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薤露行
世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸そぼくという点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏そしりは免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏まとまったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。
実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍おどらせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大おおいに参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似まねがしたくなるからやめた。
一 夢
百、二百、簇むらがる騎士は数をつくして北の方かたなる試合へと急げば、石に古ふりたるカメロットの館やかたには、ただ王妃ギニヴィアの長く牽ひく衣ころもの裾すその響ひびきのみ残る。
薄紅うすくれないの一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明らさまなるに、裳もすそのみは軽かろく捌さばく珠たまの履くつをつつみて、なお余りあるを後ろざまに石階の二級に垂れて登る。登り詰めたる階きざはしの正面には大いなる花を鈍色にびいろの奥に織り込める戸帳とばりが、人なきをかこち顔なる様にてそよとも動かぬ。ギニヴィアは幕の前に耳押し付けて一重向うに何事をか聴きく。聴きおわりたる横顔をまた真向まむこうに反かえして石段の下を鋭どき眼にて窺うかがう。濃こまやかに斑ふを流したる大理石の上は、ここかしこに白き薔薇ばらが暗きを洩もれて和やわらかき香かおりを放つ。君見よと宵よいに贈れる花輪のいつ摧くだけたる名残なごりか。しばらくはわが足に纏まつわる絹の音にさえ心置ける人の、何の思案か、屹きと立ち直りて、繊ほそき手の動くと見れば、深き幕の波を描いて、眩まばゆき光り矢の如く向い側なる室しつの中よりギニヴィアの頭かしらに戴いただける冠を照らす。輝けるは眉間みけんに中あたる金剛石ぞ。
「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚はばかり、地を憚かる中に、身も世も入いらぬまで力の籠こもりたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏おそれず。
「ギニヴィア!」と応こたえたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋うずめてまた捲まき返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬ほおの色は釣つり合わず蒼白あおじろい。
女は幕をひく手をつと放して内に入いる。裂目さけめを洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立きわだちて見える。左右に開く廻廊には円柱まるばしらの影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。
「北の方かたなる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉まゆに晴れがたき雲の蟠わだかまりて、弱き笑わらいの強しいて憂うれいの裏うちより洩れ来きたる。
「贈りまつれる薔薇の香かに酔えいて」とのみにて男は高き窓より表の方かたを見やる。折からの五月である。館を繞めぐりて緩ゆるく逝ゆく江に千本の柳が明かに影を
ひたして、空に崩くずるる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。河を隔てて木この間ま隠れに白く
ひく筋の、一縷いちるの糸となって烟けむりに入るは、立ち上のぼる朝日影に蹄ひづめの塵ちりを揚げて、けさアーサーが円卓の騎士と共に北の方かたへと飛ばせたる本道である。
「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂うき身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁えにしとならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚さんごの唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓に堰せかるるあの世までも渝かわらじ」と男は黒き瞳ひとみを返して女の顔を眤じっと見る。
「さればこそ」と女は右の手を高く挙あげて広げたる掌てのひらを竪たてにランスロットに向ける。手頸てくびを纏まとう黄金こがねの腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香かに酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束つかの間に危うきを貪むさぼりて、長き逢おう瀬せの淵ふちと変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然かつぜんと瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。
女は両手を延ばして、戴ける冠を左右より抑えて「この冠よ、この冠よ。わが額の焼ける事は」という。願う事の叶かなわばこの黄金、この珠玉たまの飾りを脱いで窓より下に投げ付けて見ばやといえる様さまである。白き腕かいなのすらりと絹をすべりて、抑えたる冠の光りの下には、渦を巻く髪の毛の、珠の輪には抑えがたくて、頬のあたりに靡なびきつつ洩れかかる。肩にあつまる薄紅の衣の袖そでは、胸を過ぎてより豊かなる襞ひだを描がいて、裾は強けれども剛かたからざる線を三筋ほど床ゆかの上まで引く。ランスロットはただ窈窕ようちょうとして眺めている。前後を截断せつだんして、過去未来を失念したる間にただギニヴィアの形のみがありありと見える。
機微の邃ふかきを照らす鏡は、女の有もてる凡すべてのうちにて、尤もっとも明かなるものという。苦しきに堪えかねて、われとわが頭かしらを抑えたるギニヴィアを打ち守る人の心は、飛ぶ鳥の影の疾ときが如くに女の胸にひらめき渡る。苦しみは払い落す蜘蛛くもの巣と消えて剰あますは嬉うれしき人の情なさけばかりである。「かくてあらば」と女は危うき間ひまに際どく擦すり込む石火の楽みを、長とこしえに続つづけかしと念じて両頬に笑えみを滴したたらす。
「かくてあらん」と男は始めより思い極めた態である。
「されど」と少時しばしして女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕あとを追い懸けて病癒いえぬと申し給え。この頃の蔭口かげぐち、二人をつつむ疑うたがいの雲を晴し給え」
「さほどに人が怖こわくて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。高き室しつの静かなる中に、常ならず快からぬ響が伝わる。笑えるははたとやめて「この帳とばりの風なきに動くそうな」と室の入口まで歩を移してことさらに厚き幕を揺り動かして見る。あやしき響は収まって寂寞じゃくまくの故もとに帰る。
「宵よべ見し夢の――夢の中なる響の名残か」と女の顔には忽たちまち紅こう落ちて、冠の星はきらきらと震う。男も何事か心躁さわぐ様にて、ゆうべ見しという夢を、女に物語らする。
「薔薇咲く日なり。白き薔薇と、赤き薔薇と、黄なる薔薇の間に臥ふしたるは君とわれのみ。楽しき日は落ちて、楽しき夕幕の薄明りの、尽くる限りはあらじと思う。その時に戴けるはこの冠なり」と指を挙げて眉間をさす。冠の底を二重にめぐる一疋ぴきの蛇は黄金こがねの鱗うろこを細かに身に刻んで、擡もたげたる頭かしらには青玉せいぎょくの眼がんを嵌はめてある。
「わが冠の肉に喰くい入るばかり焼けて、頭の上に衣きぬ擦する如き音を聞くとき、この黄金の蛇はわが髪を繞めぐりて動き出す。頭は君の方かたへ、尾はわが胸のあたりに。波の如くに延びるよと見る間まに、君とわれは腥なまぐさき縄にて、断つべくもあらぬまでに纏わるる。中四尺を隔てて近寄るに力なく、離るるに術すべなし。たとい忌いまわしき絆きずななりとも、この縄の切れて二人離れ離れにおらんよりはとは、その時苦しきわが胸の奥なる心遣こころやりなりき。囓かまるるとも螫ささるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の紅くれないなるが、めらめらと燃え出いだして、繋つなげる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋ひとひろ余りは、真中まなかより青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思えば、あやしき臭においを立ててふすと切れたり。身も魂もこれ限り消えて失うせよと念ずる耳元に、何者かからからと笑う声して夢は醒さめたり。醒めたるあとにもなお耳を襲う声はありて、今聞ける君が笑も、宵よべの名残かと骨を撼ゆるがす」と落ち付かぬ眼を長き睫まつげの裏に隠してランスロットの気色けしきを窺うかがう。七十五度の闘技に、馬の脊せを滑すべるは無論、鐙あぶみさえはずせる事なき勇士も、この夢を奇くしとのみは思わず。快からぬ眉根は自おのずから逼せまりて、結べる口の奥には歯さえ喰い締しばるならん。
「さらば行こう。後おくれ馳ばせに北の方かたへ行こう」と拱こまぬいたる手を振りほどいて、六尺二寸の躯からだをゆらりと起す。
「行くか?」とはギニヴィアの半ば疑える言葉である。疑える中には、今更ながら別れの惜まるる心地さえほのめいている。
「行く」といい放って、つかつかと戸口にかかる幕を半ば掲げたが、やがてするりと踵くびすを回めぐらして、女の前に、白き手を執りて、発熱かと怪しまるるほどのあつき唇を、冷やかに柔らかき甲の上につけた。暁の露しげき百合ゆりの花弁はなびらをひたふるに吸える心地である。ランスロットは後あとをも見ずして石階を馳け降りる。
やがて三たび馬の嘶いななく音ねがして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿たかどのを下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚よりて、かの人の出いづるを遅しと待つ。黒き馬の鼻面はなづらが下に見ゆるとき、身を半ば投げだして、行く人のために白き絹の尺ばかりなるを振る。頭に戴ける金冠の、美しき髪を滑りてか、からりと馬の鼻を掠かすめて砕くるばかりに石の上に落つる。
槍やりの穂先に冠をかけて、窓近く差し出したる時、ランスロットとギニヴィアの視線がはたと行き合う。「忌まわしき冠よ」と女は受けとりながらいう。「さらば」と男は馬の太腹をける。白き兜かぶとと挿毛さしげのさと靡なびくあとに、残るは漠々ばくばくたる塵ちりのみ。
二 鏡
ありのままなる浮世を見ず、鏡に写る浮世のみを見るシャロットの女は高き台うてなの中に只一人住む。活いける世を鏡の裡うちにのみ知る者に、面おもてを合わす友のあるべき由なし。
春恋し、春恋しと囀さえずる鳥の数々に、耳側そばだてて木この葉は隠れの翼の色を見んと思えば、窓に向わずして壁に切り込む鏡に向う。鮮あざやかに写る羽の色に日の色さえもそのままである。
シャロットの野に麦刈る男、麦打つ女の歌にやあらん、谷を渡り水を渡りて、幽かすかなる音の高き台に他界の声の如く糸と細りて響く時、シャロットの女は傾けたる耳を掩おおうてまた鏡に向う。河のあなたに烟けぶる柳の、果ては空とも野とも覚束おぼつかなき間より洩もれ出いづる悲しき調しらべと思えばなるべし。
シャロットの路みち行く人もまた悉ことごとくシャロットの女の鏡に写る。あるときは赤き帽の首打ち振りて馬追うさまも見ゆる。あるときは白き髯ひげの寛ゆるき衣を纏まといて、長き杖つえの先に小さき瓢ひさごを括くくしつけながら行く巡礼姿も見える。又あるときは頭かしらよりただ一枚と思わるる真白の上衣うわぎ被かぶりて、眼口も手足も確しかと分ちかねたるが、けたたましげに鉦かね打ち鳴らして過ぎるも見ゆる。これは癩らいをやむ人の前世の業ごうを自みずから世に告ぐる、むごき仕打ちなりとシャロットの女は知るすべもあらぬ。
旅商人たびあきゅうどの脊せに負える包つつみの中には赤きリボンのあるか、白き下着のあるか、珊瑚さんご、瑪瑙めのう、水晶、真珠のあるか、包める中を照らさねば、中にあるものは鏡には写らず。写らねばシャロットの女の眸ひとみには映ぜぬ。
古き幾世を照らして、今の世にシャロットにありとある物を照らす。悉く照らして択えらぶ所なければシャロットの女の眼に映るものもまた限りなく多い。ただ影なれば写りては消え、消えては写る。鏡のうちに永ながく停とどまる事は天に懸かかる日といえども難かたい。活いける世の影なればかく果は敢かなきか、あるいは活ける世が影なるかとシャロットの女は折々疑う事がある。明らさまに見ぬ世なれば影ともまこととも断じがたい。影なれば果敢なき姿を鏡にのみ見て不足はなかろう。影ならずば?――時にはむらむらと起る一念に窓際に馳かけよりて思うさま鏡の外ほかなる世を見んと思い立つ事もある。シャロットの女の窓より眼を放つときはシャロットの女に呪のろいのかかる時である。シャロットの女は鏡の限る天地のうちに跼蹐きょくせきせねばならぬ。一重隔て、二重隔てて、広き世界を四角に切るとも、自滅の期を寸時も早めてはならぬ。
去れどありのままなる世は罪に濁ると聞く。住み倦うめば山に遯のがるる心安さもあるべし。鏡の裏うちなる狭き宇宙の小さければとて、憂うき事の降りかかる十字の街ちまたに立ちて、行き交かう人に気を配る辛つらさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃ばんけいの乱れは永劫えいごうを極めて尽きざるを、渦捲まく中に頭かしらをも、手をも、足をも攫さらわれて、行くわれの果はては知らず。かかる人を賢しといわば、高き台うてなに一人を住み古りて、しろかねの白き光りの、表とも裏とも分ちがたきあたりに、幻の世を尺に縮めて、あらん命を土さえ踏まで過すは阿呆あほうの極みであろう。わが見るは動く世ならず、動く世を動かぬ物の助たすけにて、よそながら窺うかがう世なり。活殺生死かっさつしょうじの乾坤けんこんを定裏じょうりに拈出ねんしゅつして、五彩の色相を静中に描く世なり。かく観ずればこの女の運命もあながちに嘆くべきにあらぬを、シャロットの女は何に心を躁さわがして窓の外そとなる下界を見んとする。
鏡の長さは五尺に足らぬ。黒鉄くろがねの黒きを磨みがいて本来の白きに帰すマーリンの術になるとか。魔法に名を得し彼のいう。――鏡の表に霧こめて、秋の日の上れども晴れぬ心地なるは不吉の兆なり。曇る鑑かがみの霧を含みて、芙蓉ふように滴したたる音を聴きくとき、対むかえる人の身の上に危うき事あり。
然けきぜんと故ゆえなきに響を起して、白き筋の横縦に鏡に浮くとき、その人末期まつごの覚悟せよ。――シャロットの女が幾年月いくとしつきの久しき間この鏡に向えるかは知らぬ。朝あしたに向い夕ゆうべに向い、日に向い月に向いて、厭あくちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞おそれありとは夢にだも知らず。湛然たんぜんとして音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗えいろうたる面おもてを過ぐる森羅しんらの影の、繽紛ひんぷんとして去るあとは、太古の色なき境さかいをまのあたりに現わす。無限上に徹する大空たいくうを鋳固めて、打てば音ある五尺の裏うちに圧おし集めたるを――シャロットの女は夜ごと日ごとに見る。
夜ごと日ごとに鏡に向える女は、夜ごと日ごとに鏡の傍そばに坐りて、夜ごと日ごとの
はたを織る。ある時は明るき
はたを織り、ある時は暗き
はたを織る。
シャロットの女の投ぐる梭ひの音を聴く者は、淋さびしき皐おかの上に立つ、高き台うてなの窓を恐る恐る見上げぬ事はない。親も逝き子も逝きて、新しき代よにただ一人取り残されて、命長きわれを恨み顔なる年寄の如く見ゆるが、岡の上なるシャロットの女の住居すまいである。蔦つた鎖とざす古き窓より洩もるる梭の音の、絶間たえまなき振子しんしの如く、日を刻むに急なる様なれど、その音はあの世の音なり。静しずかなるシャロットには、空気さえ重たげにて、常ならば動くべしとも思われぬを、ただこの梭の音のみにそそのかされて、幽かにも震うか。淋しさは音なき時の淋しさにも勝まさる。恐る恐る高き台を見上げたる行人こうじんは耳を掩おおうて走る。
シャロットの女の織るは不断の
はたである。草むらの萌草もえぐさの厚く茂れる底に、釣鐘の花の沈める様を織るときは、花の影のいつ浮くべしとも見えぬほどの濃き色である。うな原のうねりの中に、雪と散る浪なみの花を浮かすときは、底知れぬ深さを一枚の薄きに畳む。あるときは黒き地じに、燃ゆる焔ほのおの色にて十字架を描く。濁世じょくせにはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯たてよこの目にも入ると覚しく、焔のみは
はたを離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚やけ落つるかと怪しまれて明るい。
恋の糸と誠まことの糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げるマリヤの姿となる。狂いを経たてに怒りを緯よこに、霰あられふる木枯こがらしの夜を織り明せば、荒野の中に白き髯ひげ飛ぶリアの面影が出る。恥ずかしき紅くれないと恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和おとなしき黄と思い上がれる紫を交かわる交がわるに畳めば、魔に誘われし乙女おとめの、我われは顔がおに高ぶれる態さまを写す。長き袂たもとに雲の如くにまつわるは人に言えぬ願ねがいの糸の乱れなるべし。
シャロットの女は眼まなこ深く額広く、唇さえも女には似で薄からず。夏の日の上のぼりてより、刻を盛る砂時計の九ここのたび落ち尽したれば、今ははや午ひる過ぎなるべし。窓を射る日の眩まばゆきまで明かなるに、室のうちは夏知らぬ洞窟どうくつの如くに暗い。輝けるは五尺に余る鉄の鏡と、肩に漂う長き髪のみ。右手めてより投げたる梭ひを左手ゆんでに受けて、女はふと鏡の裡うちを見る。研とぎ澄したる剣つるぎよりも寒き光の、例いつもながらうぶ毛の末をも照すよと思ううちに――底事なにごとぞ!音なくて颯さと曇るは霧か、鏡の面おもては巨人の息をまともに浴びたる如く光を失う。今まで見えたシャロットの岸に連なる柳も隠れる。柳の中を流るるシャロットの河も消える。河に沿うて往ゆきつ来りつする人影は無論ささぬ。――梭の音ははたとやんで、女の瞼まぶたは黒き睫まつげと共に微かすかに顫ふるえた。「凶事か」と叫んで鏡の前に寄るとき、曇は一刷いっさつに晴れて、河も柳も人影も元の如くに見あらわれる。梭は再び動き出す。
女はやがて世にあるまじき悲しき声にて歌う。
うつせみの世を、
うつつに住めば、
住みうからまし、
むかしも今も。」
うつくしき恋、
うつす鏡に、
色やうつろう、
朝な夕なに。」
鏡の中なる遠柳とおやなぎの枝が風に靡なびいて動く間あいだに、忽たちまち銀しろがねの光がさして、熱き埃ほこりを薄く揚げ出す。銀の光りは南より北に向って真一文字にシャロットに近付いてくる。女は小羊を覘ねらう鷲わしの如くに、影とは知りながら瞬またたきもせず鏡の裏うちを見み詰つむる。十丁ちょうにして尽きた柳の木立こだちを風の如くに駈かけ抜けたものを見ると、鍛え上げた鋼はがねの鎧よろいに満身の日光を浴びて、同じ兜かぶとの鉢金はちがねよりは尺に余る白き毛を、飛び散れとのみ
々さんさんと靡かしている。栗毛くりげの駒こまの逞たくましきを、頭かしらも胸も革かわに裹つつみて飾れる鋲びょうの数は篩ふるい落せし秋の夜の星宿せいしゅくを一度に集めたるが如き心地である。女は息を凝らして眼を据すえる。
曲がれる堤どてに沿うて、馬の首を少し左へ向け直すと、今までは横にのみ見えた姿が、真正面に鏡にむかって進んでくる。太き槍をレストに収めて、左の肩に盾たてを懸けたり。女は領えりを延ばして盾に描ける模様を確しかと見分けようとする体ていであったが、かの騎士は何の会釈もなくこの鉄鏡を突き破って通り抜ける勢いきおいで、いよいよ目の前に近づいた時、女は思わず梭ひを抛なげて、鏡に向って高くランスロットと叫んだ。ランスロットは兜かぶとの廂ひさしの下より耀かがやく眼を放って、シャロットの高き台うてなを見上げる。爛々らんらんたる騎士の眼と、針を束つかねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡うちにてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍そばに馳かけ寄って蒼あおき顔を半ば世の中に突き出いだす。人と馬とは、高き台の下を、遠きに去る地震の如くに馳け抜ける。
ぴちりと音がして皓々こうこうたる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面おもては再びぴちぴちと氷を砕くが如く粉こな微塵みじんになって室しつの中に飛ぶ。七巻ななまき八巻やまき織りかけたる布帛きぬはふつふつと切れて風なきに鉄片と共に舞い上る。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切ちぎれ、解け、もつれて土つち蜘蛛ぐもの張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつわる。「シャロットの女を殺すものはランスロット。ランスロットを殺すものはシャロットの女。わが末期まつごの呪のろいを負うて北の方かたへ走れ」と女は両手を高く天に挙げて、朽ちたる木の野分のわきを受けたる如く、五色の糸と氷を欺あざむく砕片の乱るる中に
どうと仆たおれる。
三 袖
可憐かれんなるエレーンは人知らぬ菫すみれの如くアストラットの古城を照らして、ひそかに墜おちし春の夜の星の、紫深き露に染まりて月日を経たり。訪とう人は固もとよりあらず。共に住むは二人の兄と眉まゆさえ白き父親のみ。
「騎士はいずれに去る人ぞ」と老人は穏かなる声にて訪う。
「北の方かたなる仕合に参らんと、これまでは鞭むちうって追懸けたれ。夏の日の永きにも似ず、いつしか暮れて、暗がりに路さえ岐わかれたるを。――乗り捨てし馬も恩に嘶いななかん。一夜の宿の情け深きに酬むくいまつるものなきを恥ず」と答えたるは、具足を脱いで、黄なる袍ほうに姿を改めたる騎士なり。シャロットを馳はせる時何事とは知らず、岩の凹くぼみの秋の水を浴びたる心地して、かりの宿りを求め得たる今に至るまで、頬ほおの蒼あおきが特更ことさらの如くに目に立つ。
エレーンは父の後ろに小さき身を隠して、このアストラットに、如何いかなる風の誘いてか、かく凛々りりしき壮夫ますらおを吹き寄せたると、折々は鶴つると瘠やせたる老人の肩をすかして、恥かしの睫まつげの下よりランスロットを見る。菜の花、豆の花ならば戯るる術すべもあろう。偃蹇えんけんとして澗底かんていに嘯うそぶく松が枝えには舞い寄る路のとてもなければ、白き胡蝶こちょうは薄き翼を収めて身動きもせぬ。
「無心ながら宿貸す人に申す」とややありてランスロットがいう。「明日あすと定まる仕合の催しに、後おくれて乗り込む我の、何の誰たれよと人に知らるるは興なし。新しきを嫌きらわず、古きを辞せず、人の見知らぬ盾たてあらば貸し玉え」
老人ははたと手を拍うつ。「望める盾を貸し申そう。――長男チアーは去さんぬる騎士の闘技に足を痛めて今なお蓐じょくを離れず。その時彼が持ちたるは白地に赤く十字架を染めたる盾なり。ただの一度の仕合に傷きずつきて、その創口きずぐちはまだ癒いえざれば、赤き血架は空むなしく壁に古りたり。これを翳かざして思う如く人々を驚かし給え」
ランスロットは腕を扼やくして「それこそは」という。老人はなお言葉を継ぐ。
「次男ラヴェンは健気けなげに見ゆる若者にてあるを、アーサー王の催もよおしにかかる晴の仕合に参り合わせずば、騎士の身の口惜しかるべし。ただ君が栗毛の蹄ひづめのあとに倶ぐし連れよ。翌日あすを急げと彼に申し聞かせんほどに」
ランスロットは何の思案もなく「心得たり」と心安げにいう。老人の頬ほおに畳める皺しわのうちには、嬉うれしき波がしばらく動く。女ならずばわれも行かんと思えるはエレーンである。
木に倚よるは蔦つた、まつわりて幾世を離れず、宵よいに逢あいて朝あしたに分るる君と我の、われにはまつわるべき月日もあらず。繊ほそき身の寄り添わば、幹吹く嵐あらしに、根なしかずらと倒れもやせん。寄り添わずば、人知らずひそかに括くくる恋の糸、振り切って君は去るべし。愛溶けて瞼まぶたに余る、露の底なる光りを見ずや。わが住める館やかたこそ古るけれ、春を知る事は生れて十八度に過ぎず。物の憐あわれの胸に漲みなぎるは、鎖とざせる雲の自おのずから晴れて、麗うららかなる日影の大地を渡るに異ならず。野をうずめ谷を埋うずめて千里の外ほかに暖かき光りをひく。明かなる君が眉目びもくにはたと行き逢える今の思おもいは、坑あなを出でて天下の春風はるかぜに吹かれたるが如きを――言葉さえ交かわさず、あすの別れとはつれなし。
燭しょく尽きて更こうを惜おしめども、更尽きて客は寝いねたり。寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳ひとみの奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力つとめたれど詮せんなし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏うちに潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろしと思いし夜もある。魂たま消ぎえる物ものの怪けの話におののきて、眠らぬ耳に鶏の声をうれしと起き出でた事もある。去れど恐ろしきも苦しきも、皆われ安かれと願う心の反響に過ぎず。われという可愛かわゆき者の前に夢の魔を置き、物の怪の祟たたりを据えての恐おそれと苦しみである。今宵こよいの悩みはそれらにはあらず。我という個霊の消え失うせて、求むれども遂ついに得がたきを、驚きて迷いて、果ては情なくてかくは乱るるなり。我を司つかさどるものの我にはあらで、先に見し人の姿なるを奇くしく、怪しく、悲しく念じ煩うなり。いつの間に我はランスロットと変りて常の心はいずこへか喪うしなえる。エレーンとわが名を呼ぶに、応うるはエレーンならず、中庭に馬乗り捨てて、廂ひさし深き兜かぶとの奥より、高き櫓やぐらを見上げたるランスロットである。再びエレーンと呼ぶにエレーンはランスロットじゃと答える。エレーンは亡うせてかと問えばありという。いずこにと聞けば知らぬという。エレーンは微かすかなる毛孔けあなの末に潜みて、いつか昔しの様に帰らん。エレーンに八万四千の毛孔ありて、エレーンが八万四千壺この香油を注いで、日にその膚はだえを滑なめらかにするとも、潜めるエレーンは遂に出現し来きたる期ごはなかろう。
やがてわが部屋の戸帳とばりを開きて、エレーンは壁に釣つる長き衣きぬを取り出いだす。燭にすかせば燃ゆる真紅の色なり。室にはびこる夜よるを呑のんで、一枚の衣に真昼の日影を集めたる如く鮮あざやかである。エレーンは衣の領えりを右手めてにつるして、暫しばらくは眩まばゆきものと眺ながめたるが、やがて左に握る短刀を鞘さやながら二、三度振る。からからと床ゆかに音さして、すわという間まに閃ひらめきは目を掠かすめて紅くれない深きうちに隠れる。見れば美しき衣の片袖は惜気もなく断たれて、残るは鞘の上にふわりと落ちる。途端に裸ながらの手燭てしょくは、風に打たれて颯さと消えた。外は片破月かたわれづきの空に更ふけたり。
右手めてに捧ささぐる袖の光をしるべに、暗きをすりぬけてエレーンはわが部屋を出る。右に折れると兄の住居すまい、左を突き当れば今宵の客の寝所である。夢の如くなよやかなる女の姿は、地を踏まざるに歩めるか、影よりも静かにランスロットの室の前にとまる。――ランスロットの夢は成らず。
聞くならくアーサー大王のギニヴィアを娶めとらんとして、心惑える折、居いながらに世の成行なりゆきを知るマーリンは、首を掉ふりて慶事を肯がえんんぜず。この女後のちに思わぬ人を慕う事あり、娶る君に悔くいあらん。とひたすらに諫いさめしとぞ。聞きたる時の我に罪なければ
思わぬ人
の誰たれなるかは知るべくもなく打ち過ぎぬ。
思わぬ人
の誰なるかを知りたる時、天あめが下したに数多く生れたるもののうちにて、この悲しき命さだめに廻めぐり合せたる我を恨み、このうれしき幸さちを享うけたる己おのれを悦よろこびて、楽みと苦みの綯ないまじりたる縄を断たんともせず、この年月としつきを経たり。心疚やましきは願わず。疚ましき中に蜜あるはうれし。疚ましければこそ蜜をも醸かもせと思う折さえあれば、卓を共にする騎士の我を疑うこの日に至るまで王妃を棄すてず。ただ疑の積もりて証拠あかしと凝らん時――ギニヴィアの捕われて杭くいに焼かるる時――この時を思えばランスロットの夢はいまだ成らず。
眠られぬ戸に何物かちょと障さわった気合けわいである。枕を離るる頭かしらの、音する方かたに、しばらくは振り向けるが、また元の如く落ち付いて、あとは古城の亡骸なきがらに脈も通わず。静しずかである。
再び障った音は、殆ほとんど敲たたいたというべくも高い。慥たしかに人ありと思い極きわめたるランスロットは、やおら身を臥所ふしどに起して、「たぞ」といいつつ戸を半ば引く。差しつくる蝋燭ろうそくの火のふき込められしが、取り直して今度は戸口に立てる乙女の方かたにまたたく。乙女の顔は翳かざせる赤き袖の影に隠れている。面映おもはゆきは灯火ともしびのみならず。
「この深き夜よを……迷えるか」と男は驚きの舌を途切れ途切れに動かす。
「知らぬ路にこそ迷え。年古るく住みなせる家のうちを――鼠ねずみだに迷わじ」と女は微かなる声ながら、思い切って答える。
男はただ怪しとのみ女の顔を打ち守る。女は尺に足らぬ紅絹もみの衝立ついたてに、花よりも美くしき顔をかくす。常に勝まさる豊頬ほうきょうの色は、湧わく血潮の疾とく流るるか、あざやかなる絹のたすけか。ただ隠しかねたる鬢びんの毛の肩に乱れて、頭には白き薔薇を輪に貫ぬきて三輪挿さしたり。
白き香りの鼻を撲うって、絹の影なる花の数さえ見分けたる時、ランスロットの胸には忽ちギニヴィアの夢の話が湧き帰る。何故なにゆえとは知らず、悉ことごとく身は痿なえて、手に持つ燭を取り落せるかと驚ろきて我に帰る。乙女はわが前に立てる人の心を読む由もあらず。
「紅くれないに人のまことはあれ。恥ずかしの片袖を、乞こわれぬに参らする。兜かぶとに捲まいて勝負せよとの願なり」とかの袖を押し遣る如く前に出いだす。男は容易に答えぬ。
「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗のぞく。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「戦たたかいに臨む事は大小六十余度、闘技の場に登って槍を交えたる事はその数を知らず。いまだ佳人の贈り物を、身に帯びたる試ためしなし。情なさけあるあるじの子の、情深き賜物を辞いなむは礼なけれど……」
「礼ともいえ、礼なしともいいてやみね。礼のために、夜よを冒して参りたるにはあらず。思の籠こもるこの片袖を天が下の勇士に贈らんために参りたり。切に受けさせ給え」とここまで踏み込みたる上は、かよわき乙女の、かえって一徹に動かすべくもあらず。ランスロットは惑まどう。
カメロットに集まる騎士は、弱きと強きを通じてわが盾の上に描かれたる紋章を知らざるはあらず。またわが腕に、わが兜に、美しき人の贈り物を見たる事なし。あすの試合に後るるは、始めより出づるはずならぬを、半途より思い返しての仕業しわざ故である。闘技の埒らちに馬乗り入れてランスロットよ、後れたるランスロットよ、と謳うたわるるだけならばそれまでの浮名である。去れど後れたるは病のため、後れながらも参りたるはまことの病にあらざる証拠あかしよといわば何と答えん。今幸さいわいに知らざる人の盾を借りて、知らざる人の袖を纏まとい、二十三十の騎士を斃たおすまで深くわが面おもてを包まば、ランスロットと名乗りをあげて人驚かす夕暮に、――誰たれ彼かれ共にわざと後れたる我を肯うけがわん。病と臥せる我の作略さりゃくを面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットは漸ようやくに心を定める。
部屋のあなたに輝くは物の具である。鎧よろいの胴に立て懸けたるわが盾を軽々かろがろと片手に提さげて、女の前に置きたるランスロットはいう。
「嬉しき人の真心を兜にまくは騎士の誉ほまれ。ありがたし」とかの袖を女より受取る。
「うけてか」と片頬かたほに笑えめる様は、谷間の姫ひめ百合ゆりに朝日影さして、しげき露の痕あとなく晞かわけるが如し。
「あすの勝負に用なき盾を、逢うまでの形身かたみと残す。試合果てて再びここを過よぎるまで守り給え」
「守らでやは」と女は跪ひざまずいて両手に盾を抱いだく。ランスロットは長き袖を眉のあたりに掲げて、「赤し、赤し」という。
この時櫓やぐらの上を烏からす鳴き過ぎて、夜よはほのぼのと明け渡る。
四 罪
アーサーを嫌きらうにあらず、ランスロットを愛するなりとはギニヴィアの己おのれにのみ語る胸のうちである。
北の方かたなる試合果てて、行けるものは皆館やかたに帰れるを、ランスロットのみは影さえ見えず。帰れかしと念ずる人の便たよりは絶えて、思わぬものの
くつわを連ねてカメロットに入るは、見るも益なし。一日には二日を数え、二日には三日を数え、遂ついに両手の指を悉ことごとく折り尽して十日に至る今日こんにちまでなお帰るべしとの願ねがいを掛けたり。
「遅き人のいずこに繋つながれたる」とアーサーはさまでに心を悩ませる気色けしきもなくいう。
高き室しつの正面に、石にて築く段は二級、半ばは厚き毛氈もうせんにて蔽おおう。段の上なる、大おおいなる椅子いすに豊かに倚よるがアーサーである。
「繋ぐ日も、繋ぐ月もなきに」とギニヴィアは答うるが如く答えざるが如くもてなす。王を二尺左に離れて、床几しょうぎの上に、纎ほそき指を組み合せて、膝ひざより下は長き裳もすそにかくれて履くつのありかさえ定かならず。
よそよそしくは答えたれ、心はその人の名を聞きてさえ躍おどるを。話しの種の思う坪に生はえたるを、寒き息にて吹き枯らすは口惜し。ギニヴィアはまた口を開く。
「後おくれて行くものは後れて帰る掟おきてか」といい添えて片頬かたほに笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐きりに刺されし痛いたみを受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には颯さと音がして熱き血を注さす。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖そでの主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛さしげに、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に
美しき少女
というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾いく日ひを繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
「
美しき少女
!
美しき少女
!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履くつに三たび石の床ゆかを踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。
夫に二心ふたごころなきを神の道との教おしえは古るし。神の道に従うの心易きも知らずといわじ。心易きを自ら捨てて、捨てたる後の苦しみを嬉うれしと見しも君がためなり。春風しゅんぷうに心なく、花自おのずから開く。花に罪ありとは下くだれる世の言の葉に過ぎず。恋を写す鏡の明あきらかなるは鏡の徳なり。かく観ずる裡うちに、人にも世にも振り棄すてられたる時の慰藉いしゃはあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆くつがえされて、踵くびすを支ささうるに一塵いちじんだになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎とがも恐れず、世を憚はばかりの関せき一重ひとえあなたへ越せば、生涯の落おち付つきはあるべしと念じたるに、引き寄せたる磁石は火打石と化して、吸われし鉄は無限の空裏を冥府よみへ隕おつる。わが坐すわる床几の底抜けて、わが乗る壇の床崩くずれて、わが踏む大地の殻こく裂けて、己れを支うる者は悉く消えたるに等し。ギニヴィアは組める手を胸の前に合せたるまま、右左より骨も摧くだけよと圧おす。片手に余る力を、片手に抜いて、苦しき胸の悶もだえを人知れぬ方かたへ洩もらさんとするなり。
「なに事ぞ」とアーサーは聞く。
「なに事とも知らず」と答えたるは、アーサーを欺けるにもあらず、また己おのれを誣しいたるにもあらず。知らざるを知らずといえるのみ。まことはわが口にせる言葉すら知らぬ間に咽のどを転まろび出いでたり。
ひく浪なみの返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛かむ勢いきおいの、前よりは凄すさまじきを、浪自みずからさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然ゆうぜんとして常よりも切なきわれに復かえる。何事も解せぬ風情ふぜいに、驚ろきの眉まゆをわが額の上にあつめたるアーサーを、わが夫と悟れる時のギニヴィアの眼には、アーサーは少しばらく前のアーサーにあらず。
人を傷きずつけたるわが罪を悔ゆるとき、傷負える人の傷ありと心付かぬ時ほど悔くいの甚はなはだしきはあらず。聖徒に向って鞭むちを加えたる非の恐しきは、鞭むちうてるものの身に跳はね返る罰なきに、自みずからとその非を悔いたればなり。われを疑うアーサーの前に恥ずる心は、疑わぬアーサーの前に、わが罪を心のうちに鳴らすが如く痛からず。ギニヴィアは悚然しょうぜんとして骨に徹する寒さを知る。
「人の身の上はわが上とこそ思え。人恋わぬ昔は知らず、嫁とつぎてより幾夜か経たる。赤き袖の主のランスロットを思う事は、御身おんみのわれを思う如くなるべし。贈り物あらば、われも十日を、二十日はつかを、帰るを、忘るべきに、罵ののしるは卑いやし」とアーサーは王妃の方かたを見て不審の顔付である。
「
美しき少女
!」とギニヴィアは三たびエレーンの名を繰り返す。このたびは鋭どき声にあらず。去りとては憐あわれを寄せたりとも見えず。
アーサーは椅子に倚る身を半ば回めぐらしていう。「御身とわれと始めて逢える昔を知るか。丈じょうに余る石の十字を深く地に埋うずめたるに、蔦つた這はいかかる春の頃なり。路みちに迷いて御堂みどうにしばし憩いこわんと入れば、銀に鏤ちりばむ祭壇の前に、空色の衣きぬを肩より流して、黄金こがねの髪に雲を起せるは誰たぞ」
女はふるえる声にて「ああ」とのみいう。床ゆかしからぬにもあらぬ昔の、今は忘るるをのみ心易しと念じたる矢先に、忽然こつぜんと容赦もなく描き出されたるを堪えがたく思う。
「安からぬ胸に、捨てて行ける人の帰るを待つと、凋しおれたる声にてわれに語る御身の声をきくまでは、天あまつ下くだれるマリヤのこの寺の神壇に立てりとのみ思えり」
逝ゆける
日
は追えども帰らざるに逝ける
事
は長とこしえに暗きに葬むる能あたわず。思うまじと誓える心に発矢はっしと中あたる古き火花もあり。
「伴いて館に帰し参らせんといえば、黄金の髪を動かして何処いずこへとも、とうなずく……」と途中に句を切ったアーサーは、身を起して、両手にギニヴィアの頬を抑おさえながら上より妃の顔を覗き込む。新たなる記憶につれて、新たなる愛の波が、一しきり打ち返したのであろう。――王妃の顔は屍しかばねを抱いだくが如く冷たい。アーサーは覚えず抑えたる手を放す。折から廻廊を遠く人の踏む音がして、罵ののしる如き幾多の声は次第にアーサーの室に逼せまる。
入口に掛けたる厚き幕は総ふさに絞らず。長く垂れて床をかくす。かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈たけ高き一人の男があらわれた。モードレッドである。
モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて入いるはアグラヴェン、逞たくましき腕の、寛ゆるき袖を洩れて、赭あかき頸くびの、かたく衣の襟えりに括くくられて、色さえ変るほど肉づける男である。二人の後あとには物色する遑いとまなきに、どやどやと、我勝ちに乱れ入りて、モードレッドを一人ひとり前に、ずらりと並ぶ、数は凡すべてにて十二人。何事かなくては叶かなわぬ。
モードレッドは、王に向って会釈せる頭かしらを擡もたげて、そこ力のある声にていう。「罪あるを罰するは王者おうしゃの事か」
「問わずもあれ」と答えたアーサーは今更という面持おももちである。
「罪あるは高きをも辞せざるか」とモードレッドは再び王に向って問う。
アーサーは我とわが胸を敲たたいて「黄金の冠は邪よこしまの頭に戴いただかず。天子の衣は悪を隠さず」と壇上に延び上る。肩に括くくる緋ひの衣の、裾は開けて、白き裏が雪の如く光る。
「罪あるを許さずと誓わば、君が傍かたえに坐せる女をも許さじ」とモードレッドは臆おくする気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの眉間みけんを指さす。ギニヴィアは屹きと立ち上る。
茫然ぼうぜんたるアーサーは雷火に打たれたる唖おしの如く、わが前に立てる人――地を抽ぬき出でし巌いわおとばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我を誣しいるか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐いつわりは天も照覧あれ」と繊ほそき手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹たかの眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃のがれず」と口々にいう。
ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に扶たすけて「ランスロット!」と幽かすかに叫ぶ。王は迷う。肩に纏まつわる緋の衣の裏を半ば返して、右手めての掌たなごころを十三人の騎士に向けたるままにて迷う。
この時館の中に「黒し、黒し」と叫ぶ声が石
せきちょうに響ひびきを反かえして、窈然ようぜんと遠く鳴る木枯こがらしの如く伝わる。やがて河に臨む水門を、天にひびけと、錆さびたる鉄鎖に軋きしらせて開く音がする。室の中なる人々は顔と顔を見合わす。只事ただごとではない。
五 舟
「
かぶとに巻ける絹の色に、槍突き合わす敵の目も覚さむべし。ランスロットはその日の試合に、二十余人の騎士を仆たおして、引き挙ぐる間際まぎわに始めてわが名をなのる。驚く人の醒さめぬ間まを、ラヴェンと共に埒らちを出でたり。行く末は勿論もちろんアストラットじゃ」と三日過ぎてアストラットに帰れるラヴェンは父と妹に物語る。
「ランスロット?」と父は驚きの眉まゆを張る。女は「あな」とのみ髪に挿さす花の色を顫ふるわす。
「二十余人の敵と渡り合えるうち、何者かの槍やりを受け損じてか、鎧よろいの胴を二寸下さがりて、左の股またに創きずを負う……」
「深き創か」と女は片唾かたずを呑んで、懸念の眼を
みはる。
「鞍くらに堪えぬほどにはあらず。夏の日の暮れがたきに暮れて、蒼あおき夕ゆうべを草深き原のみ行けば、馬の蹄ひづめは露に濡ぬれたり。――二人は一言ひとことも交かわさぬ。ランスロットの何の思案に沈めるかは知らず、われは昼の試合のまたあるまじき派手やかさを偲しのぶ。風渡る梢こずえもなければ馬の沓くつの地を鳴らす音のみ高し。――路は分れて二筋となる」
「左へ切ればここまで十哩マイルじゃ」と老人が物知り顔にいう。
「ランスロットは馬の頭かしらを右へ立て直す」
「右? 右はシャロットへの本街道、十五哩は確かにあろう」これも老人の説明である。
「そのシャロットの方かたへ――後あとより呼ぶわれを顧みもせで轡くつわを鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶いななける事なり。嘶く声の果はて知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻あがきの常の如く、わが手綱たづなの思うままに運びし時は、ランスロットの影は、夜よと共に微かすかなる奥に消えたり。――われは鞍を敲たたいて追う」
「追い付いてか」と父と妹は声を揃そろえて問う。
「追い付ける時は既に遅くあった。乗る馬の息の、闇やみ押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに鞭むちうって長き路を一散に馳かけ通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似まねして行く。幽かすかに聞えたるは轡くつわの音か。怪しきは差して急げる様もなきに容易たやすくは追い付かれず。漸ようやくの事間あいだ一丁ほどに逼せまりたる時、黒きものは夜の中に織り込まれたる如く、ふっと消える。合点がてん行かぬわれは益ますます追う。シャロットの入口に渡したる石橋に、蹄も砕けよと乗り懸けしと思えば、馬は何物にか躓つまずきて前足を折る。騎のるわれは鬣たてがみをさかに扱こいて前にのめる。戞かつと打つは石の上と心得しに、われより先に斃たおれたる人の鎧よろいの袖なり」
「あぶない!」と老人は眼の前の事の如くに叫ぶ。
「あぶなきはわが上ならず。われより先に倒れたるランスロットの事なり……」
「倒れたるはランスロットか」と妹は魂たま消ぎゆるほどの声に、椅子の端はじを握る。椅子の足は折れたるにあらず。
「橋の袂たもとの柳の裏うちに、人住むとしも見えぬ庵室あんしつあるを、試みに敲けば、世を逃のがれたる隠士の居きょなり。幸いと冷たき人を担かつぎ入るる。兜かぶとを脱げば眼さえ氷りて……」
「薬を掘り、草を煮るは隠士の常なり。ランスロットを蘇よみがえしてか」と父は話し半ばに我句を投げ入るる。
「よみ返しはしたれ。よみにある人と択えらぶ所はあらず。われに帰りたるランスロットはまことのわれに帰りたるにあらず。魔に襲われて夢に物いう人の如く、あらぬ事のみ口走る。あるときは罪々と叫び、あるときは王妃――ギニヴィア――シャロットという。隠士が心を込むる草の香かおりも、煮えたる頭かしらには一点の涼気を吹かず。……」
「枕辺まくらべにわれあらば」と少女おとめは思う。
「一夜いちやの後のちたぎりたる脳の漸く平らぎて、静かなる昔の影のちらちらと心に映る頃、ランスロットはわれに去れという。心許さぬ隠士は去るなという。とかくして二日を経たり。三日目の朝、われと隠士の眠ねむり覚めて、病む人の顔色の、今朝けさ如何いかがあらんと臥所ふしどを窺うかがえば――在あらず。剣つるぎの先にて古壁に刻み残せる句には
罪はわれを追い
、
われは罪を追う
とある」
「逃のがれしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。
「いずこと知らば尋ぬる便りもあらん。茫々ぼうぼうと吹く夏野の風の限りは知らず。西東日の通う境は極きわめがたければ、独ひとり帰り来ぬ。――隠士はいう、病やまい怠らで去る。かの人の身は危うし。狂いて走る方かたはカメロットなるべしと。うつつのうちに口走れる言葉にてそれと察せしと見ゆれど、われは確しかと、さは思わず」と語り終って盃さかずきに盛る苦き酒を一息に飲み干して虹にじの如き気を吹く。妹は立ってわが室に入る。
花に戯むるる蝶ちょうのひるがえるを見れば、春に憂うれいありとは天下を挙げて知らぬ。去れど冷やかに日落ちて、月さえ闇やみに隠るる宵よいを思え。――ふる露のしげきを思え。――薄き翼のいかばかり薄きかを思え。――広き野の草の陰に、琴の爪つめほど小ちいさきものの潜むを思え。――畳む羽に置く露の重きに過ぎて、夢さえ苦しかるべし。果知らぬ原の底に、あるに甲斐かいなき身を縮めて、誘う風にも砕くる危うきを恐るるは淋さびしかろう。エレーンは長くは持たぬ。
エレーンは盾を眺めている。ランスロットの預けた盾を眺め暮している。その盾には丈高き女の前に、一人の騎士が跪ひざまずいて、愛と信とを誓える模様が描かれている。騎士の鎧は銀、女の衣は炎の色に燃えて、地じは黒に近き紺を敷く。赤き女のギニヴィアなりとは憐れなるエレーンの夢にだも知る由がない。
エレーンは盾の女を己れと見立てて、跪まずけるをランスロットと思う折さえある。
かくあれ
と念ずる思いの、いつか心の裏うちを抜け出でて、
かくの通り
と盾の表にあらわれるのであろう。
かくありて後
と、あらぬ礎いしずえを一度び築ける上には、そら事を重ねて、そのそら事の未来さえも想像せねばやまぬ。
重ね上げたる空想は、また崩れる。児戯に積む小石の塔を蹴け返かえす時の如くに崩れる。崩れたるあとのわれに帰りて見れば、ランスロットはあらぬ。気を狂いてカメロットの遠きに走れる人の、わが傍そばにあるべき所謂いわれはなし。離るるとも、誓ちかいさえ渝かわらずば、千里を繋ぐ牽ひき綱つなもあろう。ランスロットとわれは何を誓える? エレーンの眼には涙が溢あふれる。
涙の中にまた思い返す。ランスロットこそ誓わざれ。一人誓えるわれの渝るべくもあらず。二人の中に成り立つをのみ誓とはいわじ。われとわが心にちぎるも誓には洩もれず。この誓だに破らずばと思い詰める。エレーンの頬の色は褪あせる。
死ぬ事の恐しきにあらず、死したる後にランスロットに逢いがたきを恐るる。去れどこの世にての逢いがたきに比ぶれば、未来に逢うのかえって易やすきかとも思う。罌粟けし散るを憂うしとのみ眺むべからず、散ればこそまた咲く夏もあり。エレーンは食を断った。
衰えは春野焼く火と小さき胸を侵おかして、愁うれいは衣に堪えぬ玉骨ぎょっこつを寸々すんずんに削る。今までは長き命とのみ思えり。よしやいつまでもと貪むさぼる願はなくとも、死ぬという事は夢にさえ見しためしあらず、束つかの間まの春と思いあたれる今日となりて、つらつら世を観ずれば、日に開く蕾つぼみの中にも恨うらみはあり。円まるく照る明月のあすをと問わば淋しからん。エレーンは死ぬより外の浮世に用なき人である。
今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文ふみかきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「天あめが下したに慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎かげろう燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水どすいの因果を受くる理ことわりなしと思えば。睫まつげに宿る露の珠たまに、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆もろくもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺そそげ。基督キリストも知る、死ぬるまで清き乙女おとめなり」
書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫ふるえたるは、老おいのためとも悲かなしみのためとも知れず。
女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの文ふみを握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣きぬにわれを着飾り給え。隙間すきまなく黒き布しき詰めたる小船こぶねの中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇ばら、白き百合ゆりを採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期ごなし。父と兄とは唯々いいとして遺言の如ごとく、憐れなる少女おとめの亡骸なきがらを舟に運ぶ。
古き江に漣さざなみさえ死して、風吹く事を知らぬ顔に平かである。舟は今緑り罩こむる陰を離れて中流に漕こぎ出いづる。櫂かい操あやつるはただ一人、白き髪の白き髯ひげの翁おきなと見ゆ。ゆるく掻かく水は、物憂げに動いて、一櫂ごとに鉛の如き光りを放つ。舟は波に浮ぶ睡蓮すいれんの睡れる中に、音もせず乗り入りては乗り越して行く。蕚うてな傾けて舟を通したるあとには、軽かろく曳ひく波足と共にしばらく揺れて花の姿は常の静しずけさに帰る。押し分けられた葉の再び浮き上る表には、時ならぬ露が珠を走らす。
舟は杳然ようぜんとして何処いずくともなく去る。美しき亡骸なきがらと、美しき衣きぬと、美しき花と、人とも見えぬ一個の翁とを載せて去る。翁は物をもいわぬ。ただ静かなる波の中に長き櫂をくぐらせては、くぐらす。木に彫る人を鞭むちうって起たたしめたるか、櫂を動かす腕の外ほかには活いきたる所なきが如くに見ゆる。
と見れば雪よりも白き白鳥が、収めたる翼に、波を裂いて王者の如く悠然ゆうぜんと水を練り行く。長き頸くびの高く伸のしたるに、気高き姿はあたりを払って、恐るるもののありとしも見えず。うねる流を傍目わきめもふらず、舳へさきに立って舟を導く。舟はいずくまでもと、鳥の羽はに裂けたる波の合わぬ間まを随したがう。両岸の柳は青い。
シャロットを過ぐる時、いずくともなく悲しき声が、左の岸より古き水の寂寞じゃくまくを破って、動かぬ波の上に響く。「うつせみの世を、……うつつ……に住めば……」絶えたる音はあとを引いて、引きたるはまたしばらくに絶えんとす。聞くものは死せるエレーンと、艫ともに坐る翁のみ。翁は耳さえ借さぬ。ただ長き櫂をくぐらせてはくぐらする。思うに聾つんぼなるべし。
空は打ち返したる綿を厚く敷けるが如く重い。流を挟はさむ左右の柳は、一本ごとに緑りをこめて濛々もうもうと烟る。娑婆しゃばと冥府めいふの界さかいに立ちて迷える人のあらば、その人の霊を並べたるがこの気色けしきである。画えに似たる少女おとめの、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。
舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く峙そばだてる楼閣の黒く水に映るのが物凄ものすごい。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニヴィアを前に、城中の男女なんにょが悉ことごとく集まる。
エレーンの屍しかばねは凡すべての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる黄金こがねの髪に埋うずめて、笑える如く横よこたわる。肉に付着するあらゆる肉の不浄を拭ぬぐい去って、霊その物の面影を口鼻こうびの間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌いまわしきものの痕あとなければ土に帰る人とは見えず。
王は厳おごそかなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は唖おうしの如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下くだりて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る文ふみを取り上げて何事と封を切る。
悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透き徹とおるエレーンの額に、顫ふるえたる唇をつけつつ「
美くしき少女
!」という。同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。
十三人の騎士は目と目を見合せた。
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