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元日
元日を
御目出おめで
たいものと
極き
めたのは、一体
何処どこ
の誰か知らないが、世間が
夫そ
れに
雷同らいどう
しているうちは新聞社が困る
丈だけ
である。雑録でも短篇でも小説でも
乃至ないし
は俳句漢詩和歌でも、
苟いやし
くも元日の紙上にあらわれる以上は、いくら元日らしい顔をしたって、元日の作でないに
極きま
っている。
尤もっと
も
師走しわす
に想像を
逞たくま
しくしてはならぬと申し渡された次第でないから、
節季せっき
に正月らしい振をして何か書いて置けば、年内に
餅もち
を
搗つ
いといて、一夜明けるや否や
雑煮ぞうに
として
頬張ほおば
る位のものには違ないが、御目出たい実景の乏しい今日、御目出たい想像などは容易に新聞社の頭に宿るものではない。それを無理に御目出たがろうとすると、
所謂いわゆる
太倉たいそう
の
粟ぞく
陳々相依ちんちんあいよ
るという
頗すこぶ
る
目出度めでたく
ない現象に腐化して
仕舞しま
う。
諸君子は
已やむ
を得ず年にちなんで、鶏の事を書いたり、犬の事を書いたりするが、これは
寧むし
ろ
駄洒落だじゃれ
を引き延ばした位のもので、要するに元日及び新年の実質とは
痛痒相冒つうようあいおか
す所なき閑事業である。いくら初刷だって、そんな無駄話で
十頁ページ
も二十頁も埋られた日には、元日の新聞は単に重量に
於おい
て各社ともに競争する訳になるんだから、其の出来不出来に対する具眼の審判者は、読者のうちでただ
屑屋くずや
丈だけ
だろうと云われたって仕方がない。
さればと云って、既に何十頁と事が
極きま
ってる上に、頭数を
揃そろ
える方が便利だと云う訳であって見れば、たとい具眼者が屑屋だろうが
経師屋きょうじや
だろうが相手を
択えら
んで筆を
執と
るなんて
贅沢ぜいたく
の云われた
家業かぎょう
じゃない。去年は「元旦」と見出を置いて
一寸ちょっと
考えた。何も
浮うかん
で来なかったので、一昨年の元日の事を書いた。一昨年の元日に虚子が年始に来たから、
東北とうぼく
と云う
謡うたい
をうたったところ、虚子が鼓を打ち出したので、余の
謡うたい
が
大崩おおくずれ
になったという一段を
編輯へんしゅう
へ廻した。実は本当の元日なら、余の謡はもっと上手になってる訳だから、其の上手になった所を
有あり
の
儘まま
に告白したかったのだが、
如何いかん
せん、筆を
執と
ってる時は、元日にまだ
間ま
があったし、
且かつ
虚子が年始に見えるとも見えないとも
極き
まっていなかった上に、謡をうたう事も全然未定だったので、
営業上已やむ
を得ず一年前の
極きわ
めて告白し難い所を告白したのである。此の順で行くと此年は又去年の元日を読者に御覧に入れなければならん訳であるが、そうそう過去のまずい所ばかり
吹聴ふいちょう
するのは、
如何いか
にも現在の己に対して侮辱を加えるようで済まない気がするから
故意わざ
と略した。それで
猶なお
のこと
塞つか
えた。
元日新聞へ
載の
せるものには、どうも
斯こ
う云う困難が附帯して弱る。現に今原稿紙に向っているのは、実を云うと十二月二十三日である。
家うち
では
餅もち
もまだ
搗つ
かない。町内で松飾りを立てたものは一軒もない。机の前に
坐すわ
りながら何を書こうかと考えると、書く事の困難以外に何だか自分一人
御先走おさきばし
ってる様な気がする。それにも
拘かかわ
らず、書いてる事が
何処どこ
となく
屠蘇とそ
の
香か
を帯びているのは、正月を迎える想像力が豊富なためではない。何でも
接つ
ぎ合わせて物にしなければならない義務を心得た文学者だからである。もし世間が元日に対する
僻見へきけん
を撤回して、
吉凶禍福きっきょうかふく
共にこもごも起り得べき、平凡
且かつ
乱雑なる一日と
見做みな
して
呉く
れる様になったら、余も
亦また
余所行よそゆき
の色気を抜いて平常の心に立ち返る事が出来るから、たとい書く事に酔払いの調子が失せないにしても、もっと楽に片付けられるだろうと思う。
尤もっと
もそうなれば、初刷の頁も平常に復する訳だから、とくに元日に限って書かねばならぬ必要も消滅するかも知れない。それも
物淋ものさび
しい様だが、昨今の如き元日に対して調子を合せた文章を書こうとするのは、
丁度ちょうど
文部大臣が新しい材料のないのに
拘かかわ
らず、あらゆる卒業式に臨んで祝詞を読むと一般である。
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