた話はできないにしたところで、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界はまた妙に食い違っていた。一方から見るといかにも迂濶《うかつ》なものが、他方から眺めるといかにも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりするところに、思わざる発見がひょいひょい出て来た。

「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。しかしあれじゃ仕事はできない」

 お延は批評家という意味をよく理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他《ひと》をごまかすんだろうと思った。「仕事ができなくって、ただ理窟《りくつ》を弄《もてあそ》んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事のできなかった彼女は微笑しながら訊《き》いた。

「近頃藤井さんへいらしって」

「うんこないだもちょっと散歩の帰りに寄ったよ。草臥《くたび》れた時、休むにはちょうど都合の好い所にある宅だからね、あすこは」

「また何か面白いお話しでもあって」

「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。こないだは、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんにやって来た」

「あら厭《いや》だ」

「馬鹿らしい、好い年をして」

 お延と叔母はこもごも呆《あき》れたような言葉を出す間に、継子だけはよそを向いた。

「いや妙な事があるんだよ。大将なかなか調べているから感心だ。大将のいうところによると、こうなんだ。どこの宅《うち》でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、なるほどそう云えば、そうだね」

 親身《しんみ》の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目《まじめ》になった。

「それでどうしたの」

「それでこうなんだ。男と女は始終《しじゅう》引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足なところがどこかにあって、一人じゃそれをどうしても充《み》たす訳に行かないんだ」

 お延の興味は急に退《ひ》きかけた。叔父の云う事は、自分の疾《と》うに知っている事実に過ぎなかった。

「昔から陰陽和合《いんようわごう》っていうじゃありませんか」

「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」

「どうして」

「いいかい。男と女が引張り合うのは、互に違ったところがあるからだろう。今云った通り」

「ええ」

「じゃその違ったところは、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」

「ええ」

「それ御覧。自分と別物なら、どうしたっていっしょになれっこないじゃないか。いつまで経ったって、離れているよりほかに仕方がないじゃないか」

 叔父はお延を征服した人のようにからからと笑った。お延は負けなかった。

「だけどそりゃ理窟《りくつ》よ」

「無論理窟さ。どこへ出ても立派に通る理窟さ」

「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。ちょうど藤井の叔父さんがふり廻しそうな屁理窟《へりくつ》よ」

 お延は叔父をやり込める事ができなかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。またどうあっても信ずるのは厭《いや》であった。


        七十六


 叔父は面白半分まだいろいろな事を云った。

 男が女を得て成仏《じょうぶつ》する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度《ひとたび》夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪《にく》くなる。今までの牽引力《けんいんりょく》がたちまち反撥性《はんぱつせい》に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺《ことわざ》を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙《あ》げるのは、やがて来《きた》るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……

 叔父の言葉のどこまでが藤井の受売《うけうり》で、どこからが自分の考えなのか、またその考えのどこまでが真面目《まじめ》で、どこからが笑談《じょうだん》なのか、お延にはよく分らなかった。筆を持つ術《すべ》を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。ちょっとした心棒《しんぼう》があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事のできる人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればするほど、膏《あぶら》が乗ってとめどなく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。

「ずいぶんのべつね、叔父さんも」

「口じゃとても敵《かな》いっこないからお止《よ》しよ。こっちで何かいうと、なお意地になるんだから」

「ええ、わざわざ陰陽不和を醸《かも》すように仕向けるのね」

 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切《とぎ》れるのを待って、徐《おもむ》ろに宣告を下した。

「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜《よろ》しい。敗《ま》けたものを追窮《ついきゅう》はしないから。――そこへ行くと男にはまた弱いものを憐《あわ》れむという美点があるんだからな、こう見えても」

 彼はさも勝利者らしい顔を粧《よそお》って立ち上がった。障子《しょうじ》を開けて室《へや》の外へ出ると、もったいぶった足音が書斎の方に向いてだんだん遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。

「おいお延好いものを持って来た。お前|明日《あした》にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッておやり」

「何よ」

 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の標題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾《ひろ》い読《よみ》にぽつぽつ読み下した。ブック・オフ・ジョークス。イングリッシ・ウィット・エンド・ヒュモア。……

「へええ」

「みんな滑稽《こっけい》なもんだ。洒落《しゃれ》だとか、謎《なぞ》だとかね。寝ていて読むにはちょうど手頃で好いよ、肩が凝《こ》らなくってね」

「なるほど叔父さん向《むき》のものね」

「叔父さん向でもこのくらいな程度なら差支《さしつか》えあるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」

「怒るなんて、……」

「まあいいや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッてみるさ」

 お延が礼を云って書物を膝《ひざ》の上に置くと、叔父はまた片々《かたかた》の手に持った小さい紙片《かみぎれ》を彼女の前に出した。

「これは先刻《さっき》お前を泣かした賠償金《ばいしょうきん》だ。約束だからついでに持っておいで」

 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれをふり廻した。

「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利《き》く薬だよ。たいていの場合には一服呑むとすぐ平癒《へいゆ》する妙薬だ」

 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。

「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」

「和合ならなお結構だ。和合の時に呑めば、精神がますます健全になる。そうして身体《からだ》はいよいよ強壮になる。どっちへ転んでも間違のない妙薬だよ」

 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見つめていたお延の眼に涙がいっぱい溜《たま》った。


        七十七


 お延は叔父の送らせるという俥《くるま》を断った。しかし停留所まで自身で送ってやるという彼の好意を断りかねた。二人はついに連れ立って長い坂を河縁《かわべり》の方へ下りて行った。

「叔父さんの病気には運動が一番いいんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」

 肥っていて呼息《いき》が短いので、坂を上《のぼ》るときおかしいほど苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。

 二人は途々夜の更《ふ》けた昨夕《ゆうべ》の話をした。仮寝《うたたね》をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家《うち》にいたという縁故で、新夫婦|二人《ふたり》ぎりの家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。

「ありゃ叔母さんがよく知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守《るす》なんぞさせるには持って来いだって受合ったくらいだからね。だが独《ひと》りで寝ちまっちゃ困るね、不用心で。もっともまだ年歯《とし》が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」

 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寝込まれる訳のものでないという事をよく承知していたお延は、叔父のこの想《おも》いやりをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日《きのう》の結果を、今度は繰《く》り返《かえ》させたくないという主意からであった。

 彼女は急いでそこへ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛《かろ》うじて別れの挨拶《あいさつ》を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。

 車内のお延は別に纏《まと》まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日《きのう》からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。しかし彼女はそうして目眩《めまぐる》しい影像《イメジ》を一貫している或物を心のうちに認めた。もしくはその或物が根調《こんちょう》で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定《ねんてい》しなければならなかった。しかし彼女の努力は容易に成効《せいこう》をもって酬いられなかった。団子を認めた彼女は、ついに個々を貫いている串《くし》を見定める事のできないうちに電車を下りてしまった。

 玄関の格子《こうし》を開ける音と共に、台所の方から駈《か》け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧《ていねい》な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切《はっきり》した態度を、さも自分の手柄《てがら》ででもあるように感じた。

「今日は早かったでしょう」

 下女はそれほど早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延はまた譲歩した。

「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」

 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊《き》いた。

「あたしのいない留守に何にも用はなかったろうね」

 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。

「誰も来《き》やしなかったろうね」

 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高《ちょうしだか》な返事をした。

「あ、いらっしゃいました。あの小林さんとおっしゃる方が」

 夫の知人としての小林の名はお延の耳に始めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利《き》いた記憶があった。しかし彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫からはなはだ軽く見られているという事もよく呑み込んでいた。

「何しに来たんだろう」

 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。

「何か御用でもおありだったの」

「ええあの外套《がいとう》を取りにいらっしゃいました」

 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。

「外套? 誰の外套?」

 周密なお延はいろいろな問をお時にかけて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊《き》けば訊くほど、お時が答えれば答えるほど、二人は迷宮に入るだけであった。しまいに自分達より小林の方が変だという事に気のついた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生《よみが》えった。「小林とノンセンス」こう結びつけて考えると、お延はたまらなくおかしくなった。発作《ほっさ》のように込《こ》み上《あ》げてくる滑稽感《こっけいかん》に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中《うち》から持ち越して帰って来た、気がかりな宿題を、しばらく忘れていた。


        七十八


 お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛《あ》てて手紙を書いた。一昨日《おととい》も昨日《きのう》も書きかけて止《や》めにしたその音信《たより》を、今日は是非《ぜひ》とも片づけてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、けっして両親の事ばかり働いているのではなかった。

 彼女は落ちつけなかった。不安から逃《のが》れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻《さっき》からの疑問を解決したいという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏《まと》めて見る事ができそうに思えたのである。

 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶《あいさつ》から始めて、無沙汰《ぶさた》の申し訳までを器械的に書き了《おわ》った後で、しばらく考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的《まと》におかなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘もまた生家《せいか》の父母《ふぼ》に知らせなくってはすまない事項であった。それを差し措《お》いて里へ手紙をやる必要はほとんどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄《あいだがら》は、はたしてどんなところにどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女はありのままその物を父母《ふぼ》に報知する必要に逼《せま》られてはいなかった。けれどもある男に嫁《とつ》いだ一個の妻として、それを見極《みきわ》めておく要求を痛切に感じた。彼女はじっと考え込んだ。筆はそこでとまったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればするほど、確《しか》としたところは手に掴《つか》めなかった。

 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、ようやく一つ所に落ちついた。そうしてまた一つ所に落ちついた不安に悩まされ始めた。先刻《さっき》電車の中で、ちらちら眼先につき出したいろいろの影像《イメジ》は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根《おおね》に辿《たど》りついた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。

「今日《こんにち》解決ができなければ、明日《みょうにち》解決するよりほかに仕方がない。明日解決ができなければ明後日《みょうごにち》解決するよりほかに仕方がない。明後日解決ができなければ……」

 これが彼女の論法《ロジック》であった。また希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女はすでに継子の前で公言していたのである。

「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽《あ》くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければやまない」

 彼女はここまで行く事を改めて心に誓った。ここまで行って落ちつく事を自分の意志に命令した。

 彼女の気分は少し軽《かろ》くなった。彼女は再び筆を動かした。なるべく父母《ふぼ》の喜こびそうな津田と自分の現況を憚《はばか》りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣《おもむき》が、それからそれへと描出《びょうしゅつ》された。感激に充《み》ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。

 しまいに筆を擱《お》いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削《てんさく》の必要をどこにも認めなかった。日頃苦にして、使う時にはきっと言海《げんかい》を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕《つくろ》っただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。

「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘《うそ》や、気休《きやすめ》や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎《にく》みます、軽蔑《けいべつ》します、唾《つばき》を吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部《うわかわ》の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方を欺《あざ》むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙《あざむき》の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目《めくら》です。その人こそ嘘吐《うそつき》です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」

 お延は封書を枕元へ置いて寝た。


        七十九


 始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久しぶりに父母《ちちはは》の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日《にさんち》して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙《いっちつ》の唐本《とうほん》を持って、彼女は五六町|隔《へだた》った津田の宅《うち》まで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立《ついたて》が立ててあった。白い紙の上に躍《おど》っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後《うしろ》から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家《うち》へ来ていた由雄であった。

 二人は固《もと》よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂《うわさ》で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。事のついでに過ぎなかった。

 由雄はその時お延から帙入《ちついり》の唐本《とうほん》を受取って、なぜだか、明詩別裁《みんしべっさい》という厳《いか》めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作《しょさ》に違なかった。顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄がまた呼びとめて、自分の父|宛《あて》の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹《ひ》いた。彼の遣口《やりくち》は不作法《ぶさほう》であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野《がさつ》とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。

 手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用《いりよう》の書物を探しに奥へ這入《はい》った。しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空《むな》しく引きとめておいた詫《わび》を述べた。指定《してい》の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分がまた明日《あした》にでも取りに来るからと約束して宅《うち》へ帰った。

 するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。偶然にもお延がその取次に出た。二人はまた顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提《さ》げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗《さらさ》の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠《とりかご》でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。

 彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には堪《た》えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでもこちらから借りに行った呉梅村詩《ごばいそんし》という四文字《よもじ》を的《あて》に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……

 お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼は今の彼と別人《べつにん》ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方に牽《ひ》きつけられるように変って来た。いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。彼女はその疑《うたがい》を拭《ぬぐ》い去るために、その事実を引《ひ》ッ繰《く》り返さなければならなかった。


        八十


 強い意志がお延の身体《からだ》全体に充《み》ち渡った。朝になって眼を覚《さ》ました時の彼女には、怯懦《きょうだ》ほど自分に縁の遠いものはなかった。寝起《ねおき》の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳《は》ね退《の》けて、床を離れる途端《とたん》に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒《あささむ》の刺戟《しげき》と共に、締《し》まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。

 彼女は自分の手で雨戸を手繰《たぐ》った。戸外《そと》の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。昨日《きのう》に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉《うれ》しかった。怠《なま》けて寝過した昨日の償《つぐな》い、それも満足の一つであった。

 彼女は自分で床を上げて座敷を掃《は》き出した後で鏡台に向った。そうして結《ゆ》ってから四日目になる髪を解《と》いた。油で汚《よご》れた所へ二三度|櫛《くし》を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂《ひさし》に束《つか》ね上《あ》げた。それが済んでから始めて下女を起した。

 食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳《ぜん》に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。

「今日は旦那様《だんなさま》のお見舞に行かなければならないからね」

「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」

「ええ。昨日《きのう》行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」

 お延の言葉遣《ことばづかい》は平生より鄭寧《ていねい》で片づいていた。そこに或落ちつきがあった。そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。

 それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。襷《たすき》を外《はず》して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚《おぼえ》のあるその家族は、お時にとっても、興味に充《み》ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物《のけもの》にされたような変な結果に陥《おちい》るからであった。ふとした拍子からそんな気下味《きまず》い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴《ふいちょう》したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨《むね》を言い含めておいたのである。

「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」

「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」

「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」

「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急《せっかち》だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好《きりょうよ》しだしね」

 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞《せじ》を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後《あと》をつけた。

「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧《りこう》でも、気が利《き》いていても、顔が悪いと男には嫌《きら》われるだけね」

「そんな事はございません」

 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。

「本当よ。男はそんなものなのよ」

「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」

 お延は答えなかった。しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。

「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」

 お時は呆《あき》れた顔をしてお延を見た。

「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」

 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。

 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外《そと》から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴《ベル》が鳴った。取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主《ぬし》を判断しようとして首を傾けた。


        八十一


 袖《そで》を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈《か》け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただおかしさを噛《か》み殺そうとして、お延の前で悶《もだ》え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。

 この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。厚い帯を締《し》めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取《かけとり》でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。姿見《すがたみ》の前に立《た》ち竦《すく》んだ彼女は当惑の眉《まゆ》を寄せた。仕方がないので、今|出《で》がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。しかし会って見ると、満更《まんざら》知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。その上小林は斟酌《しんしゃく》だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引《ひけ》を取らないように、天から生みつけられた男であった。お延の時間が逼《せま》っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支《さしつか》えないものと独《ひと》りで合点《がてん》しているらしかった。

 彼は津田の病気をよく知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼はまた探偵に跟《つ》けられた話をした。それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。おおかた社会主義者として目指《めざ》されているのだろうという説明までして聴かせた。

 彼の談話には気の弱い女に衝撃《ショック》を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々《こわごわ》ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途《みち》がなくなった。彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。それは昨夕《ゆうべ》お延とお時をさんざ笑わせた外套《がいとう》の件にほかならなかった。

「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」

 彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体《からだ》に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。

 お延はすぐ入用《いりよう》の品を箪笥《たんす》の底から出してやろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。

「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡《ためら》った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性《きしょう》をよく知っていた。着古した外套《がいとう》一つが本《もと》で、他日細君の手落呼《ておちよば》わりなどをされた日には耐《たま》らないと思った。

「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違《ちがい》ないんだから。嘘《うそ》なんか吐《つ》きやしませんよ」

 出してやらないと小林を嘘吐《うそつき》としてしまうようなものであった。

「いくら酔払っていたって気は確《たしか》なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」

 お延はとうとう決心した。

「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」

「奥さんは実に几帳面《きちょうめん》ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗《あん》に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。

「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」

 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。

 お時が自働電話へ駈《か》けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋《つな》いだ。ところがその談話は突然な閃《ひら》めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍《おど》らせた。


        八十二


「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」

 お時が出て行くや否や、小林は藪《やぶ》から棒《ぼう》にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当《あた》らず障《さわ》らずの返事をしておくに限ると思った。

「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」

「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」

 小林の云い方があまり大袈裟《おおげさ》なので、お延はかえって相手を冷評《ひやか》し返してやりたくなった。しかし彼女の気位《きぐらい》がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮《こりょ》する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛《とっぴ》にここかしこを駈《か》け回《めぐ》る代りに、時としては不作法《ぶさほう》なくらい一直線に進んだ。

「やッぱり細君の力には敵《かな》いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」

 お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。彼女は笑い出した。

「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当《けんとう》のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」

「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」

「独《ひと》りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」

「参考になりますよ」

 お延は細い眼のうちに、賢《かし》こそうな光りを見せた。

「それよりあなた御自分で奥さんをお貰《もら》いになるのが、一番|捷径《ちかみち》じゃありませんか」

 小林は頭を掻《か》く真似《まね》をした。

「貰いたくっても貰えないんです」

「なぜ」

「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」

「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」

 お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。しかし相手は平気であった。もっと強くて烈《はげ》しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。

「いくら女が余っていても、これから駈《か》け落《おち》をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」

 駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人《なんにょふたり》の道行《みちゆき》をお延に想《おも》い起させた。そうした濃厚な恋愛を象《かた》どる艶《なま》めかしい歌舞伎姿《かぶきすがた》を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他《ひと》の着古した外套《がいとう》を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。

「駈落《かけおち》をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」

「誰とです」

「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴《つ》れていらっしゃる方はないじゃありませんか」

「へえ」

 小林はこう云ったなり畏《かしこ》まった。その態度が全くお延の予期に外《はず》れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうしてかえって予期以上おかしくなった。けれども小林は真面目《まじめ》であった。しばらく間《ま》をおいてから独《ひと》り言《ごと》のような口調で、彼は妙なことを云い出した。

「僕だって朝鮮|三界《さんがい》まで駈落のお供をしてくれるような、実《じつ》のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」

 お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌《こ》なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。

「奥さん、僕にはたった一人の妹《いもと》があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴《つ》れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」

 お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃《のが》れようと試みた。彼女はすぐ成功した。しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥《おちい》った。


        八十三


 特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。

「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」

 小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊《き》き返して来た。

「何がです、今僕の云った事がですか」

「いいえ、そんな事じゃないの」

 お延は巧みに相手を岐路《わきみち》に誘い込んだ。

「あなた先刻《さっき》おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」

 小林は元へ戻らなければならなかった。

「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」

「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」

「ええ変りましたね」

 お延は腑《ふ》に落《お》ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠《しょうこ》でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終《しじゅう》薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終《つい》に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯《からか》われる自分じゃないという態度を見せたのである。

「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」

 今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。お延はたしかにそこに気がついていた。けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田といっしょになってから、朧気《おぼろげ》ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調《しきちょう》の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部《そと》から覗《のぞ》いてもとうてい判《わか》りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐《ごうり》の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林ごときものに知れよう。

「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」

 小林は大きな声を出して笑った。

「奥さんはなかなか空惚《そらッとぼ》ける事が上手だから、僕なんざあとても敵《かな》わない」

「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」

「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨《うま》いお手際《てぎわ》をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」

 お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩《うる》さい顔もしなかった。愛嬌《あいきょう》を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。

「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」

「何を」

 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。誘《おび》き出《だ》されると知りながら、彼女はついこういって訊《き》き返さなければならなかった。

「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」

 小林の言葉は露骨過ぎた。しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露《ひろう》するらしかった。お延はつんとして答えた。

「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」

「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」

「ありがとう」

 お延はさも軽蔑《けいべつ》した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々《にがにが》しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥《なだ》めるような口調で云った。

「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」

「わたくしは結婚前から津田を知っております」

「しかしその前は御存じないでしょう」

「当り前ですわ」

「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」

 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯《さかのぼ》って行った。


        八十四


 自分のまだ知らない夫の領分に這入《はい》り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。云っても肝心《かんじん》のところはわざと略してしまった。例《たと》えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深《よふか》しをしていたかの点になると、彼は故意に暈《ぼか》しさって、全く語らないという風を示した。それを訊《き》けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥《じら》しているのではなかろうかという気さえ起した。

 お延は平生から小林を軽く見ていた。半《なか》ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑《ぶべつ》の裏には、まだ他《ひと》に向って公言しない大きな因子《ファクトー》があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点にほかならなかった。売れもしない雑誌の編輯《へんしゅう》、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。彼女の見た小林は、常に無籍《むせき》もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴《ぐち》を零《こぼ》して、厭《いや》がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。

 しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物《つきもの》であった。ことにそういう階級に馴《な》らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。しかし岡本の宅《うち》へ出入《ではい》りをするそれらの人々は、みんなその分を弁《わきま》えていた。身分には段等《だんとう》があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体《あくたい》を吐《つ》くものにはけっして会った事がなかった。

 お延は突然気がついた。

「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦《す》れッ枯《か》らしじゃなかろうか」

 軽蔑《けいべつ》の裏に潜《ひそ》んでいる不気味な方面が強く頭を持上《もちや》げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠《しょうこ》にか、またはそれに全くの無頓着《むとんじゃく》でか、アははと笑い出した。

「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」

「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度《いちど》きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」

「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉《も》ませて、歇斯的里《ヒステリ》でも起されると、後《あと》でまた僕の責任だなんて、津田君に恨《うら》まれるだけだから」

 お延は後《うしろ》を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当《けんとう》に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾《と》うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。

「どうしたんでしょう」

「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児《まいご》になる気遣《きづかい》はないから大丈夫です」

 小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹《い》れ代《か》えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮《さえ》ぎった。

「奥さん、時間があるなら、退屈凌《たいくつしの》ぎに幾らでも先刻《さっき》の続きを話しますよ。しゃべって潰《つぶ》すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰《ごくつぶ》しにゃ、同《おん》なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」

「あるかも知れませんね」

「ああ見えてなかなか淡泊《たんぱく》でないからね」

 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯《うけが》わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法《ぶさほう》な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。

「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」

「あっても宜《よろ》しいじゃございませんか」

「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」

「あっても構いません」

「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」

「ええ、構いません」


        八十五


 小林の顔には皮肉の渦《うず》が漲《みなぎ》った。進んでも退《しりぞ》いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振《そぶり》さえ示した。

「何という陋劣《ろうれつ》な男だろう」

 お延は腹の中でこう思った。そうしてしばらくの間じっと彼と睨《にら》めっ競《くら》をしていた。すると小林の方からまた口を利《き》き出した。

「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴《き》かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私《わたし》の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」

 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「ありがたい」と云って笑った。

「僕は昔から津田君に軽蔑《けいべつ》されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻《さっき》からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫《ごう》も変らないのです。これだけはいくら怜悧《りこう》な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」

 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それからまた続けた。

「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体《ありてい》に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」

 小林の眼は据《す》わっていた。お延は何という事もできなかった。

「まあ」

「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」

「そんな馬鹿な事があるもんですか」

「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」

「あなたもずいぶん僻《ひが》んでいらっしゃるのね」

「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能《やくざ》に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨《うら》む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」

 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何もいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼《つばさ》さえ伸ばしてやる気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。

「奥さん、僕は人に厭《いや》がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑《けいべつ》されても存分な讐討《かたきうち》ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」

 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当《あ》て篏《はま》って、毫《ごう》も悖《もと》らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。

「吃驚《びっく》りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」

 小林は多少|溜飲《りゅういん》の下りたような顔をした。

「奥さんは先刻《さっき》から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴《やつ》だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」

 小林はまた大きな声を出して笑った。


        八十六


 お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目《まじめ》さが疑がわれた。反抗、畏怖《いふ》、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪《けんお》、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯《こうさく》したいろいろなものはけっして一点に纏《まと》まる事ができなかった。したがってただ彼女を不安にするだけであった。彼女はしまいに訊《き》いた。

「じゃあなたは私を厭《いや》がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」

「いや目的はそうじゃありません。目的は外套《がいとう》を貰いに来たんです」

「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」

「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」

「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」

「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」

「つまりそれがあなたの目的でしょう」

「目的じゃありません。しかし本望《ほんもう》かも知れません」

「目的と本望とどこが違うんです」

「違いませんかね」

 お延の細い眼から憎悪《ぞうお》の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性《きしょう》がありありと瞳子《ひとみ》の裏《うち》に宿った。

「怒っちゃいけません」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡《りょうけん》から敵打《かたきうち》をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他《ひと》を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」

 小林の筋の運び方は、少し困絡《こんがら》かり過ぎていた。お延は彼の論理《ロジック》の間隙《すき》を突くだけに頭が錬《ね》れていなかった。といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴《つか》むだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏《まと》めて見せた。

「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負《お》わないというんでしょう」

「ええそこです。そこが僕の要点なんです」

「そんな卑怯な――」

「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」

「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚《おぼえ》があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」

「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」

「それが私や津田に何の関係があるんです」

 小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。

「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」

「どうして」

 小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草《たばこ》を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。それを見抜いて、わざと高を括《くく》ったように落ちついている小林の態度がまた癪《しゃく》に障《さわ》った。そこへ先刻《さっき》から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠《わだか》まりは、一定した様式の下《もと》に表現される機会の来ない先にまた崩《くず》されてしまわなければならなかった。


        八十七


 お時は縁側《えんがわ》へ坐って外部《そと》から障子《しょうじ》を開けた。

「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」

 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。

「じゃ電話はかけなかったのかい」

「いいえかけたんでございます」

「かけても通じなかったのかい」

 問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑《の》み込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終《しじゅう》相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。第一言語が不明暸《ふめいりょう》であった。それから判切《はっきり》聞こえるところも辻褄《つじつま》の合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦《あき》らめて、電話箱を出てしまった。しかし義務を果さないでそのまま宅《うち》へ帰るのが厭《いや》だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。

「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」

 お時のいう事はもっともであった。お延は礼を云わなければならなかった。しかしそのために、小林からさんざん厭《いや》な思いをさせられたのだと思うと、気を利《き》かした下女がかえって恨《うら》めしくもあった。

 彼女は立って茶の間へ入った。すぐそこに据《す》えられた銅《あか》の金具の光る重《かさ》ね箪笥《だんす》の一番下の抽斗《ひきだし》を開けた。そうして底の方から問題の外套《がいとう》を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。

「これでしょう」

「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引《ひ》ッ繰返《くりかえ》した。

「思ったよりだいぶ汚《よご》れていますね」

「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟《えり》を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著《いち》じるしく目立った。

「どうせただ貰うんだからそう贅沢《ぜいたく》も云えませんかね」

「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」

「置いて行けとおっしゃるんですか」

「ええ」

 小林はやッぱり外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。

「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」

「ええ、ええ」

 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖《そで》へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。

「どうですか」

 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。見苦しい畳《たた》み皺《じわ》が幾筋もお延の眼に入《い》った。アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆《ぎゃく》に行《い》った。

「ちょうど好いようですね」

 彼女は誰も自分の傍《そば》にいないので、せっかく出来上った滑稽《こっけい》な後姿《うしろすがた》も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。

 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐《あぐら》をかいた。

「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」

「そうですか」

 お延は急に口元を締《し》めた。

「奥さんのような窮《こま》った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」

「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」

 小林は何にも答えなかった。しかし突然云った。

「ありがとう。御蔭《おかげ》でこの冬も生きていられます」

 彼は立ち上った。お延も立ち上った。しかし二人が前後して座敷から縁側《えんがわ》へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。

「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他《ひと》に笑われないようにしないといけませんよ」


        八十八


 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端《とたん》、小林が後《うしろ》を向いた拍子《ひょうし》、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりもむしろ眼と眼に見入った。

 その時小林の太い眉《まゆ》が一層|際立《きわだ》ってお延の視覚を侵《おか》した。下にある黒瞳《くろめ》はじっと彼女の上に据《す》えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。お延は口を切った。

「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」

「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚《おぼえ》がないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固《もと》より立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」

「もうたくさんです。早く帰って下さい」

 小林は応じなかった。問答が咫尺《しせき》の間に起った。

「しかし僕のいうのは津田君の事です」

「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」

「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」

「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」

「聞きたいですか」

 鋭どい稲妻《いなずま》がお延の細い眼からまともに迸《ほとば》しった。

「津田はわたくしの夫です」

「そうです。だから聞きたいでしょう」

 お延は歯を噛《か》んだ。

「早く帰って下さい」

「ええ帰ります。今帰るところです」

 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側《えんがわ》を二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。

「お待ちなさい」

「何ですか」

 小林はのっそり立ちどまった。そうして裄《ゆき》の長過ぎる古外套《ふるがいとう》を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声はなお鋭くなった。

「なぜ黙って帰るんです」

「御礼は先刻《さっき》云ったつもりですがね」

「外套の事じゃありません」

 小林はわざと空々《そらぞら》しい様子をした。はてなと考える態度まで粧《よそお》って見せた。お延は詰責《きっせき》した。

「あなたは私の前で説明する義務があります」

「何をですか」

「津田の事をです。津田は私の夫です。妻《さい》の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗《きれい》に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」

「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥《はじ》を恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫《あや》まりましょう。そうしたらいいでしょう」

 お延は黙然として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。

「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」

 お延は依然として下を向いたまま口を利《き》かなかった。小林は語を続けた。

「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその後《あと》を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。併《あわ》せて取消します。その他もし奥さんの気に障《さわ》った事があったら、総《すべ》て取消します。みんな僕の失言です」

 小林はこう云った後で、沓脱《くつぬぎ》に揃《そろ》えてある自分の靴を穿《は》いた。そうして格子《こうし》を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。

 微《かす》かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。それから急に二階の梯子段《はしごだん》を駈《か》け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。


        八十九


 幸いにお時が下から上《あが》って来なかったので、お延は憚《はばか》りなく当座の目的を達する事ができた。彼女は他《ひと》に顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。

 濡《ぬ》れた手巾《ハンケチ》を袂《たもと》へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗《ひきだし》を開けた。抽斗は二つ付いていた。しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもそのはずであった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用《いりよう》の手荷物を纏《まと》めるため、二三日前《にさんちまえ》すでにそこを捜《さが》したのである。彼女は残された封筒だの、物指《ものさし》だの、会費の受取だのを見て、それをまた一々|鄭寧《ていねい》に揃《そろ》えた。パナマや麦藁製《むぎわらせい》のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏《しょか》の夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤《まっか》に咲いた日比谷公園の躑躅《つつじ》だの、突当りに霞《かすみ》が関《せき》の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂《におい》のように、聯想《れんそう》としてつき纏《まつ》わっていた。お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。

 机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。そこにも抽斗が二つ付いていた。机を棄《す》てたお延は、すぐ本箱の方に向った。しかしそれを開けようとして、手を環《かん》にかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応《てごた》えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪《か》き廻《まわ》した。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜《ひそ》んでいようとは想像できなかった。彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。錠《じょう》を卸《おろ》さない秘密をそこいらへ放《ほう》り出《だ》しておくには、あまりに細《こま》か過《す》ぎるのが彼の持前であった。

 お延は戸棚《とだな》を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多《がらくた》が、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持でいっぱいになっていた。

 再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差《じょうさし》の中から、津田|宛《あて》で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘《いざな》いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。彼女はつい念のためという口実の下《もと》に、それへ手を出さなければならなくなった。

 封筒が次から次へと裏返された。中身が順々に繰りひろげられた。あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復《もど》した。

 突然疑惑の焔《ほのお》が彼女の胸に燃え上った。一束《ひとたば》の古手紙へ油を濺《そそ》いで、それを綺麗《きれい》に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片《かみきれ》を、津田は恐ろしそうに、竹の棒で抑《おさ》えつけていた。それは初秋《はつあき》の冷たい風が肌《はだえ》を吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分と経《た》たないうちに起った光景であった。箸《はし》を置くと、すぐ二階から細い紐《ひも》で絡《から》げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点《つ》けていた。お延が縁側《えんがわ》へ出た時には、厚い上包がすでに焦《こ》げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊《き》いた。津田は嵩《かさ》ばって始末に困るからだと答えた。なぜ反故《ほご》にして、自分達の髪を結《ゆ》う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦《うず》を巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は煙に咽《むせ》ぶ顔をお延から背《そむ》けた。……

 お時が午飯《ひるめし》の催促に上《あが》って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。


        九十


 時間はいつか十二時を過ぎていた。お延はまたお時の給仕で独《ひと》り膳《ぜん》に向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。彼女の様子は剛張《こわば》っていた。そのくせ心は纏《まと》まりなく動いていた。先刻《さっき》出かけようとして着換えた着物まで、平生《ふだん》と違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介《なかだち》となった。

 もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩《も》れなかったなら、お延はついに一言《ひとこと》も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭《いや》さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。

 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。しかしお延が一膳で箸《はし》を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊《き》いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。

「どうもすみませんでした」

 彼女は自分の専断で病院へ行った詫《わび》を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。

「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」

「いいえ」

 お延は疑《うたぐ》りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。

「あのお客さまは、ずいぶん――」

 しかしお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。二人の談話はこれが緒口《いとくち》で先へ進んだ。

「旦那様《だんなさま》は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴《やつ》だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判《じきだんぱん》を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」

 お延は軽蔑《さげす》んだ笑いを微《かす》かに洩《も》らした。しかし自分の批評は加えなかった。

「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」

「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊《おき》きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変|厭《いや》な顔をなさいました」

「そうかい。それぎりかい」

「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」

「それでお前は何とお答えをしたの」

「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」

「そうしたら」

「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」

「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」

「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換《めしかえ》をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」

「そう。そうしたら」

「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評《ひや》かされました」

 お延は苦笑した。

「どうも御気の毒さま。それっきり」

「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他《ひと》の家《うち》へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」

「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」

「ええ」

 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話をそこで切り上げなかった。

「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」

「なんと」

「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘《うそ》だと思っていれば間違はないんだからって」

「そう」

 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。

「堀の奥さまも傍《そば》で笑っていらっしゃいました」

 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。


        九十一


 お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男はすでに四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒《さ》ますには充分であった。彼女の心は四年以来いつでも母であった。母でない日はただの一日もなかった。

 彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛《かわい》がりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修業を積んで始めてそういう境界《きょうがい》に達せられるもののように考えていた。人世観という厳《いか》めしい名をつけて然《しか》るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温《なまぬる》く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何《なん》にも執着しない事であった。呑気《のんき》に、ずぼらに、淡泊《たんぱく》に、鷹揚《おうよう》に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼のいわゆる通《つう》であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。またどこへ行っても不足を感じなかった。この好成蹟《こうせいせき》がますます彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。

 器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。放蕩《ほうとう》の酒で臓腑《ぞうふ》を洗濯されたような彼の趣《おもむき》もようやく解する事ができた。こんなに拘泥《こうでい》の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目《まじめ》に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚《さと》る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注《そそ》がなければならなくなった。

 お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。お延の新世帯《しんしょたい》が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、他《ひと》の知らない気苦労をしなければならなかった。

 器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経《た》っても若かった。一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。四歳《よっつ》の子持とはどうしても考えられないくらいであった。けれどもお延と違った家庭の事情の下《もと》に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老《ふ》けていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染《しょたいじ》みたのである。

 こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母《ちちはは》の味方にしたがった。彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂《あによめ》に気下味《きまず》い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎《つつ》しんでいた。しかし腹の中はむしろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。兄がもしあれほど派手好《はでず》きな女と結婚しなかったならばという気が、始終《しじゅう》胸の底にあった。そうしてそれは身贔負《みびいき》に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。

 お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。兄夫婦から煙《けむ》たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。第一には二人が厭《いや》がるからなお改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌《きらい》だという一点に纏《まと》められてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、またお延より贅沢《ぜいたく》のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。ただしお秀には姑《しゅうと》があった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。しかしお秀はこの問題に関聯《かんれん》してこの相違すら考えなかった。

 お秀がお延から津田の消息を電話で訊《き》かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套《がいとう》を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。


        九十二


 前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳《ぜん》にちょっと手を出したぎり、また仰向《あおむけ》になって、昨夕《ゆうべ》の不足を取り返すために、重たい眼を閉《つぶ》っていた。お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入《い》りかけた間際《まぎわ》だったので、彼は襖《ふすま》の音ですぐ眼を覚《さ》ました。そうして病人に斟酌《しんしゃく》を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。

 こういう場合に彼らはけっして愛嬌《あいきょう》を売り合わなかった。嬉《うれ》しそうな表情も見せ合わなかった。彼らからいうと、それはむしろ陳腐過《ちんぷす》ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼らには自分ら兄妹《きょうだい》でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪《にく》い黙契があった。どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部《うわべ》の所作《しょさ》だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙《だま》し合う手数《てかず》を省《はぶ》いて、良心に背《そむ》かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取《とり》も直《なお》さず、愛嬌《あいきょう》のない顔という事に過ぎなかった。

 第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄《あいだがら》であった。だから遠慮の要《い》らないという意味で、不愛嬌《ぶあいきょう》な挨拶《あいさつ》が苦にならなかった。第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。それが災《わざわい》の元で、互の顔を見ると、互に弾《はじ》き合《あ》いたくなった。

 ふと首を上げてそこにお秀を見出《みいだ》した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精《ぶしょう》と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着《とんじゃく》なく、言葉もかけずに、そっと室《へや》の内に入って来た。

 彼女は何より先にまず、枕元にある膳《ぜん》を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引《ひ》ッ繰《く》り返《かえ》された牛乳の罎《びん》の下に、鶏卵《たまご》の殻《から》が一つ、その重みで押し潰《つぶ》されている傍《そば》に、歯痕《はがた》のついた焼麺麭《トースト》が食欠《くいかけ》のまま投げ出されてあった。しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗《きれい》に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。

「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」

 実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。

「もう済んだんだよ」

 お秀は眉《まゆ》をひそめて、膳を階子段《はしごだん》の上《あが》り口《くち》まで運び出した。看護婦の手が隙《す》かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食《あさめし》の残骸《なきがら》は、掃除の行き届いた自分の家《うち》を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。

「汚ならしい事」

 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。しかし津田は黙って取り合わなかった。

「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」

「電話で知らせて下すったんです」

「お延がかい」

「ええ」

「知らせないでもいいって云ったのに」

 今度はお秀の方が取り合わなかった。

「すぐ来《き》ようと思ったんですけれども、あいにく昨日《きのう》は少し差支《さしつか》えがあって――」

 お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄《あいだがら》を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟《りくつ》の徹《とお》らない頭をもった津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗《あん》に希望していたくらいであった。けれども自分がお秀にそうした素振《そぶり》を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振《そぶり》を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。

 津田は後を訊《き》かずに思う通りを云った。

「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」

「だって嫂《ねえ》さんが、もし閑《ひま》があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」

「そうかい」

「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」

 津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。


        九十三


 手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口《きずぐち》の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏《みゃくはく》のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。

 彼は一昨日《おととい》の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾《きょだく》を彼から得たお延が、階子段《はしごだん》を下へ降りて行った拍子《ひょうし》に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中《うち》で叫んだ。すると苦《にが》い記憶をわざと彼のために繰《く》り返《かえ》してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮《ちぢ》む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦《こ》すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和《かんわ》されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端《とたん》に一度引いた浪《なみ》がまた磯《いそ》へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返《かえ》してくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。止《や》めさせようと焦慮《あせ》れば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。

 津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は籠《かご》の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。いつまでも彼女を自分の傍《そば》に引きつけておくのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、烈《はげ》しく鳴らした号鈴《ベル》の音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭《いや》な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟《しげき》に帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭《かげ》にほかならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。お延の所作《しょさ》に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。しかし全く偶然の暗合《あんごう》でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡《りょうけん》で、二つの間にある関係を拵《こしら》えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。

 お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末《てんまつ》を思い起させた。彼は苦《にが》い顔をした。

 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。

「お厭《いや》なら病院をお出《で》になってから後にしましょうか」

 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌《しんしゃく》しなければならなかった。

「どこか痛いの」

 津田はただ首肯《うなず》いて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。

「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂《ねえ》さんはどうしたんでしょう。昨日《きのう》の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」

「お延は知らないんだ」

「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」

「なに本当はお延のお蔭《かげ》で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々《だだ》っ子《こ》らしく見えて来た。上部《うわべ》はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥《は》ずかしくなった。

「いったいお前の用というのは何だい」

「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」

 津田は優《ゆう》に自分を偽《いつわ》る事ができた。しかしその時の彼は偽るのが厭《いや》であった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。

「構わないからお話しよ」

「どうせあたしの話だから碌《ろく》な事じゃないのよ。よくって」

 津田にも大よその見当《けんとう》はついていた。


        九十四


「またあの事だろう」

 津田はしばらく間《ま》をおいて、仕方なしにこう云った。しかしその時の彼はもう例《いつも》の通り聴《き》きたくもないという顔つきに返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。

「だからあたしの方じゃ先刻《さっき》から用は今度《こんだ》の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」

「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」

「だって、兄さんがそんな厭《いや》な顔をなさるんですもの」

 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈《えしゃく》を加える女ではなかった。したがって津田も気の毒になるはずがなかった。かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。彼は取り合わずに先へ通《とお》り過《こ》した。

「また京都から何か云って来たのかい」

「ええまあそんなところよ」

 津田の所へは父の方から、お秀の許《もと》へは母の側《がわ》から、京都の消息が重《おも》に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無《うむ》を心のうちで気遣《きづか》っていたのである。兄妹《きょうだい》の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末《つきずえ》の仕払や病院の入費の出所《でどころ》に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡《こんがら》かって、離す事のできない事情の下《もと》にある意味合《いみあい》を、お秀よりもよく承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。

「何と云って来たい」

「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」

「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」

 お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微《かす》かに薄笑の影を締《しま》りの好い口元に寄せて見せた。それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪《しゃく》だった。平生は単に妹であるという因縁《いんねん》ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟《しげき》した。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計|他《ひと》の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯《しょうがい》自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。

 お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃《そろ》えて兄に向った。

「それで兄さんはどうなすったの」

「どうもしようがないじゃないか」

「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」

 津田はしばらく黙っていた。それからさもやむをえないといった風に答えた。

「云ってやったさ」

「そうしたら」

「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも家《うち》へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」

「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当《けんとう》がついて」

 津田は何とも答えなかった。お延の拵《こし》らえてくれた※[#「糸」+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》の襟《えり》を手探《てさぐ》りに探って、黒八丈《くろはちじょう》の下から抜き取った小楊枝《こようじ》で、しきりに前歯をほじくり始めた。彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。

「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」

「知らないよ」

 津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。

「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻《さっき》から訊《き》いてるじゃないか」

 お秀はわざと眼を反《そ》らして縁側《えんがわ》の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作《しょさ》の代りに過ぎなかった。

「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」


        九十五


 津田はようやくお秀|宛《あて》で来た手紙の中に、どんな事柄《ことがら》が書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚《さいかく》するなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕《つくろ》いだとか家賃の滞《とどこお》りだとかいうのは嘘《うそ》でなければならなかった。よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。

 彼は沈吟《ちんぎん》して考えた。山羊髯《やぎひげ》を生《は》やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪《そくはつ》を嫌《きら》って髷《まげ》にばかり結《ゆ》いたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。

「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女のよって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を他《ひと》からも認めて貰いたかったのである。

「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」

 お秀には自分の良人《おっと》の堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。

「良人《うち》でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」

 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻《ひる》がえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無雑作《むぞうさ》にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴《とうき》、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説《くど》き落《おと》したのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割《さ》いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極《しごく》呑気《のんき》な男であった。約束の履行《りこう》などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行《すいこう》の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。詰責《きっせき》に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。しかし現金の綺麗《きれい》に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。

 同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を賞《ほ》めた。賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮《こりょ》に打ち勝った。彼女はありのままをお秀に物語った。

 不断から派手過《はです》ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末《てんまつ》を京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆《そそ》のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解から逃《のが》れる事ができなかった。したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂《あによめ》のお延だと云った方が適切かも知れなかった。

「いったい嫂《ねえ》さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」

「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」

「そう。じゃ嫂《ねえ》さんが一番気楽でいいわね」

 お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮《あざや》かに見えた。


        九十六


「いったいどうしたらいいんでしょう」

 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩《も》らす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりもなお遠慮勝な姑《しゅうと》さえその奥には控えていた。

「そりゃ良人《うち》だって兄さんに頼まれて、口は利《き》いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人《うち》へ対して困るだけだわ」

 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡《りょうけん》がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前に甚《はなは》だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。むしろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。

 兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。

 津田はどうするとも云わなかった。またどうする気もなかった。かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。

「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面《くめん》するに違ないとでも思っているのか知ら」

「そこなのよ、兄さん」

 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうしてまたつけ加えた。

「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」

 微《かす》かな暗示が津田の頭に閃《ひら》めいた。秋口《あきぐち》に見る稲妻《いなずま》のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質《たち》のものであった。心のうちで劈頭《へきとう》に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。

 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下《しも》のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初に体《てい》よく送金を拒絶する。津田が困る。今までの行《いき》がかり上《じょう》堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。それで否応《いやおう》なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。

 こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理窟《りくつ》もあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何らの淡泊《たんぱく》さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭《きつねくさ》い狡獪《こうかい》な所も少しはあった。小額の金に対する度外《どはず》れの執着心が殊更《ことさら》に目立って見えた。要するにすべてが父らしくできていた。

 ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口《やりくち》に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉《まゆ》を顰《ひそ》めなければならなかった。父の品性。それはむしろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。その上夫や姑《しゅうと》への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度《そんたく》から成立った父の料簡《りょうけん》は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。


        九十七


 感情と理窟の縺《もつ》れ合《あ》った所を解《ほ》ごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈《じれ》ったくした。しかし彼らは兄妹《きょうだい》であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊《さっぱり》しないところを暗《あん》に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁《ふていさい》は演じなかった。ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括《くく》る手際《てぎわ》をお秀より余計にもっていた。

「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」

「そうじゃないわ」

「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同《おん》なじ事だがね」

「あら、嫂《ねえ》さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」

「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」

「兄さんにそんな事ができて」

 お秀の兄を冷笑《あざ》けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚《よ》び起《おこ》した。

「できなければ死ぬまでの事さ」

 お秀はついにきりりと緊《しま》った口元を少し緩《ゆる》めて、白い歯を微《かす》かに見せた。津田の頭には、電灯の下で光る厚帯を弄《いじ》くっているお延の姿が、再び現れた。

「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」

 津田にとってそれほど容易《たやす》い解決法はなかった。しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それにできるだけの満足を与える事が、また取《とり》も直《なお》さず彼の虚栄心にほかならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角《いっかく》において突き崩《くず》すのは、自分で自分に打撲傷《だぼくしょう》を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。そのくらいの事をと他《ひと》から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余《ありあま》るほどの金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。

 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己《おの》れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質《たち》に父母から生みつけられていた。

「できなければ死ぬまでさ」と放《ほう》り出《だ》すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺《うかが》っていた。腹の中に言葉通りの断乎《だんこ》たる何物も出て来ないのが恥ずかしいとも何とも思えなかった。彼はむしろ冷やかに胸の天秤《てんびん》を働かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量《しょうりょう》した。そうしていっそ二つのうちで後の方を冒《おか》したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分もっていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊《あきた》らなく思った。兄の後《うしろ》に御本尊のお延が澄まして控えているのを悪《にく》んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚《みな》して、京都の父が遠廻しに持ちかけて来るのがいかにも業腹《ごうはら》であった。そんなこんなの蟠《わだか》まりから、津田の意志が充分見え透《す》いて来た後《あと》でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事をあえてしなかった。

 同時に、器量望みで比較的富裕な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充《み》ちていた。彼は成上《なりあが》りものに近いある臭味《しゅうみ》を結婚後のこの妹に見出《みいだ》した。あるいは見出したと思った。いつか兄という厳《いか》めしい具足《ぐそく》を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼といえども妄《みだ》りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。

 二人はそれでどっちからも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵《こし》らえかけていた局面を、一度に崩《くず》してしまったのである。


        九十八


 しかしお時のじかに来る前に、津田へ電話のかかって来た事もたしかであった。彼は階子段《はしごだん》の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話をちょっとやめて、「どこからです」と訊《き》き返した。薬局生は下《お》りながら、「おおかたお宅からでしょう」と云った。冷笑なこの挨拶《あいさつ》が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着《おうちゃく》にした。芝居へ行ったぎり、昨日《きのう》も今日《きょう》も姿を見せないお延の仕うちを暗《あん》に快よく思っていなかった彼をなお不愉快にした。

「電話で釣るんだ」

 彼はすぐこう思った。昨日の朝もかけ、今日の朝もかけ、ことによると明日《あした》の朝も電話だけかけておいて、さんざん人の心を自分の方に惹《ひ》き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振《そぶり》から推して見ると、この類測に満更《まんざら》な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛《しとやか》に自分を驚ろかしに這入《はい》って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔がまた変に彼の心に影響して来る事も彼にはよく解っていた。彼女は一刹那《いっせつな》に閃《ひら》めかすその鋭どい武器の力で、いつでも即座に彼を征服した。今まで持《も》ち応《こた》えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。

 彼はお秀の注意もかかわらず、電話をそのままにしておいた。

「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放《ほう》っておけ」

 この挨拶《あいさつ》がまたお秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌《い》む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚《はば》かって、不断の甘いところを押し隠すために、わざと嫂《あによめ》に対して無頓着《むとんじゃく》を粧《よそお》うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。しかしそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。

 形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口《いとくち》を取り上げた時、一方では急込《せきこ》んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自働電話を棄《す》てて電車に乗ったのである。それから十五分と経《た》たないうちに、津田はまた予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。

 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格はよく知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅《るすたく》に押しかけて来て、それほど懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、また考えざるを得なかった。それは外套《がいとう》をやるやらないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他《ひと》の外套を、平気でよく知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らきかけるかが彼の問題であった。そこには突飛《とっぴ》があった。自暴《やけ》があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼ら二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択《せんたく》される恐れがあった。平生から彼を軽蔑《けいべつ》する事において、何の容赦も加えなかった津田には、またそういう素地《したじ》を作っておいた自覚が充分あった。

「何をいうか分らない」

 津田の心には突然一種の恐怖が湧《わ》いた。お秀はまた反対に笑い出した。いつまでもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女にはほとんど通じなかった。

「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありゃしないわ」

 お秀も小林の一面をよく知っていた。しかしそれは多く彼が藤井の叔父《おじ》の前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。

「そうでないよ、なかなか」

「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」

 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。

「だって燐寸《マッチ》一本だって、大きな家《うち》を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」

「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱|燐寸《マッチ》を抱え込んでいたって。嫂《ねえ》さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」


        九十九


 津田はお秀の口から出た下半句《しもはんく》を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。よそを向いたまま、じっとその後《あと》を待っていた。しかし彼の聞こうとするその後《あと》はついに出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。

「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」

 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。それはなるべく妹に自分の心を気取《けど》られないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作《しょさ》から来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼はようやくお秀の方を向いた。

「別に心配もしていないがね」

「ただ気になるの」

 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑《ひや》かされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。

 同時に先刻《さっき》から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念《けねん》に制せられた。

 そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。彼女はいったん緒口《いとくち》を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。

「兄さんはいったい嫂《ねえ》さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」

「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」

「そんならいいわ、伺わないでも」

「しかしなぜ訊《き》くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」

「ちょっと必要があったから伺ったんです」

「だからその必要をお云いな」

「必要は兄さんのためよ」

 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。

「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」


「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」

「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」

「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」

「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」

 津田は答えなかった。お秀は穴の開《あ》くようにその顔を見た。

「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」

 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。

「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」

「そりゃ聴《き》かないでも解ってるよ」

「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」

 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味がよく解らなかった。しかしそこに相手の拍子《ひょうし》を抜く必要があったので、彼は判然《はっきり》した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。

「大変な権幕《けんまく》だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」

「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」

「云えばどうするというんだい」

「私はあなたの妹です」

「それがどうしたというのかね」

「兄さんは淡泊《たんぱく》でないから駄目よ」

 津田は不思議そうに首を傾けた。

「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違《かんちがい》をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴《あいつ》は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」

「ただそれだけなの」

「うんそれだけだ」

 お秀は急に的《あて》の外《はず》れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。

「だけど兄さん、もし堀のいない留守《るす》に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」

「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」

「ええ断言します」

「結構だよ。――それで?」

「あたしの方もそれだけよ」

 二人は黙らなければならなかった。


        百


 しかし二人はもう因果《いんが》づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲《たた》き出さなければ承知ができなかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼《せま》る金の工面《くめん》、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥《おちい》っていた。彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。

「お秀病院で飯を食って行かないか」

 時間がちょうどこんな愛嬌《あいきょう》をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。

「どうせ家《うち》へ帰ったって用はないんだろう」

 お秀は津田のいう通りにした。話は容易《たやす》く二人の間に復活する事ができた。しかしそれは単に兄妹《きょうだい》らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足《たし》にならなかった。彼らはもっと相手の胸の中へ潜《もぐ》り込《こ》もうとして機会を待った。

「兄さん、あたしここに持っていますよ」

「何を」

「兄さんの入用《いりよう》のものを」

「そうかい」

 津田はほとんど取り合わなかった。その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。しかし金は取りたかった。お秀はまた金はどうでもよかった。しかし兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌《えば》にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦《じ》らす事に帰着した。

「あげましょうか」

「ふん」

「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」

「ことによると、くれないかも知れないね」

「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」

「そりゃ知ってるよ。先刻《さっき》もうお前から聞いたじゃないか」

「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」

「僕を焦《じ》らすためにかい、または僕にくれるためにかい」

 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜《た》めた。津田にはそれが口惜涙《くやしなみだ》としか思えなかった。

「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」

「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」

 今度は呆《あき》れた表情がお秀の顔にあらわれた。

「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」

「そんな事は他《ひと》に訊《き》かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」

「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」

 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。ここまで来ても、彼には相手の機嫌《きげん》を取り返した方が得《とく》か、またはくしゃりと一度に押し潰《つぶ》した方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼は徐《おもむ》ろに口を開いた。

「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」

「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」

「だからそれでいいよ」

「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」

「そりゃ……」

 津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し間《ま》をおいた。それからすぐ押し返した。

「兄さんのお腹《なか》の中には、あたしが京都へ告口《つげぐち》をしたという事が始終《しじゅう》あるんでしょう」

「そんな事はどうでもいいよ」

「いいえ、それできっとあたしを眼《め》の敵《かたき》にしていらっしゃるんです」

「誰が」

 不幸な言葉は二人の間に伏字《ふせじ》のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明《たいまつ》のように兄の眼先に振り廻した。

「兄さんこそ違ったのです。嫂《ねえ》さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」


        百一


 津田から見たお秀は彼に対する僻見《へきけん》で武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障《みみざわ》りであった。むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は尠《すくな》からぬ不快を感じた。

「おれはお前の考えてるような二本棒《にほんぼう》じゃないよ」

「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装《よそお》って、うっちゃっておおきになるくらいですから」

 こういう言葉が所嫌《ところきら》わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。

「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」

 彼は神経の亢奮《こうふん》を紛《まぎ》らす人のように、しきりに短かい口髭《くちひげ》を引張った。しだいしだいに苦《にが》い顔をし始めた。そうしてだんだん言葉少なになった。

 津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸《あかはだか》にされて行くので、しまいに彼は恥《は》じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。あたかももう一息《ひといき》で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢《いきおい》で。

「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊《たんぱく》でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体《ありてい》に事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰《もら》いになる前、今度《こんだ》のような嘘《うそ》をお父さんに吐《つ》いた覚《おぼえ》がありますか」

 この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。

「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」

 お秀はそうだと答えたいところをわざと外《そら》した。

「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠《しょうこ》にそれだけの事実を主張するんです」

 津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥《おちい》って来た。

「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」

「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」

 すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。

 お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。

「兄さんの変った証拠《しょうこ》はまだあるんです」

 津田は素知《そし》らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙《あ》げた。

「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、嫂《ねえ》さんに何か云やしないかって、先刻《さっき》から心配しているじゃありませんか」

「煩《うる》さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」

「でも気になる事はたしかなんでしょう」

「どうでも勝手に解釈するがいい」

「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」

「馬鹿を云うな」

「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」

 津田はふと眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗《のぞ》き込むようにして見た。それから好い恰好《かっこう》をした鼻柱に冷笑の皺《しわ》を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息《ひといき》で懺悔《ざんげ》の深谷《しんこく》へ真《ま》ッ逆《さか》さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後《うしろ》に平坦《へいたん》な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。

「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖《こわ》がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」

「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」

「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」

「まあその見当《けんとう》だろうね」

 お秀は赫《かっ》とした。同時に一筋の稲妻《いなずま》が彼女の頭の中を走った。


        百二


「解《わか》りました」

 お秀は鋭どい声でこう云《い》い放《はな》った。しかし彼女の改まった切口上《きりこうじょう》は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。彼はもう彼女の挑戦《ちょうせん》に応ずる気色《けしき》を見せなかった。

「解りましたよ、兄さん」

 お秀は津田の肩を揺《ゆす》ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしにまた口を開いた。

「何が」

「なぜ嫂《ねえ》さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」

 津田の頭に一種の好奇心が起った。

「云って御覧」

「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」

「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独《ひと》りで解ったと思っているがいい」

「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚《みな》していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」

 津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似《まね》は夢にも思いつけなかった。そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑《けいべつ》が、微温《なまぬる》い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻《さっき》から見せている津田を毫《ごう》も容赦しなかった。そうしてまた「兄さん」と云い出した。

 その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。今までの彼女は彼を通して常に鋒先《ほこさき》をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘《うそ》ではなかったが、矢面《やおもて》に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂《あね》だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。それがいつの間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。

「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑《うたがい》を妹が少しでももっているなら、綺麗《きれい》にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」

「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」

 津田の癇癪《かんしゃく》は始めて破裂した。

「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」

「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」

「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕《つら》まえられると思うのか。馬鹿め」

「そう私を軽蔑《けいべつ》なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」

「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」

「あなたが兄さんらしくないからです」

「黙れ」

「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂《ねえ》さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」

「妹より妻《さい》を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」

「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」

「何だ」

「それだから兄さんは嫂さんを怖《こわ》がるのです。しかもその怖がるのは――」

 お秀がこう云いかけた時、病室の襖《ふすま》がすうと開《あ》いた。そうして蒼白《あおしろ》い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。


        百三


 彼女が医者の玄関へかかったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜《べんぎ》を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉《ドアー》を開けて内へ入る事ができたのである。

 実際彼女は三四日《さんよっか》前に来た時のように、編上《あみあげ》だの畳《たたみ》つきだのという雑然たる穿物《はきもの》を、一足も沓脱《くつぬぎ》の上に見出《みいだ》さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それがいかにも不思議であったくらい四囲《あたり》は寂寞《ひっそり》していた。

 彼女はその森《しん》とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃《そろ》えられたただ一足の女下駄を認めた。価段《ねだん》から云っても看護婦などの穿《は》きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍《おど》らせた。下駄はまさしく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸がいっぱいになっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事ができなかった。彼女は猛烈にそれを見た。

 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうしてそこに動かないお延の姿を認めた時、誰何《すいか》でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊《き》いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段《はしごだん》の下まで来た。そうして上を見上げた。

 上では絶えざる話し声が聞こえた。しかし普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀《よど》みなく往ったり来たり流れているのとはだいぶ趣《おもむき》を異《こと》にしていた。そこには強い感情があった。亢奮《こうふん》があった。しかもそれを抑《おさ》えつけようとする努力の痕《あと》がありありと聞こえた。他聞《たぶん》を憚《はば》かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見つめた時より以上の猛烈さがそこに現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。

 津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上《あが》ってすぐ取《とっ》つきが壁で、その右手がまた四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寝ている所へは出られなかった。したがってお延の聴《き》こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当《けんとう》、すなわち彼女の後《うしろ》の方から洩《も》れて来るのであった。

 彼女はそっと階子段を上《のぼ》った。柔婉《しなやか》な体格《からだ》をもった彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成効《せいこう》をもって酬《むく》いられた。

 上《あが》り口《ぐち》の一方には、落ちない用心に、一間ほどの手欄《てすり》が拵《こしら》えてあった。お延はそれに倚《よ》って、津田の様子を窺《うかが》った。するとたちまち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入《い》った。ことに嫂《ねえ》さんがという特殊な言葉が際立《きわだ》って鼓膜《こまく》に響いた。みごとに予期の外《はず》れた彼女は、またはっと思わせられた。硬い緊張が弛《ゆる》む暇《いとま》なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛《な》げつけられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。

 二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩《けんか》をしていた。その喧嘩の渦中《かちゅう》には、知らない間《ま》に、自分が引き込まれていた。あるいは自分がこの喧嘩の主《おも》な原因かも分らなかった。

 しかし前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置をきめる訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりもむしろお秀の使う言葉は霰《あられ》のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味《ぎんみ》している閑《ひま》などはとうていなかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへとそこに佇立《たたず》んでいる彼女の耳朶《みみたぶ》を叩《たた》きに来るだけであった。

 彼女は事件が分明《ぶんみょう》になるまでじっと動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんよりほかにもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震《ふる》わせた。際立《きわだ》って明暸《めいりょう》に聞こえたこの一句ほどお延にとって大切なものはなかった。同時にこの一句ほど彼女にとって不明暸なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気がすまなかった。しかしその後はまたどうしても聴いていられなかった。先刻《さっき》から一言葉《ひとことば》ごとに一調子《ひとちょうし》ずつ高まって来た二人の遣取《やりとり》は、ここで絶頂に達したものと見傚《みな》すよりほかに途《みち》はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強《し》いて先へ出ようとすれば、どっちかで手を出さなければならなかった。したがってお延は不体裁《ふていさい》を防ぐ緩和剤《かんわざい》として、どうしても病室へ入らなければならなかった。

 彼女は兄妹《きょうだい》の中をよく知っていた。彼らの不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。そこへ顔を出すには、出すだけの手際《てぎわ》が要《い》った。しかし彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際《きわ》どい刹那《せつな》に覚悟をきめた。そうしてわざと静かに病室の襖《ふすま》を開けた。


        百四


 二人ははたしてぴたりと黙った。しかし暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止《と》められた時の沈黙は、けっして平和の象徴《シンボル》ではなかった。不自然に抑《おさ》えつけられた無言の瞬間にはむしろ物凄《ものすご》い或物が潜んでいた。

 二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寝ている彼の眼に、反対の側《がわ》から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵《あんど》であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包《つつ》み蔵《かく》す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支《さしつか》えないという証左《しょうさ》を、永く心の中《うち》に掴《つか》んだ。しかしそれは秘密であった。とっさの場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、ここへ来た刻下《こっか》の目的としなければならなかった。彼女は蒼白《あおしろ》い頬《ほお》に無理な微笑を湛《たた》えて津田を見た。そうしてそれがちょうどお秀のふり返るのと同時に起った所作《しょさ》だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上《のぼ》った。

「おや」

「今日《こんち》は」

 軽い挨拶《あいさつ》が二人の間に起った。しかしそれが済むと話はいつものように続かなかった。二人とも手持無沙汰《てもちぶさた》に圧迫され始めなければならなかった。滅多《めった》な事の云えないお延は、脇《わき》に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸してくれた英語の滑稽本《こっけいぼん》を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終《しじゅう》腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。

 津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁《ページ》を翻《ひるが》えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などはどこからも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間にまたお秀と二言三言《ふたことみこと》ほど口を利《き》いた。それもみんな彼女の方から話しかけて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉《のど》から圧《お》し出したようなものであった。

 お延はまた懐中《ふところ》から一通の手紙を出した。

「今|来《き》がけに郵便函《ゆうびんばこ》の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」

 お延の言葉は几帳面《きちょうめん》に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人《べつにん》のように礼儀正しかった。彼女はその形式的なよそよそしいところを暗《あん》に嫌《きら》っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉|遣《づか》いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。

 手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にもほぼ見当だけはついていた。

 津田は封筒を切る前に彼女に云った。

「お延|駄目《だめ》だとさ」

「そう、何が」

「お父さんはいくら頼んでももうお金をくれないんだそうだ」

 津田の云《い》い方《かた》は珍らしく真摯《しんし》の気に充《み》ちていた。お秀に対する反抗心から、彼はいつの間にかお延に対して平《ひら》たい旦那様《だんなさま》になっていた。しかもそこに自分はまるで気がつかずにいた。衒《てら》い気《け》のないその態度がお延には嬉《うれ》しかった。彼女は慰さめるような温味《あたたかみ》のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生《ふだん》の自分に戻ってしまった。

「いいわ、そんなら。こっちでどうでもするから」

 津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られるくらいな大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本《こっけいぼん》の場合のように口を利《き》き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了《おわ》って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑《の》み込めていた。それでもお秀はわざと訊《き》いた。

「何と書いてありますか、兄さん」

 気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀はちょっとよそを向いた。それからまた訊いた。

「あたしの云った通りでしょう」

 手紙にははたして彼女の推察する通りの事が書いてあった。しかしそれ見た事かといったような妹の態度が、津田にはいかにも気に喰わなかった。それでなくっても先刻《さっき》からの行《いき》がかり上《じょう》、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹《ごうはら》であった。


        百五


 お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中《うち》で再度の衝突を惧《おそ》れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念がどこへでもついて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それにいつでも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それはいまだに彼女にとっての未知数であるにもかかわらず、そこさえ明暸《めいりょう》に抑《おさ》えれば、苦《く》もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。しかし外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれほどむずかしい事ではなかった。彼は容易に怒《おこ》らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂しかかるのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室《へや》に入って来る前に、どうしてあれほど露骨に破裂したのだろう。とにかく彼女は退《ひ》きかけた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩《けんか》の相手を自分に引き受けようとした。

「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信《たより》があったんですか」

「いいえ母から」

「そう、やっぱりこの事について」

「ええ」

 お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後をつけた。

「京都でもいろいろお物費《ものいり》が多いでしょうからね。それに元々こちらが悪いんですから」

 お秀にはこの時ほどお延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延はまたさも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。

「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。そのくらいの工面《くめん》はどうにでもできるぐらいに考えて」

 お延は微笑した。

「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえあなた」

 こう云って津田の方を見たお延は、「早くなるとおっしゃい」という意味を眼で知らせた。しかし津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼はいつも繰り返す通りの事を云った。

「ならん事もあるまいがね、おれにはどうもお父さんの云う事が変でならないんだ。垣根を繕《つく》ろったの、家賃が滞《とどこお》ったのって、そんな費用は元来|些細《ささい》なものじゃないか」

「そうも行かないでしょう、あなた。これで自分の家《うち》を一軒持って見ると」

「我々だって一軒持ってるじゃないか」

 お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌《あいきょう》を惜まずに答えた。

「兄さんはその底に何か魂胆《こんたん》があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」

「そりゃあなた悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のあるはずはないじゃありませんか、ねえ秀子さん」

「いいえ、父や母よりもね、ほかにまだ魂胆があると思ってるんですのよ」

「ほかに?」

 お延は意外な顔をした。

「ええ、ほかにあると思ってるに違ないのよ」

 お延は再び夫の方に向った。

「あなた、そりゃまたどういう訳なの」

「お秀がそう云うんだから、お秀に訊《き》いて御覧よ」

 お延は苦笑した。お秀の口を利く順番がまた廻って来た。

「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッついたと思ってるんですよ」

「だって――」

 お延はそれより以上云う事ができなかった。そうしてその云った事はほとんど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚《きょ》を充《み》たした。

「それで先刻《さっき》から大変|御機嫌《ごきげん》が悪いのよ。もっともあたしと兄さんと寄るときっと喧嘩《けんか》になるんですけれどもね。ことにこの事件このかた」

「困るのね」とお延は溜息交《ためいきまじ》りに答えた後で、また津田に訊きかけた。

「しかしそりゃ本当の事なの、あなた。あなただって真逆《まさか》そんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」

「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」

「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、いったい何の役に立つと、あなた思っていらっしゃるの」

「おおかた見せしめのためだろうよ。おれにはよく解らないけれども」

「何の見せしめなの? いったいどんな悪い事をあなたなすったの」

「知らないよ」

 津田は蒼蠅《うるさ》そうにこう云った。お延は取りつく島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉《まゆ》の間に現われた。


        百六


「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂《あによめ》に対して何とか説明しなければならない位地《いち》に追いつめられた彼女は、こう云いながら腹の中でなおの事その嫂を憎《にく》んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々《そらぞら》しいまたずうずうしい女はなかった。

「ええ良人《うち》は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。

「あなた本当に強情よ。秀子さんのおっしゃる通りよ。そのくせだけは是非おやめにならないといけませんわ」

「いったい何が強情なんだ」

「そりゃあたしにもよく解《わか》らないけれども」

「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」

「そうね」

「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」

「そうね。そんな事おっしゃるはずがないわね。またおっしゃったところで効目《ききめ》がなければ仕方がありませんからね」

「じゃどこが強情なんだ」

「どこがってお聴《き》きになっても駄目《だめ》よ。あたしにもよく解らないんですから。だけど、どこかにあるのよ、強情なところが」

「馬鹿」

 馬鹿と云われたお延はかえって心持ち好さそうに微笑した。お秀はたまらなくなった。

「兄さん、あなたなぜあたしの持って来たものを素直《すなお》にお取りにならないんです」

「素直にも義剛《ぎごわ》にも、取るにも取らないにも、お前の方でてんから出さないんじゃないか」

「あなたの方でお取りになるとおっしゃらないから、出せないんです」

「こっちから云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」

「しかし取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭《いや》ですもの」

「じゃどうすればいいんだ」

「解《わか》ってるじゃありませんか」

 三人はしばらく黙っていた。

 突然津田が云い出した。

「お延お前お秀に詫《あや》まったらどうだ」

 お延は呆《あき》れたように夫を見た。

「なんで」

「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すというつもりなんだろう。お秀の料簡《りょうけん》では」

「あたしが詫まるのは何でもないわ。あなたが詫まれとおっしゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」

 お延はここで訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後《あと》を遮《さえぎ》った。

「兄さん、あなた何をおっしゃるんです。あたしがいつ嫂《ねえ》さんに詫まって貰《もら》いたいと云いました。そんな言がかりを捏造《ねつぞう》されては、あたしが嫂さんに対して面目《めんぼく》なくなるだけじゃありませんか」

 沈黙がまた三人の上に落ちた。津田はわざと口を利《き》かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。

「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽しているつもりです。――」

 お秀がやっとこれだけ云いかけた時、津田は急に質問を入れた。

「ちょっとお待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」